第六話
新手の軍勢が村内に押し入り隊列を整えるには、チコの配下が報せをもたらせてから凡そ十五分程度の時間を必要とした。
チコの決断は素早く、生き残りの村民を腹心のバトゥに率いらせ、村跡から落ち延びさせた。もちろん山道筋ではなく、村の周囲に繁る原生林の中、道無き道を進ませた。
村の中心に残ったのは、チコと彼の護衛らしき四名に、軍の襲来を報せた、まだあどけない顔立ちをした少年少女を加えた七名。
そして赤城と、縛られ地面に転がさている捕虜がいる。
先ほどから、チコたちの視線が赤城に刺さっている。ちらちらと窺うような視線を送る者たちに、赤城は応える言葉を持たなかった。
赤城は当初、村民らに混じってここを去ろうかと思っていた。妙に懐く子供が気にはなったが、母親が現れたことでその心配も無くなった。
周囲の状況を確認出来るまでは同行して、適当な頃合を見計らって離脱しようと思っていたのだ。
しかし、予想外の事態に直面したことで、その計画はご破算となった。あの男と道行きを共にする気にはなれなかった。
あの男、チコたちからはヌルと呼ばれていた男。
死んでいたはずの、あの男が皆に囲まれた中で息を吹き返したのだ。
そして開口一番に言い放った、あの言葉。
赤城は不愉快だった。
見知らぬ場所で見知らぬ人物に、気安く兄貴と呼ばれたくはなかった。
お前など知らぬと言下に突っ撥ねた赤城に、ヌルは周囲の光景に驚き言葉を上擦らせながらも続けた。
「そりゃねえよ、兄貴。本当に悪かった。勘弁してくれ! もう二度と、兄貴に楯突くような真似はしねえよ! 兄貴……無事で、良かった……本当に済まねえ……」
女房に支えられながら、周囲の驚愕の表情も意に介さず、ヌルはひたすらに赤城に頭を下げていた。
縋る様な眼をしていた。見覚えのある眼差し。
若い頃に二人で無茶をしていた頃、頼るように支えるように、赤城に向けられていた眼差し。
赤城の胸中は複雑であった。有り得べからざることが、我が身に降り掛かっている。そもそもいまの状況すらも理解出来てはいないというのに。
二人が戦わせた無言の視線の応酬はチコと女房に遮られ、ヌルは村人らに囲まれながら落ち延びていった。女房、アンジュは狂喜して旦那の杖代わりとなって歩みを促していった。
森の中に消えてゆく間、何度も何度も赤城を振り返るヌルの姿が赤城の脳裏に焼き付けられてしまった。
ふと、手に収まっていた煙草が空になってしまったことに気付いた。立て続けに吹かしていたが、後先も考えずに最後の一本に火を付けたところだった。
くしゃりと箱を握り潰し、足元に転がる兵士に向かって放り投げる。誰でも良いから、この憤懣をぶつけてやりたかった。
「来たぞ……みな抜かるな」
チコが重々しく、皆に注意を促す。
赤城の思考は、またも中途で遮られてしまった。
「手筈は間違えるなよ、コウキ……手柄を焦るな」
「解っている! くどいぞ、リオ」
リオ=タタールは内心、この数分の内で数度目の溜め息を吐いた。失点を取り戻そうとする同期、コウキ=サトの目が曇っていることは明白だった。
同期の助けにはなりたいと思う一方、前方から漂う荒廃した空気、火にくべられた死肉と材木が入り混じった匂い、それに辟易としている。
コウキが襲撃した村から単騎で逃げ延び、本人は任務の確実性を増す為と主張しているが、反乱分子の首謀者チコ=ユウリの発見を報じたことはリオ小隊全員に異常な興奮を与えた。
帝国が最優先で解決を図っている、反乱分子の捕縛。
その最大級の手柄が間近に転がっていると知って、兵たちは狂喜した。
しかし、普段は温厚かつ剽軽な部分を多く示しているリオは、珍しく緊張で表情を強張らせていた。なんとか手勢を落ち着かせて、コウキが襲撃した村へと軍勢を進めてきた。
その途上で村から追い散らされたコウキの手勢が十数名合流してきた。彼らは口々に、反乱分子の襲撃に遭って同僚たちが無残に殺されたことを訴えた。そしていまも村に留まり隠れている兵士の救出を訴えた。
