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闇色のLeopard  作者: N.ブラック
第十章 第九十九AAS小隊S班 オークニーの悲劇編
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第十章 第十話

 アシュレイ夫妻をエディンバラから運んできたハリソン少佐は、追って次々と到着したAAS各班の精鋭達を引き連れて、その日の夕方インヴァネス指令本部内でレオ達に引き合わせた。


「ABC各班班長又は副班長、並びに各班の精鋭を集めた。之より彼らに君達の任務の引継ぎを行って貰う。今後はAAS各班毎に、北部地域並びにオークニー復興計画を迅速に展開する事となる」

 ハリソン少佐は其処でレオ達S班一同をジロリと睨んだ。

「尚現作戦内に於いては、S班全てが上官である。逡巡する事無く、遅滞無く引継ぎを完了せよ」

 そうは言われても、殆どが自分達よりも上の階級であり、其々が各班に在籍していた時の上官達を前にして、緊張が解けない一同は強張った顔で敬礼を返した。

「必要な事は、必要な情報を的確に、行動部隊に全て伝える事だ。それがこれからのお前達の行動にとって、必要不可欠な要素の一つとなる。臆していては世界は救えない。それを忘れるな」

了解しました(  イエスサー)!」

 ハリソン少佐の低い朗々とした声を聞いて、レオも自分達の役割を再認識して唇を噛んだ。


 自分達は、必要な調査を終えたら後はそれを後任に引継ぎ、また新たな場所を目指して旅立たなければならず、その場所に最後まで関わっている事は出来ないのだ、とレオは改めて思った。


 ――だから、悔いは何一つ残したくない。


 遣り残した事が一つでもあってはいけないのだと、もう一度この北部やオークニーを思って、見落としている事が無いかグルグルと思考を巡らせているレオは、打ち合わせ作業に入った班員を見守りながら、強張った表情を崩さないジャスティンに目を止め、じっと考え込んでいた。




 引継ぎに忙しい最中ではあったが、外出の許可の出たジョセフをスミストンにある家畜総合センターへと連れていったレオとジャスティンは、ほぼ野生化していて人に懐かない北ロルンド羊の仔羊をジョセフが容易く宥めて、首筋を愛おしそうに撫でるジョセフに、甘えるように擦り寄った仔羊を感心して眺めていた。

「流石に手馴れてるな」

「こいつらは元々は大人しいんだ。体格も他の羊よりも小さいし、浜に来るアザラシとも共存してる。慣れない場所に居るから怯えているだけなんだ」

 少し波打っている毛並みを撫でながら、ジョセフは初めて、少しはにかんだ笑顔を見せた。

 少年の回復の兆しにレオが安堵をしている隣で、ジャスティンが何か言いたげに目を宙に泳がせていたが、何気なくジョセフに声を掛けた。

「その、オルガの子供の父親って、津波以降に亡くなったのか?」


 他の四人の母親達には其々夫がいて、病院に残った妻子を足繁く通って見舞っていたが、オルガにだけは訪ねる人も無く、島民全体の面倒を見ているステファンが訪れるだけだった。

 当時は十七歳で大学に入る直前だったというオルガに夫が居たとは思えず、その点はレオも気になっていたが、その話を振られるとジョセフは暗い顔になった。

「オルガの赤ちゃんの父親は、誰か分からないんだ。今も生きてるかもしれないし、死んでしまった誰かかもしれない。もしかしたら、僕かもしれない」

 仔羊を抱いたまま、ジョセフは遠い目をして言った。


 生き残った百名程があの場所で避難生活を始めた後、多くの男がオルガを抱いたのだと言う。その全てをオルガは拒否せず、全てを黙って受け入れたとジョセフは言った。

「でも、たまにオルガが僕に縋ってきた事もあった。僕もオルガを受け入れて……抱いた」

 ジャスティンに背を向けたままジョセフは言葉少なに話し、それを黙って聞いていたジャスティンの、握られた拳が震えているのにレオは気付いたが、牽制する間も無くジャスティンは激昂し、そのジョセフの背中に怒鳴りつけた。

