第十一章 第九話
微かな硝煙の匂いが消えた気配を感じてランスが目を開けると、ドイツ兵を庇うようにその身を覆った自分の体を、更に守るように抱き付くルドルフが固く目を閉じて震えていた。
強張った首を無理矢理捻って背後を振り返ったランスの目の前で、驚きを顔に貼り付けたまま固まっているフランス兵と、その構えた銃身を左手で握り締めて、空へ向けて高く掲げているネルソンが、焼けた銃身の熱に炙られた左手の痛みを堪えて、奥歯を噛み締めて立っているのが見えた。
「……副長殿」
もう一人のフランス兵が唖然として呟くと、ネルソンはようやく銃身から手を離して、真っ赤になった左手のジンジンとした痛みを堪えながらフランス兵を冷たい瞳で見返した。
「彼の銃を良く見ろ。弾は装填されていない。仏国では敵情確認の訓練は行っていないのか」
冷静な口調ながらも怒気を孕んだネルソンに指摘されて、初めて気付いたフランス兵は小さく「あっ」と返し、もう一度小屋の中を繁々と覗き込んだ。
「敵情を良く観察していれば、この間の男も殺さずに済んだ筈だ。同じ過ちを繰り返すな」
ネルソンの鋭い視線を浴びて黙り込んだフランス兵達は、力無く項垂れながら小さな声で「了解しました」と呟くのが精一杯だった。
ランスに身を守られたそのドイツの若者は、体全体をガタガタと震わせながら、眼を見開き物も言えずに、しゃがみ込んだまま立ち上がれないでいた。
「お前なぁ、態々着弾点に飛び込んでくるとは何事だよ」
ようやくランスの背から離れたルドルフは、泣きそうな顔で唇を震わせていて、ランスは呆れて振り返り文句を言ったが、内心ではこみ上げてくる安堵の念に思わず笑みが零れていた。
――俺も、ドイツ兵も、ルドルフも、誰も殺さずに済んだ。
軍人でありながら生存の喜びに震える胸に、ランスは自分に湧き立つ感情に小さく苦笑いした。
「しかしですね。この銃には弾丸が」
「ああ。入ってなかったな」
両手を忙しなく泳がせて、言い訳を口にしたルドルフにポツリと返したランスは、まだ震えている若者に手を差し伸べた。
『怪我は無いか?』
その言葉に、若者は強張ったままの瞳で、穏やかに微笑んでいるランスを振り返った。
ランスの読み通り、この若者はケルン陸軍学校の訓練生だった。
校外実習の最中空爆に遭い、数名の仲間と共に此処へ逃げ込んだのだと言った。
『でも食糧も無く、餓えた仲間は山を降りて行った。民間人を襲うためにだ。俺には、俺には出来なかった』
小屋の前の草地に陣取った一行は即席の竈を作って湯を沸かし、マルセル・ベームと名乗った若者はルドルフが差し出した携行食を脇目も振らずにガツガツと飲み込むと、熱いお茶のカップを手に、その欠けた縁をじっと眺めながら話した。
『銃には元々弾丸は装填されていなかった。訓練だったし。威嚇のためだけに使っていた。民間人も散弾銃などを持っていて、軍服を見ると発砲してくるからだ。川で小魚を取ったり果実を取ったり、夜間に人目を忍んで他の集落の食べ物を盗んだりして生きてきた』
それまで淡々と話していたマルセルだったが、そこでこみ上げる涙を堪えられずに一筋溢した。
『国民を守る軍なのに、彼らから食糧を盗まないと俺は生きて来れなかった。俺は、俺は軍人なのに』
次々と零れる涙を拭っているマルセルを、独語は解らないながらも、ルドルフは慰めるように黙って肩を叩いた。
『お前は尊いと俺は思うけどな』
ランスの呟きにマルセルはハッと顔を上げて、草地に座り込んでいるランスの穏やかな茶色の瞳を見つめ返した。
『少なくとも、殺さなくていい命をお前は何一つ奪う事は無かった。そして自分の命も無碍には扱わずに必死に生きてきた。それで十分なんじゃないのか』
ランスの飄々とした表情を黙って見返していたマルセルだったが、輪の中で一人立っていたネルソンが、包帯の巻かれた左手を握り、マルセルにゆっくりと話し掛けた。
『これからドイツは復興する。大都市は空爆による破壊が酷くて、国民の多くも国外に出てはいるが、まだこの地に残って生き続けている人も居る。どうだ、俺達と一緒にまたあの大聖堂の鐘を聞いてみたいと思わないか』
