プロローグ
「はぁ…はぁ…もうダメだ!たすっ…助けて…!」
「グォォォォオ…!」
唸り声を上げて迫ってくる巨大な怪物に追われながら、吉井は死に物狂いで路地を這いずり回っていた。吉井は震えながら後ろを振り返った。
かつて見慣れた通学路に、翼の生えた竜のような化物がそこには居た。漫画やイラストなどでお馴染みの、あの竜だ。明らかにこの世界の生物ではない。住宅に挟まれた狭い路地にギュウギュウに大きな体を押し込めているその姿は、何とも異様で滑稽だった。
だが吉井には笑う余裕も無かった。何たってその生物は今、自分の命を奪おうとしているのだから。
「許してくれ…! 剣なら返す!! だから、命だけは…!」
声を振り絞って彼が叫んでも、怪物には通じてないようだった。元より言葉が分かるとも思えない。野生生物のそれを思わせる竜の目つきは、必死に命乞いをする吉井を獲物としか見ていないようだった。
「滑稽だなぁラクス…いや、吉井達也!それがこの世界のお前の本名か!」
「ひぃ…っ!?」
唐突に竜の背後から吉井を呼びかける声がした。声の持ち主はひょいと竜の背中から現れると、道端で無様に尻餅を付く吉井に大げさに嘲笑を浴びせかけた。
そいつは、見た目からして吉井とさほど年齢は変わらなそうな少女だった。とても現代日本には馴染まない、露出の多い派手な服装。三十年後の若者がしてそうなオシャレなのか良くわからない髪型。よく見ると竜には手綱が掛けられており、背中の人物がそれを握っていた。どうやらこの竜は彼女の所有物らしい。
「『自分が異世界の勇者になる』なんて威勢の良いこと言っといて…返り討ちか!」
「エ…エミリア…!」
エミリアと呼ばれた少女が、怯え切った吉井の表情を見て満足そうに唇を釣り上げた。どうやら彼の怯え方からして、この少女はとても恐ろしい存在のようだ。
「さぁ…立ちな。向かってこいよ…勇者になるんだろうが!」
「う…うわああああああ!!」
少女の静かな凄みに気圧され、吉井は悲鳴を上げて、踵を返した。少女が小さくなる遠くなっていくその姿を見て、舌打ちした。
「チッ。情けねえなぁ。敵前逃亡かよ。おいラグーン、もうイイからヤッちまえ」
「グルル…!」
興が削がれたと言わんばかりの呆れ顔で、少女は竜をけし掛けた。主人に命令を下された怪物は、両脇のコンクリート塀を砕きながら翼を広げ、電線を引きちぎりながら空へと舞い上がった。
やがて逃げた「元」勇者を威嚇するような竜の大きな鳴き声が、小さなこの街の空に響き渡った。