その様子は、手柄を逸る兵たちに義憤の心をも芽生えさせ、普段の行軍訓練では見せたことも無い機動性を彼らに発揮させた。その結果、随分と早く村を視界に収めたのだ。
もはや手勢の勢いを留めることは難しい。コウキは自らの部下を率いて、村の外周を回り込んでの挟撃を提案してきた。反乱分子の逃亡を防ぐ為には、最善手であることに疑いはない。
別働隊を率いるコウキを送り出し、リオは己の周囲を固める手勢を馬上から見渡す。およそ三十名。この任務に先立って即席で編成された小隊であり、愛着は無いが、人間としてある種の本能からの情愛は微かに感じている。
願わくば、双方ともに被害を出さずに決着させたい。
リオの願いは、ほどなく結果を見せる。
「ぐぅ……投降しろ……さもなければ逃げろ。俺は、置いて行け」
ずりずりと身体を這わせている捕虜、トウマ=サトは、他の者たちに倣って、同じ方向に顔を向けて力無く言った。
虫の良いことを言っていると自覚しているが、このままでは乱戦の内に踏み潰されるか、人質として恥を晒すかのどちらかの未来しか思い浮かばなかった。
案の定、チコたちは気にした様子も無く、ひとかたまりになってなにごとかを相談している。可能な限り時間を稼ぎたいという意図のもと、チコがひとつの案を提案した。
「見たところ徒歩兵ばかりだな。ぎりぎりまで引き付けられる。私がまずは相手の出方を探ってみよう」
「でもさー、ご頭首。たぶん聞く耳持たないと思うぜ? ずいぶん殺気立ってるみたいだし」
「ロッカ、それでもだ。或いは、話しの通じる相手かもしれぬではないか」
少年、ロッカと呼ばれた、彼は頭の後ろで手を組んで物臭そうに鞍上で前後に身体を揺らせている。その様子に、ロッカと似た顔立ちの少女が、可愛らしい声で彼を嗜める。
「ロッカ! ふざけないの! リッカはチコ様に従います。しかし、危ないと思ったら……撃ちます」
愛くるしい表情を浮かべて小さな身体を馬に乗せている少女は、チコの無事ばかりを懸念して、やや物騒な言葉を吐いた。
二人の様子に小さく頷いたチコは、後ろを見返って赤城を視界に捉える。
折良くと云うべきか、指示する前に赤城は捕虜の縛った両手首を掴んで引立てたところだった。
察しの良い男だ、そう感心する。変わった風体の男だが、言葉では言い表すことの出来ない威圧感を放ち続けている。
下手をすれば数分後には乱戦となる。直ぐに逃げては村人らの安全が危ぶまれる為、些かは相手取らねばなるまい。その乱戦のなかに巻込んでしまう恐れが、チコを戸惑わせる。
よほど鈍感でもなければ、自分がどういう人間で、いまこの場がどういう状況か察しはつく筈である。
無関係であれば早々に逃げるだろう。引き留めてはいない。多少でも村に関わりがあれば、なんらかの発言があって然るべきだ。しかし、必要最低限の言葉しか発していない。
この男はどういう胆力をしているのか。全く臆した様子が無い。通りの先で隊列を整え始めた軍勢を目の当たりにしても、ふんと鼻で笑うだけで捕虜に目を向けていた。
チコはこの状況で少しでも時間を稼ぐ為の手段として捕虜を扱うつもりだ。しかし、赤城は己だけが生き残る為に、捕虜の傍を離れようとはしなかった。
捕虜を立たせた赤城の姿に、自分の意図を察してくれたのかとチコは思い込み、そこにはやや誤解が生じていたものの、幸いにして双方の言動からそれが表面化することはなかった。
赤城の視線が、馬上のチコを射貫く。なにを訴えているのだろう。
これまでにも多くの者たちの声無き声を受け止め、嘆きと悲しみを汲み取ってきたという些かの自負があった。しかし、この男はなにを考えているのか。
まだまだ精進が足りないなと、小さく顔を振ってチコは思考を切り替えた。
まずは時間を稼ぐ。これ以上この村で不幸を重ねる訳にはいかない。四半刻がいいところか。話しの通じる相手ならば良いが。
「おい……あっちの連中は、お前のお仲間か?」
「あ、ああ、そうだ。同じ駐屯地から来た連中だ」
「ふぅん……」
聞いてみたものの、さしたる興味も湧かなかった。目下の問題は煙草が切れたことだ。空箱を握り潰してから五分と経っていないが、既に限界であった。
