第一章 第九話
訓練校の自室に戻ったレオは、ジャケットを不機嫌そうに脱ぎ捨て制服のままベッドに寝転がった。大佐の話が耳から離れなかった。自分の母親が自分を愛していたなどと、戯けた事だと吐き捨てた。
レオはもう一度、自分が母親を殺したあの最後の瞬間を、思い返していた。柄まで深々とナイフを突き立てられながら、困惑した顔でレオを見下ろしていた母親の顔は、薄汚い口元にドラッグの涎の後を残して、剥げ掛けた赤い口紅で笑っていた。
そこで初めて、顔と口元ばかりを見ていた自分の視界の下側で、小さく動いていた母親の手にレオは気付いた。
ゆっくりとした緩慢な動きで、耳の聞こえない話せない母親が、手話で語っていたのを思い出すと、レオは弾かれたようにベッドに起き上がった。
『ごめんね』
母親の手は短くそう告げていて、それはどういう意味だったんだろうか、とレオは思いあぐねた。
レオをこんな境遇に置いた事への侘びなのか、それとも虐待への侘びなのか、戸惑ったレオは頭を激しく振った。
――最後の最後になって謝られたって、どうしろって言うんだ。だったらなんで、最初から俺をちゃんと育てなかったんだ。
困惑した頭を抱えながらも、レオは激しく母親を詰った。
翌日、昨夜は何度も夢で起こされ、寝不足だったレオだったが、何とか校外訓練を終え訓練棟に戻って来ると、丁度教官室から出て来たコンラッドと出くわした。
緩慢な動作で一応敬礼をしたレオに、コンラッドは鼻でフフンと笑ってゆっくりと歩み寄ると、わざと顔を逸らしていたレオの前に向き直り、ニヤニヤと顔を覗き込んだ。
「どうだ。俺の嫁は最高だったろう?」
「……了解しました」
顔色を変えず返事をしたレオを見て、コンラッドは益々面白そうに笑った。
「お前も早く結婚したらどうだ? いい女が傍に居ると張り合いがあるぞ」
フフンと笑ったコンラッドに少し眉を顰めたレオは、やがて口元に薄っすらと笑みを浮かべて嘲りと共に吐き捨てた。
「では、自分は中尉殿の妹君を嫁に貰います。五歳から男を知っているテクニシャンなら、自分も毎晩満足出来るでしょう」
笑いが消えたコンラッドの顔を見て、一昨日の溜飲を下げたレオだったが、コンラッドの右ストレートを、避ける事も出来ずに鼻で受けて、グシャッと鼻の潰れる鈍い音と共に、口の中に血が溢れて思いっきり吐き出した。
その場に崩れ落ち掛けたレオの首元を掴んで引き摺り立たせて、再び拳を振り上げたコンラッドを、ムーアハウス少尉が必死に止めに入らなかったら、またボロボロになるまで殴られるか、今度こそ本当に殺されるところだったが、がっちりと押さえ込んだ少尉にはコンラッドも敵わないようであった。
コンラッドはジタバタもがいていたが、やがて諦めて力を抜いた。だが、顔だけは怒りで真っ赤になり、険しく寄せた眉の下の緑の瞳には紅蓮の炎が燃えて、今にもレオに飛び掛りそうな勢いで、指を突きつけてコンラッドは絶叫した。
「いいか! 二度と俺の前にその面を見せるな! 今度俺の目の前に立ったら殺すぞ!」
「個人的な恨みで無抵抗の部下を殴るのは、軍では許されてる事なのか?」
折れた鼻から流れ落ちてくる血で喋り難かったが、レオが冷静に切り返すと、コンラッドは鼻白んだように黙り込んだ。
「何があったんですか? 中尉殿」
心配そうにコンラッドを覗き込んだムーアハウス少尉に、険しい顔をしたままコンラッドは手を上げて、もう大丈夫だと合図すると自分の乱れたシャツを直して、崩れ落ちそうな体を両脇から兵士に支えられているレオに向き直った。
「軍本部には自分で報告する。救護室にて手当てを受けよ」
それだけ言うと、踵を返して去って行ったコンラッドを白けた瞳で追いながら、レオはまた口の中に溜まった血をベッと吐き出した。
結局はレオも謹慎処分を受けて、例の懲罰室に入れられた。今回は書き取りではなく、反省文を書けと言われて、同じように何度も書き直しをさせられ、丸一日経ってからようやく解放された。
丸一日振りの食事にありつけたレオが、満ちた腹を抱えてため息をつきながら食堂を出ると、外の廊下で腕を組んで厳しい顔をしたローラ・メラーズ准尉、今はローラ・アデス准尉が立っていた。
「話があるの」
お座なりな敬礼を返したレオに短く切り出したローラは、黙ったまま振り返って、レオについて来るよう合図をした。
ムーアハウス少尉の教官室で、勧められたソファに腰を下ろしたレオの前にローラも腰を下ろし、まだ鼻梁にテープを貼った状態のレオの顔を黙ってじっと見つめ返していた。