「じゃあ、お前らは寄って集って、オルガを自分の性欲の捌け口にしてたんだな?」

「よせ。ウォレス曹長」

 レオが鋭く声を掛け止めたが、怒りに顔を赤くしたジャスティンにはその声は届いていなかった。

「答えろ! お前らは」

 ジョセフに背後から襲いかかろうとしたジャスティンを、羽交い絞めにしたレオは体を向き直らせ、ジャスティンの左頬を加減する事無く拳で殴りつけた。

 一撃で声も無く地に崩れ落ちたジャスティンの体を引き起こし、怯えた眼差しで震えているジョセフを宥めるように頷いたレオは、驚愕の目を見開いているジャスティンの襟元を手繰って引き寄せ、鋭い眼差しで見返した。

「よく聞け、ジャスティン。お前は、真実に気付いていない」

 ワナワナと切れた唇を震わせてるジャスティンに、レオは冷静にゆっくりと話し掛けた。

「足りない食料。やがて来る厳しい冬。誰も助けには来ないという現実。恐らくは暗い闇だけが彼らを覆っていた筈だ」

 レオは冷たい風の吹く丘の上で身を寄せ合っている彼らを思った。

「其処には希望も無く夢も無く救いも無い。家族も冷たい海の底だ。絶望だけが支配する逃れられない現実に、誰もが追い詰められていただろう。そんな時に、誰かの温もりを感じているその一瞬だけが、その時だけが自分が生きていると実感出来た数少ない時間だった、そう思わないか」

 レオに問われてジャスティンは戸惑って瞳を泳がせた。

「自分の魂が闇の中に飲み込まれそうな時、誰かと肌を重ね合わせているというその感覚は、それがほんの僅かではあっても、自分を闇から引き戻してくれる、そんな気がするんだ」


 自分の頭の中で、暗闇の中で真っ白な雪だけが降っている光景が見えて、自分は彼らの苦悩を疑似体験してるのかとレオは思ったが、しかし、その光景を自分は知っているような、そんな不思議な感覚に身を委ねながら、湧き上がる感情により言葉が紡がれているのを、まるで第三者になって自分を見ているかのようにレオは話し続けた。


「オルガはそれを解っていた。解っていたからこそ、苦しむ男達を拒絶をしなかった。全てを、まるで聖母のように受け入れ、それがほんの僅かな高揚感しか与えられないのも分かっていて、それでも全てを受け入れたんだ」

 レオが襟元を捻り上げていた手を離すと、ジャスティンは力無くそのままズルズルと座り込んだ。

「だから誰もオルガを責めない。オルガを抱いた男達を、誰も責めようとはしない。ただあの母子を受け入れて、皆で温かく見守っているだけだ。そうは思わないか」

 座り込んだままで呆然としているジャスティンは、言い返す事も出来ずに、ただ泣き出しそうな瞳を泳がせているだけだった。

 レオの話をじっと聞いていたジョセフも、悲しみの浮かんだ瞳で黙ってレオを見上げているだけで、その頭をそっと撫でたレオは、ジョセフにもゆったりと話し掛けた。

「だからお前も何も気にするな。皆と同じ様にオルガと赤ちゃんを見守ってやればいい」


 島に居た時は、やせ細った頬でギラギラとした怨嗟の光を浮かべレオ達を睨んでいたオルガだったが、保護され急速に体力を回復し自分の子の命も繋がれたと分かると、明るく屈託無い笑顔で笑い、迸る強さを見せているオルガの姿を思い浮かべ、レオはあの親子は大丈夫だと感じていた。

「オルガが赤ん坊を抱いている姿は、俺にはまるで、聖母(マリア)みたいに見える。そう思わないか」

 最後は優しく微笑んだレオを、ジョセフも淡い蒼の瞳で、じっと見上げ続けていた。




 

