第十一章 ケルンの鐘よ再び編 第一話
七月を迎えるとエディンバラの街も緑で溢れて、花の香りが其処此処に漂って、春の盛りから夏の初めを感じさせる穏やかな陽光が降り注ぎ、凍てつく冬の厳しさから解放された街の人々の顔にも、強張りが消えたにこやかな笑みが溢れる季節となっていた。
国連援助隊結成式典に臨むAAS小隊S班の一同は、白い煌きを返す凪いだエディンバラ軍港で、見送りの家族に囲まれて、其々の隊員達も暫くの別れを惜しんで穏やかなひと時を迎えていた。
「……家族って、いいですねぇ」
ハイランドのアバディーン出身のジャスティン・ウォレス曹長は見送りが誰も居ず、一人で寂しそうにしていたが、同じく見送りの居ないレオの隣で、はぁとため息をついた。
「家族じゃなくて、嫁が羨ましいんだろ? お前は」
やはりポツンと一人のニコラス・ティペット二等准尉が、豪快に笑って冷やかすと、ジャスティンはむぅと唇を尖らせて拗ねた顔をしてニコラスを横目で見た。
「ティペット二等准尉殿の奥方は、ハイランドの誇るご自慢の兵士であられたし、班長殿には正しく聖母のような婚約者殿が居られるから、自分だけが独り者だとおっしゃりたいんでしょう」
「分かってりゃいいんだ」
可笑しそうに笑いながら、ジャスティンの背中をバンバンと叩くニコラスに、レオは黙ったまま苦笑を返した。
「それにしても、レッド二等准尉殿の奥方も、アトキンズ少尉殿の奥方も……美人だなぁ」
羨ましげにブツブツ溢しているジャスティンの視線の先を追って、レオも家族と暫しの別れを惜しんでいる班員達に目を細めた。
ネルソン・アトキンズ少尉は、相変らず目深に帽子を被り淡々とした顔付きではあったが、まだ一歳にもならない息子を抱いた線の細い色白の妻を見る目には、普段の彼からは伺えない慈愛の籠った優しい光を浮かべていて、余り個人的な事は話さない彼だったが、妻子を大事にした穏やかな家庭なのだろうと、レオは思った。
一方のルドルフ・レッド二等准尉にはまだ子は居らず、見た目も童顔でティーンのように見える妻とはまだ新婚気分のようで、班内ではいじられ役の内向的なルドルフが、人目も憚らずにひしと抱き合っている様子に、ジャスティンが羨ましがるのも無理は無いと、同じく苦笑しているニコラスと顔を見合わせてクスッと笑った。
ランス・ウィルソン一等准尉も妻との間にまだ子は無かったが、軍病院の看護師をしているという妻とは学生時代からの同級生だと聞いていて、友達同士のようなフランクさの中にも深い信頼が見て取れるいい関係のようで、班員達が其々の家族と暖かい家庭を築いている事に、レオも深い安堵を覚えて口元に小さく笑みを浮かべた。
ビリー・ローグ曹長は、同い年のジャスティンと同様まだ独身であったが、エディンバラ出身の彼には両親が見送りに来ていた。
建築家とインテリアデザイナーだという彼の両親は、洗練された芸術家らしい雰囲気を醸し出していて、普段着のビリーの洒落っ気を思うと、なるほどあの両親の血を引いているのだな、と納得したレオであったが、そんな彼が、何故洗練とは無縁の野暮ったい軍に入ったのか、ふと気になった。
「ウォレス曹長」
「はっ」
急に声を掛けられて、緊張したジャスティンが真顔を向けると、レオはヒソヒソと耳打ちした。
「なんでローグ曹長は軍に入ったんだ? 服飾とかデザインとかに興味がありそうだが」
それを聞いてジャスティンはクスッと笑みを溢し、レオに耳打ちをし返した。
「そりゃ、軍人の方が女の子にモテるからですよ。外見はお洒落、でも中身はマッチョで頼れる男を目指してるんだそうです」
呆れ返った目を丸くしてジャスティンを繁々と見返したレオに、ジャスティンは慌てて友人を庇うように声を落として付け加えた。
「でもあの北部の旅で彼は変わったようです。任務中には女の事が気にならなくなったって言ってましたから」
「阿呆か。当たり前だろが」
こちらも呆れ返ってジャスティンをジロリと睨んだニコラスに、ジャスティンは苦笑いを浮かべて首を竦めて見せた。
「そろそろ奴らを引っ剥がせよ。出掛けるぞ」
後ろからレオの肩を叩いて笑ったコンラッド・アデス少佐を振り返って、レオは「ああ」と苦笑を返し、深く帽子を被り直すと真顔になった顔を上げた。
英国海軍フリゲート『エクセター』は、今もまだ試験運用中ではあったが、ハイランド及びオークニー諸島の復興という急務を得て、今回もオークニーに建設用の大型重機を移送しデボンポートに帰る途中で、レオ達をポーツマスまで移送する事になっていた。
