冬の蛍
蛍狩りに行こうとお父さんは言った。
次の夏は、綺麗な水のある田舎に蛍を見にいこう。
約束だよ、と言ってお父さんは笑った。
夏は来ない。
蛍はいない。
水が凍り、冬が来る。
1
ジョウハツという言葉を初めて聞いたのは、結衣が小学二年生の時だった。その時はまだ言葉の意味までは知らなかったのだが、四年生の理科の授業でジョウハツとは分子とかいう小さな水の粒が空気の中に出て行ってしまうことだと習った。
ガスバーナーの火に熱せられ、グラグラと煮え立つビーカーの水と、その隣にぽつんと置かれたコップの水を見比べる。ジョウハツしてしまった結衣のお父さんは、沸騰したビーカーの水のように、何かに追われるように居ても立ってもいられなくなってどこか遠くへ飛び出してしまったのだろうか。それとも、目には見えないスピードで減っていくコップの水のように、少しづつ、少しづつ、擦り減るようにして消えてしまったのだろうか。結衣にはわからない。わかっていることは唯ひとつ。結衣の家には、もうお父さんの居場所はないということ。
先月の事だ。靴箱の中のお父さんの靴も、クローゼットのお父さんの服も綺麗に片付けられ、空いた場所は新しいお父さんの靴と服で埋められた。小さな男の子の靴と服のオマケ付きで。
「弟って可愛い?」と仲良しのユカリちゃんに聞かれたので、正直に答える。
「全然」
ユカリちゃんには優しいお兄さんと綺麗なお姉さんがいる。わたしもどうせならお兄ちゃんかお姉ちゃんが良かった。弟なんて全然欲しくなかった。
結衣が大切にしているビーズを箱ごと床にぶちまけ、半ベソをかきながらドアの陰に隠れて結衣の様子を窺う弟を思い出し、思わず顔をしかめる。でも弟よりももっといらないのは、新しいお父さんだ。
隠れて出てこない弟に代わり、泣きそうな顔で懸命に謝る新しいお父さんの顔を思い出すと、胸がモヤモヤする。結衣ちゃん、と自分を呼ぶ猫撫で声も背中がムズムズする。
結衣に気に入られようと必死なのが丸わかりで、そんな新しいお父さんを結衣が受け入れることをお母さんや周りの大人達が期待しているのも丸わかりで、その期待がずっしりと肩に重くて、皆の視線に手足を絡みとられるようで、逃げ場を失い、溺れかけた仔猫のように悲鳴を上げたくなる。
弟なんていらない。
新しいお父さんなんていらない。
ジョウハツしてしまったお父さんは、どこに行ってしまったのだろう。ジョウハツしても結衣のことを憶えているのか。どこかで結衣のことを想っているのか。冷たい窓硝子を濡らす水滴のように、ジョウハツをやめて結衣の元へ戻ってきたいと思っているのか。
結衣には何もわからない。とりあえず分かっているのは、今の結衣にとって『家族』とはひどく億劫なモノで、『家』とは帰りたい場所ではないということ。
それでも下校時間になれば小学生は家に帰るしかない。冬は陽が暮れるのが早い。鼻先までマフラーに埋め、道端の石ころを蹴りつつ渋々と道を歩いていた時だった。
ちりりん、と澄んだ鈴の音に結衣が顔を上げた。
……どこに隠れているのだろう。チチチ、と舌を鳴らすと、ちりりんと鈴の音が応える。
「結衣ひとりでも大変なのに、動物の面倒まで見れません」などと言うお母さんのせいでペットは飼ってもらえないが、結衣は猫も犬も大好きだ。公園の野良猫に、時々内緒でご飯をあげている。
電柱の陰、植木の下、塀の上。ちりりん、ちりりんと結衣をからかうように鈴の音が動く。その軽やかな音に誘われるように路地裏を彷徨い、夢中になって眼に見えない猫を追い回しているうちに、いつの間にかよその家の庭に入り込んでしまった。
ふと我に返り、どこか見覚えのある古い瓦屋根を見つめて数秒後。不意に背すじにゾクゾクと寒気が走り、足に震えがきた。
思い思いの方向へ勝手気儘に枝を伸ばした庭木。屋根に届くほど大きくなり、そのまま立ち枯れたセイタカアワダチソウ。枯葉と雑草でしっとりと湿った地面には、ここ数十年に渡り人が足を踏み入れた跡はない。
