第十一章 第八話
その建物は公園管理用の資材保管庫のようで、幅三m奥行五m弱程度の小さな小屋だった。
建物脇に無造作に置かれた下草狩り用の草刈機も、風雨に晒され錆の浮かんだ姿で、下から這い上がったつる草に纏わり付かれて、建物の側壁も下半分はつる草に覆われて、暗い森の中、ぽっかりと其処だけ陽が差す空間に静かに佇んでいた。
しかし、建物の入口付近には踏み荒らしたような痕跡が見えて、ランスは誰かが此処に居た筈だと、期待を籠め鍵の壊された入口を開けて暗い中に向かって独語で呼び掛けた。
『何方か居られますか?』
真っ暗な室内を、目を細めて覗き込んだランスの目が闇に慣れてくると、枝打ち用の小鉈や鎌、枝切り鋏が壁に掛けられているのが見え、小さな荷車が積まれた狭い室内の一角に丸めた毛布を見つけ、ランスはゆっくりと室内に入っていった。
埃臭い室内は、無造作に置かれた資材には堆く積もっている埃も、床はやはり踏み荒らした痕跡があって、縁の欠けた小さなカップが毛布の傍らにひっそりと置かれているのを手に取り、確かに此処に難を逃れた住民が居るのだろうと思われたが、何処かに食糧の調達にでも出ているのかと顔を上げて辺りを見渡そうとした時、自分の背中に強く押し付けられた丸い硬い感触にランスは顔を強張らせた。
『手を上げろ』
短く鋭い独語で背後から浴びせ掛けられた声に、ランスの脳裏に後悔の念が浮かんだが既に遅かった。
『壁面に手をついて立て』
振り返る事も出来ず言われた通りに前面の壁に手をついて立ったランスの足元には、開けられた入口から差し込む光で出来た黒い影が落ち、自分の背に立つ人物が一人である事を示していた。
『所属を言え』
その一言でランスには絶望という言葉が浮かんできた。コイツは一般市民ではなくて軍兵の生き残りだ、そう悟ったランスは口元に浮かんだ強張りを引き剥がして、しわがれた声で答えた。
『自分は国連援助隊の先遣隊です』
『国連? そんな組織は無い。お前、連邦だな』
怒りの感情と共に更にグッと押し当てられた銃口に、ランスは唇を噛み締めた。
陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、規則の三年を陸軍で勤め上げるとランスは楽々とAAS小隊への編入試験に合格し、持ち前の抜群の戦闘能力で順調に昇進を重ねてきてはいたが、そもそも既に各国間での戦争は影を潜めて、実戦に近い訓練を行ってはいたが、テロや紛争といった有事すら存在していなかった当時では、敵軍に銃を突き付けられるのは実はランスにとっては初めての事だった。
――これは訓練やお遊びじゃない。俺は此処で死ぬのか。
ジリジリと伝わってくる背後の殺気に冷たい汗が脇を流れていくのを感じて、ランスの脳裏には妻の屈託の無い笑顔が浮かんできた。
――イザベル、済まない。
固く目を閉じたランスは、英国に残してきた妻を想った。
大学時代の同窓で気風が良くさらりとした性格の妻イザベルとは、友達同士のような感覚ではあったが、それでもランスが彼女に愛情を抱いていないわけでは無かった。
軍病院で看護師をしているイザベルは、面倒見が良くテキパキとした物言いで、人によってはキツイ性格に見えたが、それは彼女が職務上そうせざるを得ないからであって、彼女が自分の職務を全うしようとしている事はランスには良く分かっていた。
S班で一緒になる前からネルソンの家とは親しく付き合っていて、ネルソンの妻ヘザーが体が弱く、頻繁に軍病院の世話になっていた事もあって、イザベルとヘザーは姉と妹のような関係で、私的にもイザベルはヘザーを見守り面倒を見ていた。
医師にも夫にも反対された出産をヘザーが決行した時には、それこそ二十四時間彼女を見守り、無事な出産に導いたのはイザベルのお陰だとネルソンからも感謝の言葉を掛けられていたが、無事母となったヘザーが嬉しそうに赤子を抱いている姿に、イザベルも喜びながらも、何処か少し寂しそうな表情を浮かべていたのをランスは気付いていた。
――ごめんな。お前を母親にしてやれなかった。
