スキームのイシューをアライアンスにエスカレ
気がつくと、裕介は見知らぬサラリーマンの腕の中でガタガタと身体を震わせていた。
先ほどまでの落下し続ける感覚が、まだ体の中で蠢いている。とても幻覚だなんて思えない、なんとも生々しい感覚だった。掌にじっとりと汗を滲ませ、裕介はゴクリと唾を飲み込んだ。
彼を挟んで、狐の仮面男と、サラリーマンがじっと相手の様子をうかがっている。どちらの男にも、裕介は面識がなかった。人通りのない薄暗い路地裏に、張り詰めたような緊張感が漂っているのが裕介にも分かった。
最初に動いたのは、裕介を助けてくれたサラリーマンの方だった。彼はシワひとつないスーツの胸ポケットから何やら小さな紙を取り出すと、狐の男に差し出した。
「何だ…?これが貴様の能力か?」
狐の男は微動だにせず、サラリーマンが差し出す紙を受け取ろうとはしなかった。サラリーマンは笑った。
「いや…俺の名刺だ。俺は猪山重四郎。株式会社東商事の、経理部経理課に勤めている。どうぞよろしく」
猪山と名乗ったサラリーマンはそういうと丁寧に頭を下げた。
「名刺…!?」
「…ふん。くだらん」
狐の男は表情一つ変えずに右手を差し出し、その名刺を「消した」。裕介は目を丸くした。
「ま…まただ!あいつ、右手でものを消せるんだ!」
「落ち着け、暴れんな」
猪山は、とにかくこの場から離れようと腕の中でもがく裕介を片手で押さえ、もう一度空になった右手を狐の男に差し出した。するとー…。
「あれっ!?」
先ほど消されたはずの名刺が、何事もなかったかのようにその右手に現れた。狐の男が舌打ちして、今度は裕介目掛けて右手を突き出した。
「こざかしい…」
「う、うわああああ
裕介の叫び声は途中で遮られた。彼の胸元から上が、狐の男によって消去されたのだった。後に残った彼の下半身だけが、猪山の支えをなくして地面に崩れ落ちた。狐の男が小さく、不気味な笑い声をあげた。
「面白い能力だな…俺が記憶操作系だとしたら、お前のは何だ?近いものを感じるが…幻覚解除とか、能力キャンセルとかそんな感じか?どこの世界で手に入れた?」
「おい坊主、大丈夫か?しっかりしろ」
猪山は膝をつき、下半身だけになった裕介に右手を掲げた。途端に、先ほど消え去った裕介の「上半身」が戻って来た。
ああああああ……!!!……え…え!?何!?何が起きたの!?」
裕介は飛び起き、辺りをキョロキョロと伺った。何もわからない。わからないけれど、何かとても嫌な気分だった。慌てふためく裕介を、猪山は面白そうに眺めて言った。
「半分死んでたよ、お前さっき」
「え!?死ん…!?半分て何ッ…!?」
「なるほど…貴様に記憶操作は効かないらしいが、ならこれはどうかな?」
「え…?」
狐の男の声が聞こえ、裕介は振り返った。そこで彼を待っていたのは、思いがけないものだった。
空中に、巨大なビルが浮いている。6メートルはあろうかという鉄とコンクリートの塊が二つ、裕介と猪山のいるすぐ目の前で漂っていた。
「このビルの質量を「忘れ」させた」
「はあ!?」
いくらなんでも、無茶苦茶すぎる。少し離れたところに立つ狐の男が、その隣に式神か何かのようにビルを空中で従えている。目の前で繰り広げられる物理法則無視のファンタジーな展開に、裕介の頭は理解を拒んでいた。巨大な影にすっぽりと覆われ、裕介は逃げることもできずただそれを呆然と眺めていた。狐の男が静かに呟いた。
「記憶干渉に多少心得があるようだが…物理的な攻撃をどう対処する?」
「ええええええええ!?」
狐の男が、少し離れた位置からすっと右手を下ろした。空を漂っていた巨大なビルが、真っ逆さまに裕介たちの元へと降ってきた。どう対処するって…こんなの一般人にはどうしようもないじゃないか。お手上げだ。本日二度目の死を悟って、裕介は目を瞑った。
「びびってんじゃねえ。目ェ開けろ坊主」
「ハッ…あ、あれ!?」
猪山に後頭部をど突かれ、裕介は恐る恐る硬く閉じていた目を開いた。空中から降ってきたはずのビルは、空から忽然と姿を消していた。正面に立つ狐の男の両脇、元の位置にビルがしっかり「戻って」いる。助かった。一度死んだからこそ分かる…僕はまだ、死んでない。でも、一体どうして?
「…なんなんだ?貴様のその能力は?」
狐の男が、もどかしそうに歯軋りした。自分の能力が通じなかったことに、動揺しているのだろう。猪山がそれを見てニヤリと笑った。
「能力じゃねえよ、社会人のたしなみだ」
「なんだと?」
「チート能力だとか異世界だとか、現実にありえないものは一切「仕事」には持ち込まない…それが社会人の持つルール、『超現実主義』だ」
「!?」
「俺の「仕事」中は、どんな特殊能力も無意味だ。まずは名刺作って出直してきな、坊主」
裕介も、狐の男も同様に戸惑った。それって、社会人のたしなみなのか?むしろそれ自体が滅茶苦茶強力なチート能力なんじゃ…?唖然として自分を見上げていた裕介の視線に気づき、猪山は照れたように笑った。
「しょうがねえだろ、恥ずかしいんだよ…この歳にもなって自分が異世界の不思議な力に目覚めました、なんてよ」