窓際の大きな教官用の机の前では、ムーアハウス少尉が、口元で手を組んで、こちらも黙ったまま二人を見守っていた。
「先ずは、お詫びをさせてもらうわ。本来なら、本人が詫びるべきなんだろうけど、コンラッドは謹慎一ヶ月の処分なので、今は外出出来ないの」
そう言うと立ち上がったローラは、不貞腐れた顔をしているレオに向かって直立不動になり、腰を深く曲げて頭を下げた。
「この度は、申し訳ありませんでした」
そのまま身じろぎもしないローラに、レオは視線を外して小さくフンと鼻で息をした。
「そんなに妹が大事なら、鍵の付いた戸棚にでもしまっておけ、とアイツに伝えろ」
せせら笑ったレオに、ローラは強張った顔を上げた。
「……貴方、彼に何を言ったの?」
「聞いてないのか? アイツが早く嫁をもらえと言うから、じゃあお前の妹をもらってやると言ったんだ。アイツの妹は、五歳で男を覚えた売春婦だったそうじゃないか」
首を竦めて嘲笑ったレオだったが、次の瞬間には、自分の目の前に迫っていたローラの拳が、何時の間にか彼女の背後についていた少尉の手によって、ギリギリで止められているのを見て、ギョッとして腰を引いた。
「少尉殿、離して、離して下さい! どうか、コイツを殴らせて! コンラッドの代わりに、私がコイツを殺してやる!」
悔しそうに涙ぐみながら叫ぶローラを、必死で押し留めながら、少尉は宥めるようにローラをソファから引き剥がした。
「落ち着け、ローラ。例え殴っても問題が解決しないのは、中尉殿が証明しただろう!」
肩で息をするローラが落ち着いたのは、それから数分経ってからの事だった。
今度は、レオの前にムーアハウス少尉が腰を下ろして、ローラは教官用椅子に座らされてがっくりと肩を落としていた。
「なるほど、お前はそれを中尉殿に言って殴られたわけか」
「それがどうした」
ローラが激昂しているわけが分からず、不貞腐れた返事を返したレオに、少尉は長いため息をついた。
「大佐殿から、大まかな話は聞いたようだな。しかし、肝心な話をお前は知らない。それが中尉殿の琴線に触れる事だという事もな」
終始冷静なムーアハウス少尉の声にレオは小さく眉を寄せたが、顔を上げた少尉の瞳に悲哀が浮かんでいるのにレオは気付いた。
「中尉殿の妹君は、引き離された後、別の養護施設に預けられたが、その施設の院長が、金に目が眩んで妹君を売ったんだ。性的玩具にする目的の小児性愛者にな。それ以降は行方不明で、現在も所在は判っていない」
窓際の椅子に腰掛けていたローラが、顔を覆って声を殺して泣き出した。
ローラのしゃくり上げる泣き声を聞きながら、レオは怒り狂ったコンラッドの顔を思い浮かべたが、怒りに沈んだ緑の瞳のその奥にある悲嘆の色に気付いて、レオは眉を寄せ瞳を閉じて空を見上げた。
最初の養父から妹が性的暴行を受けて、養父をコンラッドが殺害した後、妹は養母により養護施設に預けられた。コンラッドは問題行動の児童を収容する施設に入れられたが、一年後には脱走して、妹の預けられた養護施設を探し当てたが、その時にはもう妹は其処には居なかった。
「本来なら養親になる条件を満たしていない相手に、金を要求して偽の書類を作り、養子縁組させていたんだ、その院長は。その子がその養親から、何をされるのかを分かっていながらな。そうやって売った子供は数え切れなかったそうだ」
苦悩の顔を見せているムーアハウス少尉を前にして、レオは口を噤んだままだったが、何時の間にか泣き止んでいたローラがポツリと言った。
「だからコンラッドは、その院長を殺したの。それが二人目よ」
泣き腫らした目で、悲しげにレオを見ているローラから目を逸らして、レオは狼狽を隠せなかった。
「院長の死で妹君の行き先を追えなくなってしまってな。証拠書類は巧みに処分されていた」
フゥとため息をついた少尉は、手を組んで机に肘をつき、レオを覗き込んだ。
「お前はその事情を知らなかった。だから今回は不問にしてやる。だが、二度と中尉殿の前に顔を見せるな。今度はきっと、俺も止められない」
「生きているか死んでいるかも分からないのか?」
ようやく言葉を搾り出したレオに少尉は小さく首を振った。
「生きていれば二十四歳になっている筈だ。消息は追ってはいるがまだ判っていない」
また、声を殺して肩を震わせてローラが泣いている気配がした。地獄を見てきたのは俺だけじゃなかったんだと、レオは気まぐれな神の仕打ちに、天を仰いで小さく息をついた。