それは、この辺りでは有名な『お化け屋敷』だった。
……お化けなんているわけない。人にしろ動物にしろ、死んだモノの霊魂がこの世に残ることを許されるなら、今頃この世は幽霊の押しくらまんじゅうでラッシュアワーの電車状態だ。ぎゅうぎゅう詰めになって悲鳴を上げる幽霊達のユーモラスな絵を想像して、無理に気を紛らす。草木の陰から自分を見つめる無数の視線を感じる気がするが、そんなモノは気のせいに決まっている。なるべく足音を立てないように、そっと向きを変えて庭を出ようとした時だった。
突如吹いた強い風が、痩せ衰えた腕に似た木々の梢を激しく打ち鳴らした。伸び過ぎた枝が踊り狂うガイコツのようにしなり、バキバキと折れる。
声にならない悲鳴を上げて、無我夢中で伸び放題の雑草の中に飛び込んだ途端、柔らかな何かに威勢良くぶつかり派手に尻餅をついた。
「うわっ」と得体の知れない物体が叫び声を上げる。
恐怖と驚きで腰が抜けたようになり、足に力が入らない。這って逃げようとする結衣の目に、少し汚れた赤いスニーカーが映った。
「ヒトが入ってくるなんて、珍しいなぁ」
イテテ、と笑いながら擦り剥けた顎をさする。それは、結衣と同じ年頃の少年だった。
厚着が幸いして結衣に怪我はなかったが、少年は泥に汚れた結衣の手袋やジャケットの裾を丁寧に払ってくれた。代わりと言ってはナンだが、結衣が濡らしたハンカチで少年の腫れた顎を冷やしてやると、少年は妙に嬉しげに首を伸ばして目を細めた。
「この家って、空き家だよね?」
縁側の陽だまりに少年と並んで座り、到底人が住んでいるとは思えないボロ家を見渡すと、「うん」と少年が頷いた。
「ヒトは住んでないよ」
……ヒトではない、何か別のモノが棲んでいるとでも言うのか。少年の言い方に引っかかりを覚えて結衣が口籠ると、少年は悪戯好きの仔猫のようにニンマリと目を細めた。
「ヒトはいないけど、猫が沢山いる」
少年が庭に向かってチチチ、と舌を鳴らすと、雑草の隙間から次々と猫が姿を現した。
トラ猫、黒猫、三毛猫に白黒のブチ猫。艶やかなグレーの毛並が美しい猫もいれば、ツンと澄ましたシャム猫までいる。先程感じた無数の視線は、猫達のモノだったに違いない。猫なら全然怖くないどころか、大歓迎だ。用心深げに足元に寄ってくる猫達を夢中になって撫でまわす結衣の姿に、少年もニコニコと楽しげだ。
「ここはね、猫達の憩いの場なんだ」
「憩いの場?」
「この家には昔、猫好きのお婆さんが住んでたんだ」
「住んでた……?」
不吉な過去形に結衣が眉根をひそめると、けろりとした顔で少年が頷いた。
「うん。とっくの昔に死んじゃったけど」
……死んだとは、つまりこの家で亡くなったということだろうか。幽霊の恐怖が蘇り、薄気味悪そうに辺りを見廻す結衣を見て、少年が声を上げて笑った。
「生き物はいつか必ず死ぬ。でも死んだからって、別に何か嫌なモノに変わるわけじゃない」
「……それは、まぁそうかも知れないけど」
「とても優しいお婆さんだった。でも若い頃に一人息子を亡くして、連れ合いにも先立たれて、寂しかったんだと思う。だから近所の猫や野良猫に餌をやって、可愛がっていた。でもお婆さんは、決して自分で猫を飼おうとはしなかった。家族のいない自分が死んだ時に、独りぼっちになる猫が可哀想だからって」
「……息子さんは、なんで亡くなったの?」
「僕は、詳しいことは何も知らない。近所の人の噂では、病気だったとか、交通事故だったとか。とにかく、そんなお婆さんの庭に、冬のある日、一匹の仔猫が迷い込んできたんだ」
捨て猫だったのだろう。元の色も分からないほど薄汚れた仔猫は、冷たい縁の下にグッタリとうずくまり、お婆さんが見つけた時には立ち上がるどころか餌を食べることすら出来なかった。
