第一章 第八話
次の日の朝、まだ左頬を赤く大きく腫らして、痛みで顔を顰めているレオに、ムーアハウス少尉は簡単に外出許可を出した。
「俺が脱走するとは思わないのか」
「訓練番号百二十三番。返事は一つだけだ」
手負いのレオにも遠慮なく、ムーアハウス少尉は腹に拳を入れ、体を折り曲げて苦しそうに咽こんだレオは、体を起こし直して辛うじて敬礼を返し、「了解しました」と答えた。
私服を殆ど持たないレオは、訓練生の制服の上に支給されているジャケットを羽織って、数ヶ月ぶりに訓練校の外へ出た。
あの夏の日、此処に送り込まれてから初めての事だった。
「おい。手間掛けて俺達の仕事を増やすなよ」
出入り口を警備する若い兵士に軽口を叩かれたが、レオはジロリと一瞥はしたが、敬礼を返してまた「了解しました」と呟いた。
年下の若い兵士であっても、訓練生の自分からすれば全て上官であり、逆らう事は許されなかった。
教えられた教会への道すがら、レオは初めてデボンポートの街の全容を眺めた。
港沿いにある訓練校から、兵士達の宿舎が連なる住宅街を抜けると大きなデボンポートパークが有り、その一角に小さな教会が鐘を鳴らして建っていた。
既に式は始まっているらしく、にこやかな顔をした男達や女達が互いに言葉を交わしながら二人が出て来るのを待っていたが、その殆どが軍服姿だった。
少し離れた場所でその光景をぼんやりと眺めながら、レオは何故コンラッドが自分を此処へ呼んだのか、その意図が読み取れず困惑していた。
他人の幸せを祝うなど今迄の自分には全く縁の無い事で、結婚式に参列した事も無かった。どうすればよいのか分からず、戸惑ったままレオはじっと立ち尽くしていた。
式が終わったのか教会の正面の扉が大きく開かれて、婚礼衣裳の二人が幸せに頬を染めて出て来ると、一斉にライスシャワーが浴びせ掛けられ、歓声を上げた一同に拍手で迎えられて、幸せの絶頂に居る二人は、にこやかな笑みを浮かべて終始嬉しそうだった。
その光景を、まるで現実のものでは無いかのように、白けた顔で眺めていたレオだったが、二人の後から出て来たメラーズ夫妻が、レオの姿に気づいて、嬉しそうに駆け寄ってきた。
『先日は大変失礼を致しました。式にもいらして下さって、本当にありがとうございます』
嬉しそうに頬を綻ばせているメラーズ氏の手の動きも、クルクルとその幸せを噛み締めるかのように生き生きとしていた。
『どうかもっと傍へ。ローラを祝福してやってくださいな』
にっこりと微笑みながらレオを促すメラーズ夫人に、レオは困惑した顔で首を振った。
『いえ。自分は訓練生ですので、此処で』
『そうおっしゃらずに』
レオの困惑の意味など分からない夫妻は、にこやかな顔で手話で話し掛けたが、困惑し切って手を振ったレオの傍に、何時の間にか立っていた人影が感心した声で「ほぉ」と呟いた。
「訓練番号百二十三番。手話が出来るのか」
それはサヴァイアー大佐だった。礼装用の制服を着こなして寸分の隙もない大佐に、レオは戸惑って目を逸らした。
「訓練校からの報告は聞いている。昨日は惜しかったそうだな」
ニヤリと笑った大佐に、レオは歯噛みをして益々顔を背けたが、大佐はそんなレオの様子も介さず、顎をしゃくってレオに命じた。
「おい。メラーズご夫妻に『ローラが呼んでいる』と伝えろ」
大佐の言葉を手話に訳して夫妻に伝えると、微笑んで頷いた夫妻はレオに丁寧に頭を下げて、まだ教会入口で人々に祝福されているローラの元へ戻って行った。
「自分はこれにて戻ります」
これ以上、この場に居たくなかったレオは、大佐に敬礼をすると背を向けようとしたが、「待て」と引き止められた。
「見ろ。見事に軍人ばかりだな。一般人は数人だ。メラーズ夫妻と俺の妻、そして他の女性も関係者の妻だ」
大佐が顎をしゃくった先には、二人を囲んだ祝福の輪が出来ていたが、大佐の言う通り殆どが軍人だった。
「コンラッドには家族が居ない。お前と同じだ」
二人並んで賑やかな輪を振り返りながら、大佐はポツリと言った。
「ドラッグ漬けだった両親は、幼い兄妹をさっさと捨てて死んだ。残された兄妹は養親に預けられたが、そこで不幸な出来事があった。まだ五歳だった妹に性的暴行を働いた養父をコンラッドは殺害した。アイツはまだ十歳だった。十歳で初めての殺人、これもお前と同じだな」
弾かれたように振り返ったレオであったが、大佐は正面を向いたままで、レオを見ようとはしなかった。
「レオこと、アレックス・ザイア、お前が十歳で母親のレベッカ・ザイアを殺した時と、同じだと言う事だ」
小高い丘の上を、冷たい北風が通り過ぎ、レオの黒髪を揺らしていたが、その風に気付く様子も無く、レオはまじまじと大佐の横顔を見つめていた。
「お前と同じ様に、コンラッドも堕ちていった。妹と引き離されて別々の養護施設に入れられたが、コンラッドはしばらくすると逃走して行方不明になった。それから、地を這う様に生きてきたのも、お前と同じだ。手が付けられず、懲役を兼ねて海軍訓練校に入れられたのもな」
大佐の呟きを呆然と聞きながらレオは困惑していた。
「そのアイツに出来て、お前に出来ない理由が何処にある?」
静かな瞳を向けた大佐に、レオは小さく眉を動かした。
「人間誰でも同じってわけじゃない。誰でもが、同じ様に出来ると思う方がおかしい」
挑むように呟いたレオに、大佐はニヤリと笑った。
「まぁそうだ。コンラッドとお前には違う部分もあるしな」
怪訝そうな顔を向けたレオに、大佐の瞳は静かな光を湛えていた。
「コンラッドの親は、子供に愛情の一欠けらも示さずに捨てたが、お前の母親レベッカはお前を愛していたということだ」
「は? 馬鹿な。アンタが何を知ってるってんだ!」
頭に血が上ったレオは、習った礼儀作法など消し飛んでいたが、大佐に罵声を浴びせたレオに、それでも、大佐は冷静な態度を崩さなかった。
「証言がある。同じ売春婦仲間のだ。レベッカは、薬から抜け出せない自分に苦しんでいた。そして何時かは抜け出して、お前と幸せに暮らしたいと願っていた」
淡々とした大佐の言葉を聞きながら、レオは益々混乱した。
ドラッグに溺れて醜態を見せているか、男に抱かれて嬌声を上げているか、レオを怒りの形相で叱り付け、手酷く殴る姿しかレオは覚えていなかった。母親から愛情を受けた記憶など、レオには皆無だった。
――何の寝言だ。ふざけるな
大佐の顔に唾を吐き掛けたい衝動をようやく抑えて、レオは憎々しげに大佐を睨み返した。
「信じていないようだな。だが直に思い出すだろう」
フッと笑った大佐は、まだ強張った顔で立ち尽くしているレオの肩を叩いて、ローラを抱き上げて幸せそうに笑っているコンラッドの元へ、ゆっくりと歩いていった。
一人取り残されたレオは心に蟠りを抱えたまま、その広い背中を悔しそうに見つめるだけだった。