フォース湾を出た『エクセター』が順調に北海を南下し始めると、レオは呼ばれた艦長室に、副長ネルソン・アトキンズ少尉を伴ってコンラッドを訪ねた。
「スコットランド陸軍第九十九AAS小隊S班中尉、アレックス・ザイア、参上仕りました。入ります」
声を掛けてドアを開けたレオの前で、黒のシンプルな机に座ったコンラッドが気軽に手を挙げて「よぉ」と笑っていて、小さく苦笑したレオだったが、その傍らにあるグレーのソファに腰掛けている黒髪の長身の男性が振り返り、銀縁の眼鏡の奥の黒い瞳に、笑みを滲ませてゆったりと笑った。
「まぁ、入れ。お茶でも飲もうや」
何処までも気さくなコンラッドにレオは小さく首を竦めた。
「お前、会うのは初めてか。こちらはMr.ケイン・エバンスで、資源エネルギー庁の先端技術推進本部の本部長であられる」
「……じゃあ」
「クリスの兄上だ」
紹介したコンラッドがニヤリと笑うと、ケインはゆったりとした笑みを浮かべたままレオに右手を差し出した。
「何時も弟が本当にお世話になっています。お噂は伺っております、ザイア中尉殿」
「ああ、レオでいいよ。コイツは、敬称で呼ばれるのに慣れてないからな」
横槍を入れるコンラッドに苦笑し、レオはケインの手を握り返しゆったりと笑った。
シェフィールドで、最新再生可能エネルギーの研究をしていたというケインは、弟クリスよりも九歳年上で、既に十二歳になる子が居る父親でもあった。
十代にも見える童顔のクリスとは違って、同じ黒髪黒い瞳でありながらも、理知的な切れ長の瞳と学者らしい穏やかな振る舞いで、彼らの父であるフランク・エバンスに似ているなとレオは思った。
レオが隣のネルソンを振り返って、「彼は本班の副長で――」と、紹介しようと言い掛けたが、ケインはフッと口元に笑みを浮かべてネルソンを懐かしそうに見て言った。
「久しぶりだな、ネルソン」
「ああ。十年ぶりぐらいか、ケイン」
「なんだ、お前たち知り合いだったのか」
驚いたレオにネルソンはやはり淡々とした表情で、
「はっ。オックスフォード大学時代の同窓であります」
と事も無げに説明した。
「だから、副長も呼んでくれって言ったのか、ケイン」
コンラッドも知らなかったらしく、探るようにケインの顔を覗き込み、少し悪戯っぽく笑ったケインの顔にクリスの面影を見付けて、レオは懐かしさに目を細めた。
「私は工学部、彼は医学部で学部は違いましたが、サークルが一緒だったんですよ」
温かいお茶を囲んで、ソファに陣取った一同を見渡してケインはゆったりと笑った。
「オーロラを見る会、というサークルでして」
其処でクスッと笑ったケインに、ネルソンは憮然とした表情で、
「自分達の過去の思い出話を聞かされても、班長殿もアデス少佐殿もご不快なだけだろう。慎めよ、ケイン」
と、珍しく面白くなさそうに嗜めた。
「いーや、十分面白いぞ」
コンラッドが茶化すと、ネルソンは益々顔を顰めた。
「私は実益を兼ねてまして、と言うのも、最新の波力発電実験施設がオークニー諸島にあるんです。それでしょっちゅうオークニーに出掛けてましたので、そのついでというか。ところが、この無粋な男が何故オーロラを見る会なんて洒落たサークルに参加していたかと言うと」
「おい」
突っ込んだネルソンの頬に赤みが差した。
「彼はオーロラじゃなく、もっと美しいものを見に来ていたんです」
「って事は、女性だな」
コンラッドが直ぐに察してケラケラと笑い、ネルソンは少し赤くなった頬でブスッと黙り込んだ。
ネルソンの妻ヘザーは、オックフォード大学の同窓であり、同じサークルであったが、美女の誉れ高い彼女を射止めたのがネルソンだったとケインはクスクスと笑いながら言った。
「一年生の時に、彼女はミスキャンパスの候補に選ばれましてね。惜しくもベル・ミラー女史に栄冠を奪われましたが、翌年は彼女がミスであろうと噂されていたのに、それからは、悉く断りまして。まぁ、元々しとやかで、表立つのが嫌いな女性でしたから然も有りなんと思っていたら、卒業と同時にコイツと結婚しちまいまして。コイツが密かに彼女と交際していたのを誰も気付かなかったという、我々男性陣は皆敗北を喫したわけです」
「もういいだろう。まだ在学中にメイを妊娠させて結婚したお前に、敗北などとは言われたくないぞ」
「やるなぁ、ケイン。奥手のクリスとは全く似てないな」