湯たんぽで温め、スポイトで一口づつミルクを飲ませる。お婆さんの必死の看病のおかげで、庭の桜が満開になる頃には仔猫はすっかり元気になり、紋白蝶を追って庭を飛び跳ねるようになった。遊び疲れて膝で眠る牡丹雪のような仔猫を撫でつつ、お婆さんが溜息つく。
『里親を探してやらないといけないねぇ』とお婆さんは呟いた。
『わたしはいつお迎えが来るかわからないから、あんたを一生可愛がってくれる良い里親さんを探してやらないとねぇ』
お婆さんは仔猫に名前を付けなかった。いつか他所へ貰われていく子だから、お互いにあまり情が移ってもいけないから。
そんなある日の事。お婆さんが仏間を通りかかると、薄暗い部屋に仔猫がちょこんと座り、仏壇に飾られた息子の写真をじっと見つめていた。
『仔猫ちゃんや、なにしているの?』とお婆さんが声を掛けても、仔猫は知らんぷりして振り向きもしない。
仏壇に虫でもいるのだろうか。仔猫の後ろに立ち、綺麗に掃除され、埃ひとつない写真立ての中で微笑む息子を見つめる。生きていれば、とうに結婚し、今頃は子供もいたのだろうか。しかしそんな事を考えても仕方無い。せめて一刻も早く、あの世で逢いたいものだと思い、ふと息子の名を呟いた時だった。
仔猫が不意に振り返り、大きな瞳でお婆さんをひたと見つめると、にゃあと鳴いた。
「……それで?」
「それだけ」
「それだけって、お婆さんと仔猫はその後どうなったの?!」
「お婆さんはボケて死ぬまで仔猫を息子の名前で呼び続け、一人と一匹は幸せに暮らしましたとさ。メデタシメデタシ」
結衣をからかうように、少年がにやにやと笑う。
「とにかく、お婆さんが死んでからも、この家には猫が沢山遊びに来る。誰にも邪魔されずに昼寝ができて、具合がいいからね。この縁側、陽だまりになってて冬でもすごくあったかいんだ」
少年がごろりと縁側に寝転がる。ブランケットの代わりにでもなるつもりか、毛足の長い三毛猫がいそいそと少年の胸に寄り添う。
「……わたしも……」
「え?」
「わたしも、また遊びに来てもいい?」
「うん、もちろん。昼寝の邪魔さえしなければ、可愛い女の子はいつだって大歓迎さ」
のんびりとアクビしつつ、ひらひらと片手を振る少年に手を振り返し、ランドセルを背負って庭を出ようとした結衣が、ふと立ち止まって首を傾げた。
「あ、そうだ。あなたの名前、聞いてない」
本当に寝てしまったのか寝たふりか、少年は目を瞑ったまま返事をしない。
「ねぇ……ねぇってば!」
縁側に戻り、少年の肩を指でつつくと、少年は煩げに眉をしかめて寝返りを打ち、猫のように丸まって顔を隠した。
「わたしは結衣っていうの。あなたは?」
「ゆ……」
「ユ?」
「……ゆきと。雪の人って書いて、雪人」
不意に振り向いた少年の口許を、暖かな微笑が掠めた。
「母さんが言ってた。真っ白な雪が積もる、冬の朝に生まれたんだって」
2
雪人は不思議な少年だった。結衣よりも先に来て縁側で昼寝をしている時もあれば、少し遅れて現れる事もある。そしていつも縁側で猫を抱いてゴロゴロしている割には、遠い異国の神話から近所の噂話まで色んな事を知っていて、たまに結衣の宿題を手伝ってくれたりもする。
「雪人はどうしてそんなに色々な話を知っているの?」と結衣が聞くと、雪人は結衣をからかうようにニヤニヤと笑い、「猫達が教えてくれるから」と嘯いた。
雪人や猫達と遊ぶのが楽しくて、結衣は毎日のようにお化け屋敷に通った。雪人のいる庭はまるで外界から閉ざされたように穏やかで、冬なのに嘘のように暖かくて、ここにいる限り、億劫な『家族』のことも忘れ、のびのびと自由な気持ちでいられる。
「わたし、もうずっとここにいようかな」
結衣がふと漏らした呟きを聞き咎め、雪人が猫じゃらしを振りまわす手を止めた。
「どうして?」
「だって、家に帰りたくないんだもん」
「なんで?」
「……家に帰ると新しいお父さんと弟がいて、嫌だから」
何かを探るようにジッと自分を見つめる雪人から目を逸らし、結衣が口を尖らせた。
