97.農家の朝は早い。 ……のだが、そうでない時もある。
農家の朝は早い。
……のだが、そうでない時もある。
あまりの寒さで目が覚めてしまった。
布団から手だけを出してカーテンを開け、外を見ると、雪。
色彩を失った世界が、窓の外に広がっている。
時間すらも失ったような感覚。
元々周りに人家はあまり無い場所だったが、雪のせいでいつもにも増して人気がない外を見ていると、時が止まった中、自分だけが動いているような錯覚を覚える。
……そういえば、なんだか夢を見ていたような気がするな。
遠い国に行く夢。
記憶を辿ろうとしても、思い出せない。
しかし、そんな夢を見る理由はすぐに分かった。
……冬が、来たからだ。
長野に来るまでは、頑張れば農業だってやっていけるんだと思っていた。
そして最初の頃は、そんなにお金が稼げなくてもいい、晴耕雨読をするんだと思っていたのだ。
しかし、実際に農家を始めてからは全く話が違った。
土地なんて空いてないし、農家だってそれほど困っていない。
農産物なんて現代では全然価値も無いし、地方が移住してくる人間を必ずしも歓迎してくれることもないのだと知ったからだ。
色々あったけれども、最も重要なポイントだったのは、『冬には仕事が無くなってしまう』事だった。
長野の冬を初めて経験し、『土が凍ってスコップすら通らない』事を知ると、ここで農業をして暮らしていくことがかなり難しいことに気付く。
果樹ならまだいい。一年に一回の収穫で暮らしているからだ。
酪農でもいい。贅沢さえ求めなければ、国が保護してくれる。死ぬことはない。
しかし、野菜となると、半年間農地が使えなくなるというのは致命的なハンデだった。
高原野菜というと、川上村などの大産地で稼いでいるイメージがある人もいるかもしれないが、あれは村が丸ごと畑になっているほどの特化した改良により、市場のシェアを寡占状態にできているからだ。
そして、安い労働力を酷使しているからできることでもある……。
もっと南や西の方へ行けば、冬の間も耕作が可能になる。
そうした場所では、一年中農業が可能なため、単純に言って長野の倍の量が生産できることになる。ただでさえ単価の低い薄利多売である農業において、この差がどれだけになるかと言えば、想像することは難しくないのではないだろうか……?
いや、この話をし始めると、小説が一つ書けてしまえそうだな。
ともかく、そんなわけで俺は、就農してすぐに冬の間の暮らしについて考えなければならなかったというわけだ。
最初は、普通にスキー場などでバイトしようかとも考えた。
だがすぐにその考えは捨てた。なんでかと言うと、そういうバイトは既に人が一杯で、多くの人は冬場は高速道路の雪かきなどをして生活しているようだった。
そんな中、後から来た新人の俺がそう言った仕事に就くことは難しく、なんでわざわざ長野まで来て農業をやろうとしたのに、他の事をしなければならんのだ……!と思ったのだ。
……その結果辿り着いたのが、『自分自身が移動して農業をする』ライフスタイルだった。
そう思えたおかげで、一時は香港でイチゴを栽培する事になったり、新しい形の農業を模索する事ができた。
そして、これからの日本の農業……特に雪国の農家は、こうした方法を取るべきなのだと実感したのだ。
そんなわけで、俺は未だに冬の間の耕作地を探しているのだった……。
今年の冬は、ひょんなことから農水省の依頼でオーストラリアに行くことになったのだが、季節が逆転した豪州というのは、非常に魅力的だ。
未知なるゴールドコーストの景色を思い浮かべると、今からワクワクが止まらない。
というか、この極寒地獄の長野から離れられるのであれば、アフリカだろうが南米だろうが、どこでもいい……。
そう、たとえ異世界だろうと。
……そんな気持ちが、さっきのような夢を見させたのだろう。
俺は改めて、窓の外に目を向けた。
(……夢……)
夢にしては、妙に生々しい感覚だった。
詳しくは覚えていないが、あまりいい夢では無かったように思う。
痛かったり苦しかったり、何より……『腹が減る』夢だったからだ。別に昨日は普通に夕食を食べたような気がしたが、寒さのせいで消費が激しいのだろうか?
けど、最近は代謝が落ちて太りつつあるからなぁ……。
そんな事を考えていると、雪の中にポツンと何かがいるのが見えた。
(なんだ?あれは……?)
しんしんとまだ降り積もる純白の雪を被りながら、収穫間際の小麦のような色の生き物が、じっとこちらを見ている。
(キツネ……?)
ここからでも分かった。あれはキツネだ。
三角の耳を尖らせて、こちらの様子を伺っている。
まるで、『まだ起きてこないのか……?』とでも言いたげな顔だ。
野生の割には、キツネの毛並みは悪くなかった。ずっと野生で暮らしているキツネの毛皮はボロボロだからだ。巷では可愛く描かれることが多いキツネだが、その鳴き声だって可愛いものではない。
「ギョエーッ!」
……大げさに言わずとも、こんな感じの鳴き声なのだ。
だから、すぐに分かる。
しかし、俺の方を見ているキツネは、鳴こうとはしない。
ただじっとこちらを見ているだけだ。
(……なんだよ。何の用だよ……)
こちらをジッと見つめるキツネの姿に、俺は思わず何かを咎められているような気がして、心がささくれだってしまう。
(何だよその目は……!うちの残飯でも狙ってんのか?だったら何もねーよ。もう冬が来たんだ。畑は終わりだよ。そんな目で見るなって)
辺りが吹雪いてきた。
すきま風が吹き込んできて、部屋の中までが凍えてくる。
それでも尚、キツネはその場を動こうとしない。
艶やかな毛並みが、真っ白な雪に埋もれて見えなくなっていく。
ただその眼差しだけがずっと、こちらを見据えている。
(何で俺を見る……?やめろよ。俺は何も持っちゃいない。お前にやれるものなんて何も無いんだ。頼むから……!)
キツネと目が合う。
……何故か、胸の中がざわつく。
かき乱されるように、様々な感情が溢れてきた。
(もう無理なんだよ!俺には無理なんだ!)
気が付くと、俺はキツネに向かって心の中で叫んでいた。
もうやめてくれよ!
ずっと頑張ってきた!
必死でやってきた!
……そりゃ、必死じゃない時だってあったよ!
でも……。
でもさ、世の中には俺一人じゃどうしようもない事だって……あるだろ?
俺一人頑張ったって、何も変えられないんだ!
だったらもうさ……。
休んだっていいだろ……?
もう、疲れたんだよ……。
すごくさ、寒いんだ。
一人は……寒い。
だから、もう寝かせてくれよ。
疲れたんだ……。
いや、疲れることよりも、誰にも伝わらないことの方が辛い。
だったら俺はもう、一人の方がいい。
一人で静かに眠らせてくれよ……。
頼む。頼むよ◯◯ーー。
***
「起きろ。起きるのだロキ……」
柔らかい感触とともに気が付くと、目の前にはルルガがいた。




