番外編 S班の休日 1
鼻歌を歌いながら上機嫌なビリーは、シャワールームの鏡を覗き込んで、短い金髪を丁寧に撫で付けてからディップを手にして軽く前髪から上に立たせ、顔を左右に振って寝癖の跡が残っていないかしっかりと確認した。
今度は部屋のクローゼットを開けて、着込んでいる淡いグレーのタートルネックのセーターに合わせるマフラーの色を散々と悩んだ挙句に、ロンドンで見掛けて気に入って、探し回ってようやく手に入れた『アルカディアオレンジ』という、明るいオレンジ色の縞のマフラーを合わせ、濃いキャメル色のピーコートを手に、もう一度鏡で全体をチェックしてようやく納得したビリーは、部屋を出ると直ぐ隣の部屋をノックした。
「おい、ジャスティン。出掛けようぜ」
銀色に近い金髪をボサボサにして、蒼の瞳もまだ夢の中のように寝惚け眼で「あ?」と出て来たジャスティンの有様を見て、ビリーは顔を顰め苦笑した。
「折角の休日なんだぜ。今度は何時休めるか分からないんだぞ? さっさと仕度しろよ」
かったるそうに、Tシャツにスウェットのままでボリボリと頭を掻いている友人を急かして、ビリーはフフンと笑った。
エディンバラに戻ったS班員達が、三日間に亘る報告書の作成を終えると、ようやく班員達には五日間の休日が命じられた。
「丸一ヶ月近く休みなしぶっ続けで、たった五日間かよ」
スウェット姿のまま出掛けようとしたのをビリーに止められて、Tシャツとジーンズに着替え、黒色のボマージャケットを無造作に羽織ったジャスティンは、髪にも一応櫛を入れたが、ほぼボサボサのまま、パブのカウンター席で面白くなさそうに呟いた。
ジョージストリートにあるカフェで遅めのブランチを取った二人は、パブに移動して陽の差すストリートを眺めながら昼間から飲むエールを味わっていたが、エディンバラに戻ってからもずっと塞ぎ込んだままのジャスティンを気遣い、ビリーは投げ遣りに肘を突いている友人に苦笑を浮かべただけで「まぁまぁ」と軽く往なした。
「ビリー、お前さぁ、実家に帰らなくていいの?」
「ん? ああ、もう昨日行ってきたさ。お前が一日中、不貞寝している間にな」
此処エディンバラが故郷のビリーは、空にしたエールのグラスをバーテンダーに差し出してお代わりを頼むと、まだ不貞腐れているジャスティンに「なぁ」と声を掛けた。
「何時までも凹んでても、埒が明かないぞ?」
オルガに振られた事で、ずっとしょぼくれているジャスティンを見かねてビリーは気晴らしに誘ったのだったが、中々浮上の切欠を見出せない友人にビリーはため息をついた。
「俺、軍辞めようかな」
ジャスティンは後ろを向いたまま振り返りもせず、ビリーは眉を寄せて問い質した。
「辞めてどうするんだ」
「……オークニーに行こうかと」
ボソボソと呟くジャスティンにビリーは大げさなため息をついた。
「行っても無駄だぞ、多分」
「何でだよ」
ムッとして振り返ったジャスティンの顔を、ビリーは呆れ顔で、目を細めて見た。
「中尉殿は優しいから、お前には何も言わなかったんだろうけど、お前気付いてないのかよ」
「へ?」
キョトンとした瞳で見上げたジャスティンに、ビリーはやれやれと首を振った。
「オルガは全ての男を受け入れた。でも、そのオルガが唯一縋ったのは誰だ?」
其処でようやく気付いたジャスティンは、途端に目を見開いて、「あ」と口を開けた。
「というわけだ。素直に諦めろ」
ビリーにポンポンと肩を叩かれ、また塞ぎ込んだジャスティンはカウンターに突っ伏して力無くため息をついた。
「そっか。俺は別のやるべき事があるから振られたんじゃなくて、元々オルガはジョセフが好きだったのか」
ようやく理解したジャスティンが、切なげにため息を漏らすと、ビリーも「ああ」と苦笑いした。
「好きな男は魂の抜け殻で、しかも、大の大人達がこぞって苦悩を抱えてもがいているのを助けてやらなきゃならなくて。そうやって授かった我が子を守って生きていく事を決めた彼女の強さの裏には、計り知れない葛藤があったと思うぞ? それを理解してやれよ」
「……オルガはそれで幸せになれるんかな」
ジャスティンは寂しげに呟いたが、ビリーは小さく笑って言った。