「わたしのお父さん、二年前に突然いなくなっちゃったんだ」
「……亡くなったの?」
「そうじゃなくて」
幼い自分に憐れみを込めた眼差しを向け、ヒソヒソと小声で話す近所のおばさん達を思い出し、ふつふつと胸に湧く苛立ちに唇を噛む。
「ジョウハツしたんだって。近所の人達が言ってた。でもお母さんは、『お父さんはいなくなっちゃったんだよ、ごめんね』って言うだけで、何も教えてくれなくって……それなのにイキナリ新しいお父さんと弟を連れてきて、家族になれとか、そんなの絶対に無理。赤の他人のいる家なんかに帰りたくなんかない」
長い間無言で結衣を見つめていた雪人は、やがてふっと溜息をつくと、薄く蒼い空を見上げた。
「世の中には思い通りにならないことが多い」
雪人は色が白い。病気という感じではないけれど、肌も眼も髪も、まるで外国人のように色素が薄い。そのしっとりと柔らかな薄茶色の髪を掻き上げ、雪人が小首を傾げた。
「家族になる必要なんてないんじゃないかな。無理に家族になろうとするんじゃなくて、家族の振りをすればいい。家族ごっこだと思えばいいんだよ」
「家族ごっこ?」
「そう、おままごとみたいに、家族ごっこをして遊ぶんだ。ただの遊びだから、少しくらい失敗しても誰も文句を言ったりはしない。気楽で、自由で、無理をする必要もなくて、期待され過ぎることも、相手に期待し過ぎることもない。そしていつか、その遊びが楽しくなるかも知れない」
そんな簡単なことでは無いと反論したが、「やってみてもいないのに、どうして分かるの?」と笑顔で聞かれ、言葉に詰まった。
「ヒトに飼われている猫達は、みんなニンゲン相手に家族ごっこをしている。猫を家族と呼ぶヒトがよくいるけど、でも猫達は知っている。いくら家族と呼ばれても、猫はいつまで経っても猫のままで、決してヒトにはなれないという事を。それでも種族を超えて、猫達は家族ごっこをしているんだ」
結衣の膝でくつろいでいたトラ猫が、結衣を見上げてニャアと鳴いた。僅かに細められたその金色の眼に、オレ達に出来る事が何故オマエには出来ないのかと諭されている気がして、思わず頬を赤らめて俯いた。
「まぁ猫達だって普段はそれなりに楽しんでやってるんだけど、でも時々無性に疲れることがあって、そんな時はここで一息つくんだ。言ったでしょ? ここは猫達の憩いの場だって」
だからさ、と雪人が結衣の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「結衣ちゃんも、家族ごっこに疲れた時はいつでもここに遊びに来ればいい。でも日が暮れたら、絶対に家に帰らなくちゃダメだ。それが家族ごっこの『約束』だからね」
「約束……?」
「そう。どんな遊びにもルールがあるでしょ? 家族ごっこはただの遊びだけど、でも遊びだからこそ、約束は守らなくちゃいけないんだ。そうじゃないと遊びが成り立たないからね」
「でも……」
雪人の言いたい事は分かったが、そうやすやすと納得するのもなんとなく癪にさわる。雪人はお父さんがジョウハツした事も新しいお父さんが家に来た事もないから、そんな簡単そうに言うのだ。
「ならなんで、結衣の本当のお父さんは何も言わずにいなくなっちゃったの?」
「それは……僕にはわからないけど。でもきっと、結衣ちゃんのお父さんには結衣ちゃんに説明したくても出来ないような、複雑な事情があるんだよ」
「そんなのズルイ。わたしに新しいお父さんや弟と家族ごっこさせるつもりなら、まずなんでお父さんが家に帰って来なくなっちゃったのか、お父さんに会って直接聞きたい。そうじゃないと納得できない。雪人は猫達から情報収集できるんでしょ? それならわたしのお父さんがどこにいるのか、猫達に聞いてよ」
本気で言ったわけではない。ただ、少しだけ雪人を困らせてみたかっただけだ。あの時の自分は寂しさのあまり、雪人の優しさに甘えていたのだろうと、ずっと後になってから気付いた。