 その日の午後、五人の母親と赤子も退院して行政庁宿舎に移る事になり、出迎えに来たステファンは、何度もレオとジャスティンに握手を求めて顔を綻ばせた。


「明日には皆さんエディンバラに戻られると聞きました。本当に、本当にお世話になりました。行政庁から働き口の斡旋もあるとの事なので、暫く此処で、皆で助け合って暮らします。そして何時かは、皆で島に帰ります。本当に、ありがとうございました」

 感涙を浮かべ何度もお礼を繰り返すステファンに、レオは小さく首を振った。


「軍及びスコットランド行政府は、オークニー諸島に対し全面的な支援を行う事が昨日の会議で採択されました。それに伴い、貴方をオークニー行政庁執行官代理に任ずる事になりましたので、行政庁や軍指令本部に、足りないものなど何でも申し付けて下さい」

 既にこのインヴァネス域内の一般市民から、衣類や生活用品などの寄付が相次いで送られていて、物資がドンドンと運ばれているとステファンは明るく笑った。


 固い表情で立ち尽くしていたジャスティンの元に、オルガが笑いながら駆け寄って来て、

「ジャスティン、色々とありがとうね。教えて貰った事を忘れないようにして、この子を育てていくわ」

 と、今は赤みを取り戻した頬もふっくらとしてきた赤ちゃんが、スヤスヤ寝ているのを嬉しそうに見て、オルガは瞳を輝かせ笑った。

「オルガ」

 それまで口を固く結んで何かを考えていた様子のジャスティンは、決したように口を開いた。

「俺と一緒に、エディンバラに来ないか?」


 キョトンとした顔をしているオルガを前にして、ジャスティンは真剣な表情を崩さなかった。

「エディンバラには知り合いも居ないし、俺も海外に出る事も多いけど、軍用宿舎には同じように小さな赤ちゃんが居る家庭が多くて、アトキンズ少尉殿の家にも小さな赤ちゃんが居て、奥方殿もきっと良くしてくれる。だから、その」

 最後には顔を赤くしながらしどろもどろに話すジャスティンを、驚いた顔で目を丸くして見上げていたオルガであったが、途端に、「やだ。ジャスティンてば」とケラケラと笑い出した。

 その様子に逆にポカンとしたジャスティンの腕を、ポンポン叩きながら、オルガは大きな蒼の瞳でジャスティンを見上げた。

「私はね、オーカディアンなのよ」

 その意味を計り兼ねて、眉を寄せて考え込んだジャスティンを、オルガは明るく笑い飛ばした。

「英国連邦の前にスコットランド人で、その前にオーカディアン、つまりオークニー人なのよ」

 そう言ってフッと笑ったオルガの瞳は優しく笑っていた。


「私はこの子を育てて、そしてオークニー島に帰るの。美しかった島を再建して、そしてまた沢山の人にオークニーに来て貰いたいの。私の自慢の故郷を、みんなに見て貰いたいの」

 そんなオルガを黙って見守っているステファンら島の住民の瞳も温かく優しかった。

「あなたはこんなとこで立ち止まってちゃ駄目よ。きっと世界にはもっと苦しんでいる人達が居るわ。それを救うのが、あなたの仕事じゃないの?」

「そうだけど、でも」

 戸惑うジャスティンを、オルガは澄んだ瞳で見つめた。

「私達は、軍にも政府にも見捨てられたんだと、ずっと思ってた。でも、そうじゃなかった。あなた達が、私達を助けに来てくれた。希望を、夢を未来に繋ぐ事が出来た。それだけで私はもう十分なの。ありがとう、ジャスティン。この子を助けてくれて、ありがとう」

 そう言ってジャスティンの頬に唇を寄せてキスをしたオルガに、ジャスティンは悲しそうな瞳を向けて、もう何も言えず黙り込んでしまった。

「ウォレス曹長殿。オルガとこの子は私達が必ず守ります。どうかご心配無く」

 ゆったりと笑ったステファンに、祈りを籠めた視線で頷く事しか出来ないジャスティンの肩に手をやり、俯いているジャスティンを慰めるように、レオはポンポンと肩を叩き続けた。