心の中で太陽の様に微笑む妻の笑顔を思い出しながら、ランスはこみ上げる後悔の中で詫びたが、その一方でまた沸々と別の感情が湧き上がってきた。
――死ねない。お前を残して、こんなところで死ねない。
あの英国を発つ日に、キラキラとした日差しの中で、イザベルが珍しく殊勝な顔でランスを見上げて言った一言を思い出したからだ。
「手や足の一本や二本もがれても構わない。私が面倒を見るから。だから、だから必ず生きて帰ってきて」
人前では滅多にキスをする事の無かったランスだったが、その時ばかりはイザベルの体を抱き寄せ、人目も憚らず口付けを交わした事を思い出し、自分はその約束を守らねばという思いが、ランスの胸の中を燃え上がらせた。
一度覚醒すると、混乱に渦巻いていた頭脳は、彼に軍人としての冷静さを齎した。
――この大きさ、口径は八mm程度か。だとすればK98kか。
此処ドイツで汎用的に使われている銃を思い浮かべたランスは、考えうる可能性を模索し始めた。
――ケルンにあったのは陸軍局で、師団は居ない。あったのは、軍学校だ。とすれば、訓練生か。
さっき掛けられた声色からも背後の相手がまだ若いと感じられた。
――だとすれば懐柔の手もあるかもしれない。
そう結論付けたランスは乾いた唇を一度舐めてゆっくりと背後の男に話し掛けた。
『もう七年も、こうやって此処で潜んでいたんだろう? その間に世界は変わった。俺の腕の階級章を見てみろ。連邦の物では無いと分かる筈だ。俺はスコットランド軍だ』
さっきから息を詰め何も話さなかった背後の男の視線が、自分の腕を見ているのをランスは感じていた。
『戦闘は終わった。連邦は米国の要求した【核】の返還を拒否して、世界各国間で結成された同盟軍によって壊滅し、消失した。そこで世界は新たに国際連合を結成して、再び独立国となった各国間で、協調しながら世界の再構築を進めている』
『その話が与太話でないという証明は?』
まだ若いが、話ぶりから恐らくは聡明であったであろう若者に、ランスは諭すように『ああ』と言った。
『この地域内の他の住民が避難している場所に行った事があるか? 其処には乳児が居ただろ? 【核】が死んでしまったドイツでは、産まれる筈の無い命だ。世界は変わったんだよ』
背後から、逡巡している気配が漂ってきた。押し付けられている銃口も先程から微かに震えているのを感じていたランスは、やはりこの兵はまだ人に銃を向けた事が無いのだと察知していた。
『もう戦わなくていいんだ。俺達はドイツ復興に着手した。お前もその手で元の質実剛健な、あの美しかったドイツを取り戻さないか』
ランスの背に押し当てられていた銃口の、その力が一瞬緩んだと感じたその時だった。
『動くな! 銃を捨てろ!』
掛けられた鋭い声に、若者が振り返った気配を捉えた一瞬の隙を見て、ランスは身を翻して銃身を握り締めたが、壁に背を押し付けられたランスの左胸にピタリと銃口を押し当て、強張った顔をした濃い茶色の髪に黒い瞳のドイツの若者が、汚れ切った顔を歪ませて恐怖に怯えた顔で叫び返した。
『銃を捨てろ! コイツが死んでもいいのか!』
絶望の浮かんだランスの視線の先には、銃を構えたフランス兵が険しい顔のまま立ち尽くしていて、その背後に泣き出しそうな顔のルドルフと、眉間に皺を寄せたネルソンの姿が見えたが、ランスは全てを諦めて空を見上げ目を閉じた。
――フランス兵は必ず発砲するだろう。そして俺もコイツと共に死ぬんだ。
せめて最後には、軍人らしく気高く散りたいと願って目を開けたランスだったが、ドイツ兵の引き金に掛けた指がワナワナと震えているのを見て、ゆっくりと若者の顔を見上げた。
開いた口元も、歯の鳴る音が聞こえるほど震えていて、見開いた黒い瞳には怯えと恐怖だけが浮かんでいるのを、黙ったまま見つめ返していたランスだったが、彼の銃のボルトハンドルが後方に引かれたままであるのに気付いて、ランスは驚愕の眼を見開いた。
「やめろ!」
フランス兵のジリッと足を構え直した音に反応して、ネルソンとルドルフ、そしてランスが体を躍らせた次の瞬間、静謐な森の中に一発の銃声が木霊した。