けれども雪人は怒るわけでもなく、結衣のわがままにも「う〜ん」と唸って困ったように髪を掻きむしった。そして妙に歯切れ悪く、「結衣ちゃんがどうしてもって言うなら、猫達に聞いてみるけど……」と呟いた。
結衣のお父さんはここから電車で二時間近く離れた町に住んでいると雪人が教えてくれたのは、それから十日ほど経ってからだった。
3
小学四年生の結衣にとって、電車で二時間という距離はちょっとした外国並みに遠い。しかし頑張れば手の届く距離にお父さんがいるかと思うと、居ても立ってもいられなくなった。どうしても会いに行きたかった。
「二時間って言っても単線で乗り換えもないから簡単だよ。猫情報だと土曜日なら結衣ちゃんのお父さんも夕方までに家に帰るらしいから、上手くすれば駅で会えるんじゃないかなぁ」
電車の時刻表とにらめっこしつつ、雪人が電車賃の計算をしてくれる。しかし結衣の密かな期待を裏切り、雪人は一緒に行ってくれるとは言わなかった。
土曜日のお昼過ぎ、お母さんに内緒でそっと家を出て、駅へ向かった。雪人が調べてくれた切符を買う時に手が震えたのは、寒さのせいばかりではない。雪人が教えてくれたホームで電車を待ち、これまた雪人が教えてくれた電車に乗る。暖房の効いた電車に揺られているうちに僅かに緊張が解けて少しばかり眠たくなったが、目的の駅に着いた途端に不安と緊張で手の爪が真っ白になった。
幸いそこは小さな駅で、改札口はひとつしかない。改札口の正面にある柱の陰に立ち、今か今かとお父さんを待った。小さな駅とは言え、電車が通り過ぎる度に急ぎ足で改札を通り抜けてゆく人の数は、決して少なくはない。もしかしたらすぐ目の前をお父さんが通っても、気付かないかも知れないと心配になった。
けれどもそんな心配は無用だった。
僅かに俯き、寒そうに猫背気味に歩くその背中を見つけた途端、安堵と、懐かしさと、久し振り過ぎて恥ずかしいような気持ちと、そして自分が誰かお父さんに分からなかったらどうしようという不安がごちゃ混ぜになって、空気を入れ過ぎた風船のように胸がはち切れそうになった。
お父さん、とその背中に呼びかけようと、結衣が大きく息を吸った瞬間、小さな男の子が人混みから飛び出してきた。
「おとうさん!」
嬉しげに腕に飛びつく少年の頭を、大きな手が愛おしげに撫でる。
少年の母親であろうか。地味で落ち着いた感じの女の人が現れ、お父さんを見上げて何か楽しげに囁く。そしてそのまま、少年を真ん中に、三人が手を繋いで夕暮れの街に消えてゆくのを、ただ呆然と見送った。繋いだ手の温もりも、穏やかな笑顔も、優しい眼差しも、自分のモノであった筈のモノが唯ひたすらに遠く、冷たい風に掠れ、消えてゆく。
透明な空気に溶け消える水のように、お父さんはジョウハツしてしまった訳ではない。お父さんはただ、結衣やお母さんと家族の振りをするのが嫌になってしまっただけなのだ。そして結衣とお母さんではなく、他の誰かと家族ごっこをすることを選んだ。
お母さんはきっとその事を知っていたのだろう。だから悲しみはしても、本気でお父さんを探そうとはしなかった。お母さんだけじゃない。周りの大人は皆知っていたのだ。結衣だけが知らなかった。
悔しくて、悲しくて、それよりももっと寂しかった。
虚ろな胸の内に吹く風は、冬のそれに似てひんやりと冷たい。
泣くものかと奥歯を噛み締める。結衣との家族ごっこに飽きたお父さんの為に泣いたりはしない。そんなお父さんなんかに、泣かされたりはしない。涙を飲み込み、硬く瞑った目の奥で、夕暮れの街のイルミネーションがチラチラと瞬く。
蛍を見にいこう、と言ったお父さんの笑顔が不意に瞼の裏を過った。
4
涙を我慢出来たのは、夕方遅くにお化け屋敷に戻り、雪人の顔を見るまでだった。ただならぬ結衣の様子に驚いて駆け寄ってきた雪人の腕を振り払い、辺り構わず大声で泣いた。
「蛍を見にいこう、って言ったのに……!」
