96.なんで……なんで俺は……?
「う……うぅ……っ!」
胃の奥底から湧き上がる、致命的な嘔吐感と、脳内をグルグルと異世界のように巡り続ける気持ち悪さ。まるで呪いのように体内に異物が入り込んでくる感覚に耐えながら、苦しそうにのたうつ三人を近くの樹の下に横たえると、俺は一人で森の中を走り出した。
(考えろ……!どうするのが最も正解だ……!?)
使用人。
マルミラの屋敷に最初からいた(はず)の存在。しかし、つい先ほど、それは幻の人物だったということが判明してしまった。
……おそらく、俺たちの食事に異物を混ぜ込んだ犯人。シバは「自分が作った」と言っていたが、あのシバが味見もせずに食材を使うはずもない。短い間だが、それくらいは分かるほどに互いのことは理解し始めていた。
その使用人が黒幕だとすると、屋敷に戻るのは危ない。
一体何が目的なのかとか、致死性の毒を使わなかった理由とか、不明な部分はいくつもあるが、それ故に不確定要素が多い。屋敷は無しだ。
では、町に行くか?それとも……黄金耳の集落へ戻り、ルルガたちに助けを求めるか?……いや、それでは時間がかかり過ぎる。とするとやはり……。
バササッ……!
そんなことを考えていると、空から何かが降ってきた。
一瞬警戒したが、すぐにその姿を見て、緊張は解けた。
「お前は……マルミラの使い魔?」
半ば墜落するように落ちてきたのは、ピーちゃん(……とマルミラが呼んでいる)トンビだ。俺が駆け寄ると、ピーちゃんは話し出す。
「ロキ君、町に向かえ……!これを渡せば領主は力になってくれるだろう……」
マルミラ曰く、使い魔の声帯を人間と同様に震わせて、遠隔で腹話術のように喋らせる魔法らしい。この世界にも腹話術があるということに驚いたのだが、今はそれどころではない。
よく見ると、ピーちゃんの足は何かを掴んでいた。
「……証書?」
おそらく、町を通るための通行手形のような物だろう。
俺がその羊皮紙を手に取ると、ピーちゃんは力を使い果たしたかのように、その場にくずおれる。きっと、術者と生命力が連動しているせいだろう。……このままでは、他の獣に狙われる可能性があるかと思ったが、悠長にしている余裕はない。
今は森の生き物がほとんどいないから、なんとか生き延びてくれることを願い、とりあえず近くの樹の枝に留まらせて、俺は先を急いだ。
……向かうは、ガラットの町だ。
***
辺りは暗く、満足に視界も通らない。
幸いなことに、満月に近いのか多少の明るさがあるため、なんとか俺は走り続けていられた。最近はもう何度も通った道だ。すっかり獣道ができていたので、迷うこともない。ただ、何ヶ所かある険しい道に注意さえすればいい。
俺は慎重に、小高く切り立った崖の淵を進んでいた。
念のため、武器がわりの鍬は持ってきていたが、獣の気配もほとんど感じない。後は俺の体力がどこまで保つかだが……。
(あれ……?おかしい……?)
さっきから、どこか体に違和感を感じていた。
なんだかすごく……気持ち悪い。
こちらに来てから、以前よりも体力は付いたはずなのだが、一時間も経たないうちに、急に疲れが襲ってきた。
(ハンガーノックか?最近ろくな物食べてなかったしな……。ん、いやこれは……!?)
「う、おえぇ……っ!」
込み上げる急激な吐き気に耐えられず、思わず俺はその場に跪いてしまった。
胃の底から込み上げる異物感に、ほんの僅かしかない食料が吐き出してしまう。
「はぁ……はぁ……。まさか……!?」
……胃酸の酸味が、唇を刺激する。
俺にも、ククルビタシンの毒は回っていた。
ただ、食べた量が少なかったから、さっきは平気だっただけだ。それが、全力で走ったことで体内に回り、急激に気持ち悪く……!
「おっ!おうえぇぇ……っ!」
空っぽの胃にも関わらず、俺の中の免疫反応がさらに異物を押し出そうと暴れ回る。走ったおかげで、植物の毒性がいきなり全身へと巡ったようだ。……頭を持ち上げようとすると、急に視界がホワイトアウトし始める。血が……回っていない!
「はっ!……はっ……マズい……!」
あまりの嘔吐感に、呼吸すらままならなかった。
無理に立ちがろうとして、急に貧血のような状態になり、ふらついて倒れ掛かる。
(あれ……?なんだ……?俺はこんなことしてる場合じゃないのに……!)
意識が混濁して、うまく考えられない。
酸素が脳に届いていない気がした。
(行かなくちゃ……!俺が行かないと、あいつらが……!)
苦しそうに呻く三人の姿を思い出すと、こんなことはしていられないとばかりに、焦燥感が募る。
しかし焦る意識とは裏腹に、体は全く言うことを聞いてくれない。
ただ普通に立ち上がることすらもできず、膝を着いた。岩だらけの地面が、服を破り、膝の皿を切って出血した。
両手を着く。視界一面に、グルグルと回る土塊が広がる。
最早、座っていることすらできない。
ただとにかく、横になりたかった。
横になって、ゆったりとくつろぎたかった。
何もかも捨てて、暖かいベッドで眠りたかった。
そして、贅沢なんて言わない。普通にうまい食事が食べられれば、それで良かった。
空っぽの胃が叫ぶ。
大声で泣き喚けない代わりに、俺はありったけの物を腹から吐き出した。
……何故か突然、物凄い悔しさが込み上げてくる。
(なんで……なんで俺は……?)
溢れ出る涙と鼻水と胃液で、顔面がぐちゃぐちゃになりながら、俺は走馬灯のような記憶を掘り起こしていた。
なんで俺はここにいるんだ。
なんでこんなことをやっているんだ?
一体、なんのために……!?
***
男の体が力無く横たわるのと同時に、その体が崖の下へと転がり落ちて行くのが見えた。