「ほら、飲め」

 インヴァネス指令本部の屋上で、力無く座り込み遠くを見ていたジャスティンに、レオは持ってきた水筒を投げ、屋上のフェンスに寄り掛かり、ネス川沿いに広がる穏やかなインヴァネスの街並みを見下ろした。


「……ブッ。ってこれ」

 水筒の中身を一口飲んだジャスティンが思わずブッと吹き出し、レオは悪戯そうな笑みでクスクスと笑った。

「ブラウ方式だ。小隊副長殿には言うなよ」

 その言葉に苦笑いを返して、スコッチウィスキー入りの紅茶を、ジャスティンは一気に煽って口元を拭った。

「混迷の今の時代には、其々誰もが、自分が成さなければならない使命を持っている」

 街並みを見下ろしたままレオはポツリと言った。

「それが故に、互いに歩く道が遠ざかってしまう事もある。でも、今はその道を行くしかないんだ」


 レオがイングランドの聖システィーナに残してきたという婚約者の事を思い浮かべて、ジャスティンは顔を上げた。

「それで班長殿は此処に?」

「ああ。だが何時かは、離れた道もきっと繋がる。それを信じて、前に進むしかないんだ」


 夏の近づくインヴァネスに吹く風は、少し暖かみを帯びてレオの黒髪をゆったりと揺らしていた。

 水筒を抱えたまま黙り込んだジャスティンと二人、行き交う車の賑やかさを取り戻しつつあるインヴァネスの街を、レオは静かに、見下ろし続けていた。


「ま、俺からは合格点をやろう」

 引継ぎ業務を終えて、明日にはエディンバラに戻るS班を集めたハリソン少佐は、豪快にカラカラと笑った。

「初回にしては申し分ない出来だ。皆よく頑張ったな」

「はっ」

 高い評価に高揚感を示した一同を、それでもハリソン少佐は気を引き締めて、「だが」と真顔で睨み返した。

「世界各地域の情勢は、現在も流動的で不透明であり、且つ過酷な状況が想定されている。未だ治安が悪く戦闘状態にある地域もある。今以上気を引き締めて取り掛からないと、命を落とす事にもなるぞ」

 S班一同の顔から、安堵が消えて強張った顔になったのを見て、ハリソン少佐はゆったりと頷いた。

「国内は俺が責任持って復興を指揮する。お前らは行け。世界へ」

了解しました(  イエスサー)!」

 其々が、自分が進むべき前を見据えて、全員が決意を示すように大声で一斉に敬礼を返すと、ハリソン少佐もこの結果に満足そうに穏やかな笑みを浮かべた。

 


「ハナ。ベアー麦を送ってくれたそうだな。ありがとう」

 エディンバラに戻って宿舎に帰ったレオは、真っ先にハナに礼を言った。

「なぁに。余ってたのを送っただけさ」

 相変らずぶっとい腕にモップを抱えてピカピカの床を磨いているハナは、丸い顔に笑い皺を浮かべてレオを振り返った。

「洗濯物は早く出しておいておくれよ。どうせアンタ達、また直ぐ出掛けるんだろうから」

 そう言ってまた廊下の床をゴシゴシと擦り始めたハナに、レオは苦笑を返して、「ああ」と笑った。


 暦はもう直ぐ六月になろうとしていた。

 来月には、国連指揮下の機動先遣隊としてフランスに旅立つ事になっているレオは、その先に待ち受ける世界にはまだオークニーのような、いや、それ以上に疲弊し困窮し、苦難に喘いでいる多くの場所がある事を思い浮かべ、まだ歩き始めたばかりの自分の道程が、遥か遠くまで続いているのを感じていた。


 ――マリア。俺をどうか守ってくれ。


 今は、英国国内の宗教界を纏める団体の設立に奔走をしているというマリアを想って、自室の部屋から見える青く澄んだ空に祈りを籠めて、その先に居る愛しい人の面影を求めるかのように、レオは目を細めて流れる雲の先を追っていた。

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