夏は来ない。
蛍はいない。
あの日の約束が果たされることは、永遠に無い。
「……残念だけど、大人には大人の事情があるんだよ」
「だけど約束したのに!」
「言わなかったっけ? 家族ごっこは遊びなんだから、遊びで相手に期待し過ぎちゃダメだって」
静かに諭すような雪人の口調が悔しくて、寂しくて、余計に苛立った。
「だけど、遊びでも、遊びだからこそ、約束は守らなくちゃダメだって、雪人だって言ったじゃん!」
「……うん。そうだね」
ごめんね、と雪人が呟き、しゃくり上げる結衣をそっと抱き寄せた。涙に濡れ、頬に張り付いた髪を温かな指先が優しく掻き上げる。雪人は泣きじゃくる結衣の背中を長い間何も言わずに撫でてくれた。
結衣の号泣が静かな啜り泣きに変わる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。猫の瞳のように細い三日月を眺めていた雪人が不意にニコリと微笑むと、結衣の手を掴んで立ち上がった。
「結衣ちゃん、蛍を見に行こう」
結衣の手を掴んだまま庭木戸に向かって歩いていく雪人を見て、辺りで和んでいた猫達が驚いたように眼を見張った。そのうちの数匹が慌てたように雪人に駆け寄り、何やら懸命に説得するかのようにニャアニャアと鳴く。足元で騒ぐ猫達に構わず、雪人が壊れかけた木戸を開けた。
一歩外に出た途端、ごうっと強い風が吹き、木々の梢を一斉に打ち鳴らした。雪人は一瞬だけ足を止め、頭上に踊る枝や舞い上がる落葉や割れた瓦屋根を見つめた。その時になって初めて、結衣は雪人の事を何も知らないことに気付いた。住んでいる場所も、通っている学校も、家族や友達のことも、結衣は何も知らない。
「ちょっと待って! どこまで行くの?!」
ひと気の無い冬の道を早足に歩いていく雪人を慌てて追いかける。その背中が薄っすらと燐光を放っているように見えるのは、気のせいだろうか。
「どこまでって、蛍のいるところまで。心配しなくても、そんなに遠くないよ」
「だけど蛍なんて、冬にいるわけないじゃん!」
ちらりと振り返った雪人の口許を微かな笑みが掠めた。
「結衣ちゃん、知らないの? 冬の蛍は土の中にいるんだよ」
自分の足元さえ見えない暗い夜道を、雪人は何の躊躇いも無く歩いてゆく。懸命にその背中を追う結衣は、息切れがして、目がチカチカし始めた。冷たい空気に晒された耳が千切れそうに痛む。
『年老いた母親は、帰って来ない息子の名で猫を呼びました』
朦朧とした意識の中、どこかで聞いた昔話が蘇る。あぁ、そう。これは確か、初めてお化け屋敷に迷い込んだあの日、雪人が語った猫とお婆さんの物語。
『雪のように白い猫は、その名で呼ばれる度に、唯ニャアと鳴きました』
白い仔猫は、その名で呼ばれる度に、何を思って返事をしたのだろう。どうして、誰の為に、家族の振りをし続けたのだろう。
『雪のように白い猫の名は――』
雪人が不意に足を止めた。結衣はそれに気付かないまま走り続け、雪人の背中にぶつかって尻餅をついた。雪人もよろめいて地面に手をつき、そのまま笑いながら結衣の隣に座り込んだ。そこは、町外れの雑木林だった。
「冬の蛍だよ」
雪人が土を一掴みすると、結衣の目の前に差し出した。ひんやりと湿った落ち葉の匂いが鼻先を掠める。と、雪人の掴んだ土が、ぼうっと淡い燐光を発した。
「ほら、そこも」
雪人が結衣の手元を指差す。雪人は一体どんな魔法を使ったのだろう。結衣が転んで手をついた土が、柔らかな薄黄緑色に光っている。
「結衣ちゃんが見たかった夏の蛍とは違うかもしれないけれど、でも、冬の蛍には冬の蛍の美しさがある」
雪人の手の中で淡く光る土が、夜風にサラサラと零れる。
その儚い光に浮かぶ雪人の横顔は、どきりとするほど綺麗で、幻のように遠かった。
「どんな遊びにも終りがくる」
不意に振り向いた少年が、夜目にも鮮やかな笑みと共に結衣に片手を差し出した。