「神様は其処まで意地悪じゃなかったみたいだが、お前、気付いてないか?」
「何をさ」
「オルガの赤ちゃんだよ。瞳が淡いブルーだった」
「あ」
「ああ、きっとそうだ。きっと神様はオルガにこの先の幸せを授けてくれたに違いないさ」
何時かあの若い二人が、緑が甦ったオークニーの晴れ渡った空の下で、可愛い娘と手を振って出迎えてくれる日が来るんだろうと、ビリーは遠くないその未来を願って目を細めて笑ったが、それでもジャスティンは、まだ面白くなさそうにエールのグラスを手の中で持て余しながら、拗ねた瞳で唇を尖らせていた。
「何時までも拗ねてても仕方ないぞ。一旦戻って着替えるぞ」
「何でだよ」
「これからは夜の部だ。もっとシャキッとした格好をしろ。派手に飲み明かして、可愛い女の子を捕まえようぜ」
「って俺は」
「失恋なんて、飲んで騒いで忘れるのが一番さ」
クスクスと笑ったビリーに、ジャスティンはムスッとした顔で、不機嫌そうに見上げているだけであったが、自分を気遣ってくれている友人の気持ちは痛いほど分かっていて、促されて立ち上がった時には、口元に小さく笑みを浮かべていた。
昼下がりの眩しい陽光の差す居間で、折角の休日なのに、PCに向かっている夫の背後からそっと覗き込んで、来月にはフランスへ行く筈の夫が、何故だかドイツ語辞典を見ているのを不思議そうに見ながら、エリーは夫ルドルフにそっと囁いた。
「あなた、北部から戻ってらしてから変わったわ」
「え? 何が?」
「だって、何時も難しい顔をしているか、ため息をついているか、どっちかばかりだったのに、あなた変わったわ」
キョトンとした顔で振り返ったルドルフを、エリーはクスクスと笑った。
エリーは幼い頃から、何度も不思議な感覚に助けられて来た。
ロンドンの学校に通っていた当時「あそこは、SASが守るそうだから安全よ」と、親に諭されたにも関わらず、比較的治安が安定していたエディンバラの学校に転校した時も自分の中で蠢く感覚に間違い無いと思っていたし、エディンバラ大学時代ミスキャンパスの候補にも選ばれた自分が、友人を介して知り合った、年上の冴えない風貌の軍人に将来が閃いたのも、全く不思議とは思わなかった。
最初にルドルフと会ったその瞬間に、自分はこの人と結婚するんだわと何の疑いも無く感じた事も、それはエリーにとっては、至極当たり前の事のように思えたのだ。
だからこそ、近隣の同僚の奥さん達に「今なら貴女まだ若いからやり直せるわ。もっと才能のある人と再婚したら?」と囁かれても、エリーは夫を信じて疑わなかった。
そして今回、オークニーの悲劇を夫達が発見し生存者を救出したというニュースも、エリーにとっては、自分のこの第六感の証明のような気がしていたのだった。
北部から戻ってきた夫を「ご成果おめでとう」と笑顔で迎えたが、悲しそうな顔をした夫が、
「エリー、めでたい事ではないんだ。本当は、僕らはもっと早くに気付くべきだった」
と寂しげに呟いたのを聞いて、自分を恥じると同時に、心優しい夫をエリーは誇りに思ったのだった。
根を詰めている夫に湯気の立つ紅茶のカップを差し出しながら、
「それで、どうしてフランスへ行くのにドイツ語なの?」
と、日常会話や良く使う言い回しを中心にピックアップしている夫の顔が映り込んでいるPCを覗き込み、不思議そうな顔で訊ねたエリーに、ルドルフは小さく笑みを溢した。
「うーん。良く分からないんだけど、必要な気がして」
「そう。でも気をつけてね。ドイツは崩壊が早かったから」
恐らくそのドイツ語圏に派遣されるのであろう夫を想って、顔を曇らせたエリーを振り返って、ルドルフは明るく笑った。
「心配ないよ、エリー。僕らには班長殿がついている」
まだ夫の上官には会った事が無かったエリーだったが、夫がそう言うなら間違いは無いだろうと思った。そしてその夫への信頼にも間違いが無い事を悟っているエリーは、穏やかに「ええ」と笑って、手を伸ばしてきた夫のキスに応えて、はにかむような笑顔を見せた。
――今度彼が任務から戻ってきたら、驚かせるニュースがきっとあるわ。
何故だか浮かんだ思いに自分でも内心で苦笑を浮かべて、自信を得て一層逞しく感じる夫に体を預け、エリーは嬉しそうにほんのりと頬を染めた。




