99.……そろそろ、お別れの時間だ
別にこの歳になって今更、口付けでドキドキするような年齢ではない。
……しかし、ルルガからのこのキスは、おそらく違った意味で俺の心臓をドキドキさせた。
「……ッ」
息継ぎをするように、ルルガは俺の口から離れる。
彼女の目に溜まっていた涙が二粒、俺の頰に落ちた。
「……恥ずかしいので、あまり見ないでくれ……」
あの、躊躇いなく目の前で裸になっていたとは思えないルルガの表情に、俺の鼓動は高鳴る。彼女の突然の行動に、俺はどうしていいか分からなかった。
でも、ただ一つ分かったのは、そうしなければならないような何かが、彼女の身に起きている……ということだった。
「……そろそろ、お別れの時間だ」
そう言うと彼女は、恥ずかしそうにそっと俺の目を手で覆う。
視界が暗く染まる中、再び唇に柔らかい感触だけが伝わってくる。……そして、そこから暖かくて優しい、何かの生命力のようなものが流れ込んでくるのが分かった。
「……っ!」
ルルガの唇から流れ込んできたその熱は、徐々に体中に巡っていき、それと同時に俺の全身が熱くなってくる。……いつの間にか、あんなに苦しくて死にそうだった体内の嫌悪感も消えていた。
口元から順に、喉に、胸に、腕に、腹に足に、そして頭の……全身の痛みが消えていく。
そうか。
あのゴウダツの時もルルガはこうやって……!
ようやくそれに気付く。
全身を仄かな熱に覆われた俺は、降りしきる雨の冷たさを感じることもなく、ひたすらに安らかな心地良さに包まれていた。まるで……子宮の中に包まれる胎児のように。
その安らかな微睡みの中、闇が視界を覆ったまま、俺はそっと右手を伸ばして、ルルガの髪に触れた。
毛並みの良い飼い猫のようにサラサラとした赤毛の中に、ふんわりと三角形の獣耳が触れる。
俺が優しく撫でると、その三角がくすぐったそうにピクピクと動いた。
「……ッ……」
その仕草が余りにも無邪気すぎて、急に現実感が戻ってくる。
全身から力が抜け、口を塞がれている俺は、彼女に対する声を音にすることができなかった。
ただとにかく、ギュッとルルガの頭を両手で包み込むことしかできないのだった。
(……『自らの命を分け与えること』だ)
そう言ったルルガの言葉が、頭から離れない。
彼女がそう言うということは、きっと……そういう事なのだ。ミミナがあんなに感情を取り乱していた理由も、それなら分かる。
(……お別れを言いに来た)
頭の中に、さっき聞いたルルガの台詞が繰り返し響く。
泣き顔のまま笑うような、彼女の表情は初めて見た。これまでは、ただずっと……心の底から笑っていたはずなのに。
待て。待ってくれ!
……俺は、そんなんだったら俺は……っ!
「……!?」
突然、俺は無理やりルルガを引き離す。
……まだ全開では無いが、少しは力が戻って来ていた。
「やめろ……やめてくれルルガ……!」
「どうしたんだロキ。まだお前は……」
「いい!もういいんだ!これ以上やったら、お前が……!」
顔を寄せようとするルルガを拒み、起き上がろうとする俺。
しかしそれをルルガが押し留める。
「いや、いいんだロキ。これが巫女の役目なんだ」
「ダメだ!そんなのはいらない!」
「ロキ。……世界にはお前が必要なんだ。わた……うちは、最後にお前の作った美味しい食べ物が食べられて嬉しかった。おいしかったよ。それでもう……いいんだ」
またあの泣き笑いの表情だ。
やめてくれ。お前のそんな表情なんて……見たくない。
他の誰でもない、ルルガだけは……!
「まだだよ!まだこれからもっと作るから!だから頼む!お別れなんて言うなよ!」
母親に抱かれる駄々っ子のように叫ぶ。
なんでこんなに心がかき乱されるのか分からない。
とにかくただ、ルルガにもう会えなくなるのは……嫌だった。
「それは魅力的だな……でも無理だ。私の人生はこうなるように決められていたんだよ。……ずっと前から」
「そんなわけあるか!」
「でも……来てくれたのがお前で良かった。巫女には因子を選ぶ権利は無い。呼び出した因子に殺されてしまう巫女もいる。だから……」
「だからなんだ!俺はお前を殺したりなんかしない!だから……!」
『私はお前を救えて、良かった』
「……っ!」
それは泣き笑いではなく、心の底から笑っていることが分かり……、俺は言葉に詰まる。
そんな……そんな顔するなよ……!
「役目を終えた巫女は、人としての生を終える。それは最初から決まっていたことだ」
聞きたくなかった事実を、とうとう聞いてしまった。
やはり、これで……ルルガは……!
「でも、けど……!」
「ミミナに謝っておいてくれないか。……やっぱり約束は守れなかったよ、と」
「自分で言えよ!約束は……守らなきゃダメだろ……!」
今ならあの時、何であんなにミミナが取り乱していたのかよく分かる。
きっと今でも、カンカンに怒りながら、みんなを救助しているに違いない。簡単に想像できるな。
「はは、ロキはなんだかんだ言っても、生真面目だなぁ……。なら約束しようか。お前がこの世界を美味しい物で覆い尽くした時、うちはまた戻ってくるよ、きっと」
「……っ、何言ってんだ!いっ、一緒に……一緒に作るんだろ……が……っ!」
喉の奥から、嗚咽が込み上げて来そうになる。
俺は必死でそれを噛み殺す。
目の前のルルガの体が、ほんのりと輝き出した。
「ロ……も……限界みた……だ……最後に、私が聞……神託を……告げる……。聞……」
……そして、突然表情が消え、急に無機質な声へと変わった。
***
『子らよ。100年に一度の相転移の時は訪れた――』
『世界を撹乱せよ。より良い世界の遺伝子を残すため――』
「適応せよ【種を蒔く者】!」
「増殖せよ【投入する者】!」
「排除せよ【規制する者】!」
「作り上げよ【組み上げる者】!」
「拡散せよ【感染する者】!」
「捧げよ【??????】!」
『さあ、進化のための六つの要素を組み込む六人の巫女。この世の遺伝子を組み替え、世界に進化の圧をかけるのだ――!』
***
高らかな宣言が終わると、再びルルガは慈愛の表情へと戻る。
……だが、その雰囲気は間違いなく彼女のものとは異なっていた。
***
この世界に適応しなさい。【種を蒔く者】よ。
私の因子をあなたに転写します。
これにより、あなたには巫女の力の一部が活性化することになるでしょう。
あなたの力は『緑の手』。
それはあなたの目的の助けになるはず。
さあ、立ち上がるのです。今こそ芽吹きなさい。
世界が、あなたを待っています――!
***
そうして彼女の体が仄かな光に包まれると、辺りに眩い光が放たれ、俺の目は眩む。何も言葉に出来ぬまま、数瞬が過ぎた。
「……」
「…………」
「……………………」
「…………………………………………」
気が付くと、俺の目の前には一匹のキツネが佇んでいる。
……そして、一瞬だけ振り返ると、軽やかに薄暗い森の奥へと消えていったのだった……。