『ケルン大聖堂は……』
『直ぐ脇の駅を、ピンポイント爆撃された影響で類焼したようだ。だが建物の外観は保たれている。我々はケルン郊外に街を再興し、大聖堂の修復をドイツ復興の第一歩にしたいと考えている。その為には、ドイツ国民が自ら立ち上がる必要があるんだ』
マルセルは黒い瞳を見開いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
最初に訪れたベント村では、この訓練兵を温かく迎えてくれると約束してくれた。
『若い男手はあればあるだけ歓迎だ。しかも誇り高いドイツ軍兵の、その真髄を失っていないというなら尚更だ』
豪快に笑った村長ラインハルトの武骨な笑みに、誠実には誠実で応えるドイツ人の真髄を見て、頑迷で不器用だが心根の真っ直ぐな彼らの未来に、ランスは希望を見出していた。
次第に落ち着きと笑顔を取り戻していくマルセルの変化を見ながら、ずっと恐縮したまま押し黙っていたフランス兵二人が、我慢が出来なくなったのか「あの」とネルソンに話し掛けた。
ラインハルトに連れられ村人達と挨拶を交わしているマルセルの後ろ姿を見ながら、強張った顔のフランス兵にネルソンは「何だ」と短く答えた。
「何故、僅か一人に此処まで?」
自分達が受けてきた教育とは異なるS班員達の行動に、戸惑いを隠せないフランス兵の問いに、ネルソンは笑顔で村人に頭を下げているマルセルの姿に目を細めて、静かに語った。
「それが人間の命だからですよ。例えたった一つであったとしても。その積み重ねが、世界を作るのです。そして、我々が救った命が、今度はまた別の形で別の命を救う事になるでしょう。そうやって、『絆』が結ばれていく事、それこそが【鍵】が願った事なのです」
今は穏やかに話すネルソンの言葉を、黙って聞いていたフランス兵達は、明るく村人達と言葉を交わしあっているランスと、言葉の解らないルドルフが苦し紛れで、表情をクルクル変化させて赤子をあやしているのを見ながら、青い空が浮かぶベント村に燦々と陽が差している中、ゆったりと吹く風に髪を揺らして、和やかな光景をただじっと見入っていた。
「怪我は大丈夫か? アトキンズ少尉」
野営地に戻ったレオ達S班一同が顔を合わせると、レオは先ず、ネルソンに声を掛けた。
「軽度の熱傷程度です。聖システィーナの薬は良く効きますから、二、三日で治るでしょう」
平静な顔で、事も無げに言ったネルソンにレオは安堵をしたが、にこにこ笑っているルドルフの頭をポンと軽く叩いた後、直立不動で険しい顔をしたままのランスに向き合った。
「単独行動は厳禁だと言った筈だ」
「了解しました!」
「自分の行動が自分ばかりかレッド二等准尉やそのドイツの若者の命も危険に晒した事は解っているか」
「了解しました!」
レオに厳しい言葉で言われずとも、ランスは自分の責任を痛感していた。
良くて謹慎で、悪けりゃ異動を命じられても仕方ないと、そうは思ってはいたが、ランスはまだこの隊を去りたくは無かった。
――まだ此処で自分はやらなきゃいけない事がある。
自分の道が此処にあると悟ったランスは、地面に頭を擦り付けてでも隊に留まりたいと願っていた。
「今後二度と軽率な真似は致しません。どうか異動だけは」
ガバッとしゃがみ込んで、地面に両手をつけたランスに、レオは冷たく光らせていた瞳にフッと笑みを浮かべた。
「俺も前に、同じように単独行動をして窮地を招いた事があった。その時の俺は銃の違いに気付いて難を逃れた。お前と俺と、何処か似てるのかもしれんな」
掛けられた言葉にランスが顔を上げると、レオはまた険しい顔に戻った。
「本班は明日朝より、情報のあったアーヘン周辺の探索を行う事となった。ウィルソン一等准尉、フランソワ少尉と共に明日は野営地の警護を行え」
「了解しました」
反射的に立ち上がり敬礼を返したランスは、泣き出しそうな顔で唇を噛み締めていた。
「お前が無事で良かった」
最後に顔を綻ばせて笑ったレオに、ランスは何も言えずに黙って頷くだけだった。