逆に突っ込まれて頭を掻いたケインに、コンラッドが冷やかしてカラカラと笑った。
無愛想に剥れているネルソンの意外な一面を見て、レオは内心で苦笑を浮かべたが顔には出さず、話を変えるようにケインに振った。
「今回は、オークニーへ視察に?」
それで本分を思い出したのかケインは体を起こして瞳を輝かせた。
「ええ。その波力発電実験装置の状況確認と、今後の復興に於ける電力供給設備の視察を行ってきました」
「どうです?」
レオが先を急かすと、ケインは穏やかに笑った。
「この第三世代ジャイロ方式による浮体装置は日本との共同開発でして、地震国でもあり津波の襲来も予測されている日本に於いても耐えられるよう設計されています。今回の津波の波高三m規模では損傷は無いだろうとは思っていましたが、案の定浮体は無事でした。但し、沿岸に設置されていた送電施設に破損があり修理が必要です。それとオークニー諸島には風力発電施設もあるのですが、こちらは丘陵地にあったため無傷です。発電量は波力の五分の一程度ですが、当初の復興事業と街再生事業の間ぐらいは十分かと」
「では計画は予定通りに進みそうですね」
朗報に安堵を浮かべたレオであったが、コンラッドは詰まらなさそうに口を尖らせた。
「雑談するために呼んだのに、仕事の話かよ」
その表情に顔を見合わせてクスッと小さく笑ったレオとケインは、バツが悪そうに頭を掻いた。
「時にザイア中尉殿、弟を救ってやって頂いて、ありがとうございました」
急にケインに話を振られて「え?」とレオは戸惑った。
「貴方からの電話が何よりも嬉しかったと、弟は言っていました。私達が理詰めで説明するよりも、現場を見た貴方の心からの言葉が、何より彼にとって嬉しかったようです」
「いえ」
穏やかに微笑んでいるケインをまともに見れずに、レオは照れた顔を伏せて短く返した。
「私事でお時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
艦長室を後にして、S班控え室へ向かう艦内の廊下でネルソンが淡々と話すと、レオはフッと笑って言った。
「いや、貴君も驚いただろう」
「ええ。まさかアイツ……いえ、Mr.エバンスが乗艦しているとは知りませんでした」
珍しく動揺しているらしいネルソンの様子にレオは小さく笑ったが、思い出したようにネルソンに訊ねた。
「それで、医学部に行っていた貴君が何故軍に?」
何気ない問いであったのにも関わらず、ネルソンは顔をピクリとさせると考えるように口を固く結んで立ち止まった。
「……混迷の時代が遠くないという事を、自分は分かっていました。既に出生率は絶望的な数値へと落ち込んでいて、学部柄自分は早くに気づいていました。ならば、と自分は思ったのです」
ネルソンは真顔を変えずにゆっくりとレオを振り返った。
「己を鍛錬し、我が身で妻を守れるようにしようと」
レオは彼の真剣な表情をマジマジと見返して、少し驚いたように眉を上げた。
「妻は体が弱く、自分で身を守る術を何も持ち合わせておりません。子の出産も医師には反対されました。しかし彼女は、自分のために命を賭して自分に子を授けてくれました。自分が守らずして、誰が彼女を守るのでしょうか」
「……では、遠征のある今の班は、貴君にとっては」
言い難そうにレオが言い掛けたが、ネルソンはそれを遮ってフッと穏やかに笑った。
「この班は、軍人としての自分が成すべき事が、それ以外にもある事を初めて教えてくれました。妻も十分に理解してくれています。幸いにもレッド二等准尉の奥方とも親しくさせて頂いていますので、彼女に危害が及ぶ事は無いでしょう」
ネルソンの言葉にレオが怪訝そうに眉を寄せ、ネルソンは小さく笑みを溢した。
「彼の奥方も予知能力者なのですよ、班長殿」
「夫婦揃ってか」
「ええ。だからこそ二人が引き合った、のかもしれませんが」
「なるほどな」
先ほど港で互いに嬉しそうに見詰め合っていた二人を思い出して、レオは彼らがああして笑っているという事は、この先の英国は無事なのだろうと思って、残していくマリアを想った。
レオがポーツマスへと向けて旅立ったこの日に、逆にマリアは、スコットランドとの協議のために、エディンバラへ向かったのだとコンラッドに聞いて、すれ違いになる己の運命に、まだ道は遠いという事だなと、レオは心の奥底に、大切に抱き続けているマリアの笑顔を思い出して、この一歩に竦まないように顔を引き締め直すと、再び靴音を響かせて歩き始めた。