「僕にはもう帰る家が無い。でも君は違う。君には帰るべき家がある。君を待っている人達がいる。それは君が望んだものとは違うかもしれないけれど、でも彼らと家族ごっこの続きをするために、その遊びの結末を見届けるために、君は帰らなくちゃいけない」
「雪人……帰る家がないって、どういう意味……?」
嫌な予感に声が震えた。しかし雪人はそれに答えることなく、ただ静かに微笑んで結衣を見つめた。
「……こんなに暗いのに、ひとりでなんて帰れないよ」
目の前に差し出された指先を握りしめ、結衣が唇を噛んだ。この手を離してはいけない。離せば、きっと二度と届かなくなる。なぜかそんな予感がした。
「大丈夫だよ。自分の足跡を辿っていけばいい」
背後を振り返り、闇に仄かに浮かぶ足跡を見る。淡い燐光を放つそれは、ずっと遠くまで点々と続き、そしてそこには結衣の足跡しかなかった。
……違う。
じっと目を凝らしてみれば、結衣の足跡に寄り添うように小さく丸い跡がある。それは、四つ足の獣の足跡だった。
「どんな遊びにも終りがくる。そして本気で遊んだ者だけに見える終わりがある」
結衣の耳許に少年が再び囁く。
「僕は、家族ごっこに疲れることはあったけど、でもそれを嫌だと思ったことは一度も無い」
背後に立つ雪人の気配が、闇に溶ける蛍の火のように小さく、幽かになってゆく。それを認めるのが怖くて、振り返ることができない。
「いかないで……」と囁く声が風に震えた。
けれどもそれに応える声は無く、ふっと笑ったような息がうなじを掠め、背後の気配が消えた。
泣きながら振り返った結衣の足下で、ちりりんと鈴が鳴った。
エピローグ
あの夜以来、結衣は幾度もお化け屋敷に足を運んだ。けれどもそこにもう雪人はいない。
雪人の家族ごっこは本当はもうずっと昔に終わっていて、でも雪人は独りぼっちのまま遊び続けた。でもそれは、お婆さんの気配が幽かに残るあの家の中だけで成り立つ遊びで、あの家から一歩出た途端に終わってしまう遊びだったのだろう。雪人はそれを知っていた。だから家を出た時、まるでその眼に焼き付けるように、朽ちかけた瓦屋根をじっと見つめていたのかも知れない。
枯れ草に戯れる猫達の柔らかな毛を撫でつつ、あの夜の光景を思い返す。冬の蛍は決して魔法などではない。あれは湿った土に棲み、冬に現れる小さなミミズなのだと、後になって知った。
雪人はいない。遊び終えた少年には、きっともう二度と会えない。彼のいない庭に吹く風は、指先にひどく冷たい。
けれども雪人と共に見た冬の蛍の火は消えることなく、結衣を温め続ける。
「お……おねえちゃん」
朽ちかけた庭木戸をくぐり抜け、外へ出たところで背後から声を掛けられた。
「あの、あのね……この子、こうえんでみつけたの。ダンボールのなかでね、ニャアニャアってないてた。おなか空いてるのかもしれない」
おずおずと近づいてきた少年の腕の中で、牡丹雪のような毛玉が結衣を見上げた。
「おかあさん、怒るかなぁ」
そっと手を伸ばし、少年の腕に抱かれた毛玉を撫でる。うっとりと目を瞑ったそれから微かに伝わる振動が、凍えた指先を温める。
手の中の鈴がりんと鳴った。紅い紐に結ばれた銀色の鈴を、毛玉の首に付けてやる。
「大丈夫。お母さん、怒ったりしないよ。二人でちゃんと面倒見るから、飼って下さいってわたしも頼んであげるから」
大きく息を吸い、吐く息と共に一気に言う。
「お姉ちゃんが、一緒に頼んであげるから」
ポカンと口を開けて、血の繋がらない弟がぱちぱちと瞬きを繰り返す。穴が空くほどまじまじと結衣を見つめるその視線が気恥ずかしくて、くるりと踵を返し、家へ向かって歩き出す。一瞬の間をおいて、パタパタと軽い足音が慌てたようについて来る。その足音が今にもスキップしそうに弾んでいるのを聴きながら、ふと空を見上げた。
冷たい風が頬を刺す。
家族ごっこは楽しいよ、と屈託なく笑う少年の煌めきが、不意に胸を過った。
(END)