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雨夜の月

「ひ…ヒィィィィ…!」


 草むらの中に身を潜め、祐介は奥歯をガチガチと鳴らして震え上がった。わずか数メートル先の空き地では、巨大なダンゴムシ、ウッドボールがその大きな巨体を揺らし蠢いていた。


 

 空飛ぶホースからの落下。別に漫画のヒーローのように空を飛べるわけでもなく強靭な肉体を持っているわけでもない祐介は、当然死を覚悟した。風を切りながら地面に激突するものと思い込み、走馬灯のようなものが頭をちらつきだした次の瞬間、彼の背中は得体の知れない柔らかいものに弾き飛ばされた。全く運が良いのか悪いのか、あろうことか彼が落ちたのはウッドボールの背中の上だったのだ。だがそれがクッションとなり、草むらに投げ出された彼は、危うく一命を取り留めたのだった。


 「グルルルル…!」

 「と…とにかく逃げなきゃ…」



 ここは町外れの山の中だろうか。これといった武器を持たない彼に取って、元々逃げる以外の選択肢はない。持っているものといえば、諸葉から借りたよくわからないメガネくらいのものだ。祐介は息を殺し、ウッドボールを見上げながらジリジリと後退りを始めた。腰を地面につけたまま、物音を立てないように両手をゆっくり動かしていく。その間も彼は、巨大なダンゴムシから目が離せなかった。


 間近で見ると、とにかく大きい。背丈は二階建ての屋根ぐらいはあるだろうか。見た目はもう図鑑で見るようなダンゴムシそのもので、うじゃうじゃと蠢くたくさんの足が祐介の背筋を凍らせた。背中にはコケのような緑の植物がびっしり生えており、恐らくアレのおかげで命拾いしたとは言え、その模様は見ていて気持ちのいいものでは無かった。


 ウッドボールの何処に目があるのかわからないが、まだこちらには気づいていないようだ。気づかれないうちに距離を取って、早くエミリアたちと合流しなくては…。焦る気持ちを何とかなだめながら、祐介は音を立てないように慎重に歩を進めた。



「あー!!」

「っ!?」


 突然後ろから大声をかけられ、祐介は飛び上がった。驚いて振り返ったその先にいたのは…一匹の子犬だった。


「でっかい!でかいダンゴムシ!」

「!?」


 子犬は目を丸くして、祐介の後ろ側に何度も吠えた。彼は唖然とした。子犬が喋っている。ありえない、ココは異世界でも何でもない、ただの地球だ。犬が喋るはずがない…。一体何故、という疑問が頭に浮かび、祐介はハッとなって先程から掛けていたメガネを外した。


「ワンワン!ワンッ!!」


 裸眼で見た犬は、いつものように犬らしい鳴き声を上げていた。やっぱりだ。諸葉から借りた「相手の心が見えるメガネ」…《シンクロルーペ》の力で、犬の声が再生されていたに違いない。祐介は慌ててメガネをかけ直した。子犬がキラキラとした目で祐介を見上げて吠えた。


「ねえお兄さん!見て!でっかいダンゴムシ!!」

「シッ!静かにして!気づかれるから!」


 めちゃくちゃにしっぽを振って興奮する子犬の口を塞ぎながら、祐介は恐る恐る振り返った。


「はっ!?」


だが、遅かった。ウッドボールは既に子犬の鳴き声に気づき、こちらに顔らしきものを向けて唸り声を上げていた。


「グルルル…!」

「……!」

「でっけええ!」


 子犬が祐介の腕の中ではしゃいでいる間に、ウッドボールはゆっくりとその体を丸め始め、やがて巨大な緑色のボールへと変形していった。それは緩慢なゆったりとした動きではあったが、祐介は思わず見とれてしまった。それが間違いだった。


「ねえお兄さん!あのダンゴムシ、こっちにくるみたい!」

「えッ!?」


 子犬がしっぽをぱたぱたと振って嬉しそうに叫んだ。ウッドボールは徐々に、その巨体を前へ前へと…つまり自分たちの方向へと傾け始めた。


「に…にげ…」

「にげ?何で?」


 きょとんとした顔で祐介を見上げる子犬に答える間もなく、彼は踵を返して転がるように逆方向へと走り出した。このままでは、潰される。異界のモンスターの攻撃に、祐介の頭は恐怖で真っ白になった。子犬を抱え、少しでも距離をおこうと草むらの中を走り出した。


「見て!」

「ひぃッ!?」


 腕のなかで子犬が叫んだ。チラリと振り返ると、ウッドボールが自動車のタイヤよろしく高速スピンを繰り広げ、地面を抉りながら白い煙を上げているところだった。あんなものに轢かれては、交通事故どころでは済まない。祐介は縺れる足でドタバタと山を駆け下りた。


「あっ!」

「ぎゃあああ!!」



 元々運動神経の良くない祐介ではあったが、案の定というか、彼は途端に木の根っこに足を取られて頭から地面に激突した。落ち葉の上とは言え、強烈な痛みが祐介の全身を襲った。一瞬何が起こったのか分からなかったが、彼はヨロヨロと弱々しく上半身を起こした。鼻の奥に鉄のような匂いとともに鈍い痛みを感じる。もしかしたら鼻血が出ているのかもしれない。腕も足も、木の枝に服の上から切り裂かれあちこち出血している。


顔を上げると、コケた際に放り投げてしまった子犬が数メートル先で見事に受身をとって着地し、「まるで見ていられない」とでも言った痛々しい表情でこちらの様子を伺っていた。異世界モンスターとの戦闘でも何でもなく、そこらへんにある木の根っこで満身創痍になる自分の姿に、祐介は酷く惨めな気分になった。だが、自分の才能の無さを嘆いている暇はない。振り返ると、ウッドワームはきっとすぐそばまで迫ってきていて…。


「ぎゃああああああああ!!」


 祐介は後ろを向いた瞬間、今度こそ死を悟った。ウッドワームが高速スピンをかっ飛ばし、ものすごい勢いでこちら目掛けて突進してきたのだ。祐介は成す術もなく目をギュッと瞑った。終わりだ。今度こそ…。五秒経ち、十秒経ち…まだ何も起こらない。もしかしてこれは、走馬灯と言う奴だろうか。恐る恐る祐介が目を開けて見ると…。


「あれ!?」


 そこには、奇妙な景色が写っていた。先程まで祐介に向かってきていた筈のウッドワームが、ゆっくりゆっくりと、後退を始めていた。


「な…なんだよこれ…!?」


 事態を把握できず、祐介は困惑の声を上げた。ウッドワームはじりじりと見えない力に押し返されるように、逆回転している。一体何故…もしかして絶体絶命のピンチで、やっと僕にも主人公的な秘められた能力に目覚めたのだろうか。そんなことは有り得ないと思っていたが…まさか本当に…!? 本気でそう思い始めた祐介の足元で、子犬がパタパタとしっぽを振って言った。


「さあ、早く…僕がもらったギフトで、アイツの時間が『巻き戻っている』間に…行こう!」

「へ!?…へえ…え!?」


 何が何だか分からないが、この小さな子犬に、祐介は命を救われたようだ。こんな小さな地球産の子犬にさえ『ギフト』が与えられているという事実に、一瞬祐介の胸は張り裂けそうになった。だが今は、余計なことを考えている暇はない。促されるまま、ボロボロの体を何とか起こし、祐介は子犬のあとを犬のように着いていった。

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