番外編 S班の家族 3
もう深夜に近い時間になり、ようやく寝室に来たネルソンの姿を見て、ヘザーがゆっくりとベッドに起き直った。
「なんだ、寝てなかったのか。早く休めと言っただろう」
途端に眉を顰め、自分のベッドにするりと入り込んだネルソンであったが、ヘザーが泣き出しそうな顔でじっと此方を見ているのに気付いて、小さく息をついてから毛布を掲げて妻を無言で招くと、ホッとした顔になったヘザーがトンとベッドを下りて、ネルソンの隣に滑り込み、逞しい胸元に顔を寄せてきた。
相変らず軽いなとネルソンは思った。子を産んでも少女のように細いヘザーは、こうして腕枕をして頭を抱えていても、息子ほどの重さも感じない事に、改めて妻の儚さを想ったネルソンは、内心で小さくため息をついた。
じっとネルソンを見上げているヘザーの僅かに赤い唇を見て、
――今日は口唇の発色がいいな。爪先の色も僅かだがピンクだ。貧血はなさそうだ。
と、ついつい彼女の健康状態をチェックしてしまうのだが、そのほんのりと赤い唇に軽く口付けて、体を倒し仰向けになろうとしたネルソンをヘザーが引き止めた。
「……無理をするな」
妻の意図を悟って、叱るように眉を寄せたネルソンに、ヘザーはまた泣き出しそうな顔になって微かな声を漏らした。
「あなたは私を慮って下さるけれど、私の想いには気付いておられないわ」
「ヘザー、俺は」
ヘザーはくるりと背を向け、自分を抱えているネルソンの左手を取ってその大きな掌に頬を寄せたが、その手に妻の涙が降り掛かるのを感じてネルソンは押し黙った。
「あなたが怪我を負ったと聞いた時、私がどれほど悲しんだのか、お分かりになってないわ。国内の任務とは違う、生命の危険の伴う任務なのだと思い知らされて、私がどれほど不安だったのか」
「くそっ、だから知らせるなとあれほど言っておいたのに」
ネルソンは腹立たしそうに舌打ちをした。
気を利かせたつもりなのか、パリの本部から、ケルンでの仔細がエディンバラの本部に報告され、軍病院経由で知らされたヘザーは、その場で貧血を起こして卒倒したのだという。
「幸い、軽症だったからいいようなものの、お前の心臓には過度の不安は、余り良くはないんだ。俺は大丈夫だと言ってあるだろう。レッド二等准尉も一緒なんだ。俺に危機が及ぶ事はない」
「では何故、今回怪我を?」
それを問われるとネルソンはむぅと黙り込んだ。
「分かっているの。私の存在があなたの枷になっているんだと」
「ヘザー、そんな事は無い」
「いいえ。私がこんな身体なために、あなたの行動を制限しているのは自分でよく分かっているわ。それなのに、自分を変えられない私の弱さも」
「お前の病は仕方の無い事なんだ。特に今は医療が後退していて、使える薬も少ない。幸い、聖システィーナの生薬が体に合っているから安定を保っていられるが、機能障害そのものが治ったわけではないんだ。それは精神力や体質改善で治せるものではない。お前がどれほど願っても、奇跡でも起きない限りは」
「その奇跡を起こしたいのです」
「ヘザー、子供じみた事を言っていないで」
寝なさいと言い掛けたネルソンを、ヘザーは涙に濡れた瞳で振り返った。
「あなたはもうお一つ、分かっていらっしゃらないわ」
潤んだコバルトブルーの瞳で、ヘザーはネルソンの頬に手を伸ばして小さく呟いた。
「あなたが無事にお戻りになって、私がどれ程嬉しかったかを」
そう言って涙を一粒溢した妻は、例えようも無く美しかった。
込み上げる熱情に妻の細い体を抱き寄せたネルソンは、何時もはひんやりとした妻の体が僅かに火照っているのを感じ、金色に輝く髪に唇を寄せた。
休暇の直前に、グラスゴーから戻ってきたニコラス・ティペット二等准尉は始め上機嫌だったが、エディンバラに残ったメンバーでホームパーティを開いたと聞いて、途端にムッとした顔になった。
「俺が居ない間にお前らだけで楽しい事をやりやがって」
「でも、ティペット二等准尉殿はグラスゴーに居られたんだし」
「呼んでくれりゃ戻ったのに」
エディンバラ指令本部のS班作戦指令本部で、ブツブツと文句を言うニコラスに、困惑したジャスティンがタジタジと返答したが、ニコラスはまだ不満そうに顔を顰めていた。
「エイムス中佐殿にお会いしたんだそうだな」
その様子を見て苦笑しながら助け舟を出したレオに、ニコラスは照れて頭を掻いた。
「ええ。良いワインを手土産に。喜んで頂けました、ワインを」
そう言ってカラカラと笑ったニコラスが照れ臭くて笑いに変えているのだと分かっていて、レオはクスッと笑って「そうか」とだけ答えた。
「そういや、おめでただってな。良かったな!」
機嫌を取り戻したニコラスが、大声で笑いながらルドルフの背をバンバンと叩くと、こちらも照れ臭そうに顔を赤くしたルドルフは小さな声で「ありがとう」と笑った。
「嫁さんに似るといいな」
と悪態をついてまた豪快に笑ったニコラスだったが、ルドルフが真顔で、「似てもらわないと困ります」と返すと、あちこちで苦笑が漏れて、木漏れ日の差すS班室内に明るい空気が漂った。
「……はぁ。いいなぁ」
またジャスティンが切なげにため息をつくと、既婚の三人が一斉に振り返り「ああ。いいもんだぞ、嫁は」とクスクスと笑ったので、ジャスティンは机に顎を乗せて、一層顔を剥れさせた。
「……いい休暇だったらしいな」
其々がいい表情を、何時も無表情なあのネルソンまでもが笑顔を見せているのを見渡して、レオが満足そうに呟くと、
「了解しました!」
と、ジャスティンを除く全員が一斉に敬礼を返して、ゆったりと笑ったレオに明るい笑顔を見せた。
「それでは、我々の次の任務だ」
顔を引き締め直したレオに場の空気がサッと緊張の気配に変り、机に一人突っ伏していたジャスティンも機敏に立ち上がり居住まいを正した。
「次なる目標はベルギーと決まった。ドイツ同様に、早くに崩壊を起こして、現在無政府状態で内情は判明していない。注意する点は、ドイツとは異なり軍の機能は恐らく従前の規模で残っている筈だという事だ。軍部が暴走を起こしている可能性もある。危険な任務だと理解のうえ、遂行に全力を尽くせ」
「了解しました!」
険しい顔に戻った班員達にレオもゆっくりと敬礼を返し、次なる一歩へ再び歩み出そうとしていた。