苛立ちが次第に胸の内で募ってゆく。堪らなく不愉快だった。
儘ならない。己の意志が存在しない、望まぬ状況。
彼には我慢がならなかった。いつでも誰を相手にしても我を押し通して来た男には、全てが面倒に感じられてきた。
若い兵士が後ろ手に縛られたまま、恐怖を湛えた表情で自分を見ていることにふと気付く。
その視線を絡ませたまま、ぺとりと片手を自らの頬にあてる。
頬が緩んでいた。笑っているのか、俺は。
ならばなぜ、この小僧は怯えているのだろう。俺の笑顔が怖いのか。
赤城は億劫になってきた。昔からそうなのだ。気儘に振舞い、それが叶わぬと途端に飽きてしまい、物事を放り投げてしまう。
悪い癖だった。その癖が、久し振りに首をもたげてきた。
ふと見ればチコが一騎で前に出て行った。根性の有る野郎だと感心する。その直後に、俺には関係無えと思考が移る。
赤城は辺りの空気の変化を敏感に感じ取っていた。言葉では表現出来ない、独特な危険察知の本能。
人の群れ、悪意の塊りが、前方に見えるだけではない。そう本能が訴えていた。
ぐいと若い兵士を引っ張り、歩き出す。チコが向かった先とは反対の向きだ。それに目敏く少年ロッカが気付いて、馬に乗ったまま寄せて来た。
「おーい。どこ行くのさ? そいつは大事な捕虜だぜ、勝手に連れてくなよー」
「坊主……男はな、言われたことだけやってりゃ良いってもんじゃねえ。不言実行だ。解るか?」
「解らねえよ……どういうことさ?」
「直ぐに解る。おめえらの大将はご立派かもしらねえが、俺はとっくに汚れてるんでな」
ロッカにはその意味が皆目見当もつかないだけの言葉を置き捨てて、通りの反対側を進む。自分の勘が正しければ、この方法が手っ取り早く安全を確保出来るはず。上手くすればチコらも逃げ果せるだろう。
「奴ら、ですかね。この距離では区別がつきませんが、まだ居るとしたらツイてますな。よっぽどこの村には大層なものでもあるんでしょうかね」
リオ小隊において隊長補佐を役割とする兵士が、隊長リオに阿るように話し掛ける。
「もの、か。ひと、か。大切なものが、あるのだろうな」
リオの呟きは補佐役の耳には届かなかった。
無理もない。他の兵たちと同様に、彼も興奮に包まれている。手柄首が目前に控えているのだ。
そして彼も士官を志す兵士の一人であり、この任務で手柄を立てるであろう隊長に今から取り入っても損は無いと考えていた。
村の中心部まで二百歩に満たぬ距離まで隊列を進めてきた。反乱分子と思しき連中もこちらを視界に入れているはずだが、目立った動きは見せていない。事情は当然知る由もないが、彼らにとっては好都合であった。
「このまま兵たちをぶつけても?」
「悪手だ。騎馬が相手では容易く逃げられるだろう」
「では、やはり別働隊が配置に着くまでは迂闊に動けませんか」
「そうだな……それが最善だろう」
「む……一人、こちらに出て来ましたな」
リオもその人物を認めたと同時に、馬を上手に御しながら数歩を前に出て補佐役に言い付ける。
「俺の合図があるまでは動くなと兵たちには徹底させろ。奴らの出方が判らん。俺たちは、実戦は初めてなんだからな」
疲れを含んだ笑みを浮かべて、リオは前を向いた。補佐役は声を張り上げて待機を叫んでいる。従順ではある。
「さてと……どうしたもんかな……」
コウキが配置につくまでもう少し掛かるだろう。時間稼ぎが必要だ。不自然には思われないように。難問だ。
ゆっくりと馬を駆けさせる。
お互いの顔が見えるか見えないかの距離まで詰めて、手綱を絞る。蹄の音が、互いの響きが途絶える。
すうと空気を大きく吸い込む。吐き出す瞬間、リオは願った。
違う人物であってくれ、と。
「私は、帝国軍第四兵団所属の騎士リオ=タタールであるっ!! そこの者っ! 所属姓名を名乗れっ!!」
ほんの僅かな間が生まれた。しかしリオがそれを意識した次の瞬間、底響きのする声が返ってきた。
「私はチコ!! ユウリ村唯一の生き残りである、チコ=ユウリである!!」
ああ。やっぱり、あの男か。リオは固く目を瞑った。