第十章 第九話
その日の昼、レイグモア病院を訪れたレオとジャスティンが先ず母子の病室を訪ねると、その姿を見つけたあの若い母親が、嬉しそうに瞳を輝かせた。
「ジャスティン! 待ってたのよ。あのね」
「ちょ、ちょっと待って。今日は別件で」
またジャスティンを質問攻めにしようと駆け寄ってきたオルガという若い母親は、慌てて両手を挙げて首を振ったジャスティンに、詰まらなさそうな顔で口を尖らせて文句を言った。
「何よ、あなた私達専属じゃない」
「って、そういう訳じゃ」
たじろぐジャスティンにレオは苦笑を漏らしながら、プリプリとしているオルガに済まなさそうに言った。
「済まないね。また後で立ち寄らせるから、その時に」
「きっとよ」
自分の赤ちゃんがむずかり出したのを見て、オルガはレオに指を差してキッと睨んだ後、忽ち母親の顔に戻って駆け戻り「よしよし」と赤ちゃんを抱き上げてあやし始めた。
「おい、行くぞ」
その様子に視線を送っているジャスティンの肩を叩いて、レオは目的の部屋へ向かって歩き出した。
あの少年が居る大部屋は、少年以外の大人達が皆居なくなって、彼一人だけが取り残されていた。
ベッドの背を起こして、物憂げに外を眺めていた少年が、気配にゆっくりと顔を向けて、それでも無表情のままレオを見つめ、また窓辺に顔を向けて黙って外を眺め直した。
インヴァネスに戻ってからの十日足らずの間、毎日足繁く通ったレオに少年は顔を向けるようになったが、まだ一言も話す事は無く、カウンセラーからの報告でも、少年はやはり何も話そうとはしないのだと言う。
本当は二十一歳だという少年の肩から覗く折れそうに細い二の腕を見て、余りに儚いその様子に、ジャスティンはギリッと唇を噛み締めた。
丁度その時病院職員が昼食を配膳に来て、マスク越しにも笑顔が判る中年女性は、少年に微笑み掛けながらベッドにテーブルを用意して、昼食の乗ったトレーを置いた。
「今日は特別製よ。残さず食べてね」
レオ達に会釈をして女性が出て行くと、少年は目の前のトレーに乗った食事を一瞥してフイッと横を向こうとしたが、とある一点にその視線が釘付けになり、無表情だった顔に戸惑いの色が浮かんだのにレオは気付いた。
「覚えているだろ? それが何か」
ベアー麦のバノックに添えられた、少し黒味を帯びた赤いジャムから目を離せないでいる少年に、レオはゆっくりと話し掛けた。
「テイベリーのジャムだ」
少年は戸惑った瞳を向けたが、レオの後ろに穏やかな顔で微笑んでいる老年の婦人を見つけて、そのまま少年はじっと見入っていた。
「私はサーソーの生まれで、学者だった両親に連れられて、何度もオークニーへ行ってたのよ。それこそオークニーに住んでいるのかというくらい。全ての島を回った中で、ノースロナルドセー島にも何度も足を運んだの」
その婦人オルコット・アシュレイは少年ににこやかに笑い掛けた。
「私がまだ子供の頃で、その時には十戸程のお宅が羊を飼いながら暮らしておられたわ。皆さん、ハミルトンという姓で、ご親戚だと伺ったわ」
戸惑って目を逸らして俯いたこの少年の姓も、恐らくハミルトンなのだろうとレオは思った。
「その中の一軒のお家で頂いたのがテイベリーのジャムだったの。そのお宅のお祖母様が、テイ湖の畔のケンモアという所のご出身だそうで、テイ湖の周辺が原産のテイベリーの苗木を送って貰って、育てたのが始まりだったそうなの」
豊潤な味わいのジャムが、このノースロナルドセー島でも名物になった事を聞かされたオルコットは、それから何十年と経った今も忘れずに覚えていた。
「きっと貴方のご先祖様かもしれないわね」
そう言って微笑んだオルコットに、少年は戸惑いと共に躊躇いの浮かんだ表情を向けた。
「お母様の味と同じだといいんだけど。どうぞ、召し上がれ」
にっこりと笑ったオルコットと、ベリージャムとを交互に見て、緊張し目を細めて見ているレオの前で、少年はおずおずとバノックを手にして、テイベリージャムをノロノロとした動作で載せると、躊躇うように眺めていたが、やがてゆっくりと口に運んだ。
強張った顔のまま咀嚼していた少年が、手にしていたバノックを力無くポトリと落とし、見開いた瞳がワナワナ震えているのを見てレオが声を掛けようとした瞬間、少年は顔を覆って、堪え切れずに絶叫した。
「わぁあああああああああ」
激しく突き上げる慟哭に全身を震わせて泣き崩れた少年を、呆然と見ているジャスティンを突き飛ばして駈け寄ったオルコットは、黙ったまま少年の揺れる金髪の頭を胸の中に抱き留め、ゆっくりと諭すように言った。
「いいのよ。泣いていいのよ。悲しい時は、泣かないと駄目なの。ずっと泣いていいのよ」
オルコットに縋るように手を伸ばして、悲しみに満ちた声で少年は泣き続けた。
貰い泣きをしているジャスティンが顔を拭っている隣で、少年が泣き止むまでこのまま黙って見守ろうと、レオは悲哀に満ちた瞳で見続けていた。
「ジョセフ・ハミルトン」
泣き止んだ少年がポツリと言った。
「君の名前か」
ベッド脇の椅子に座ったレオが質すと、少年はコクリと頷いて、それから少年はポツリポツリと自分の事を話し始めた。
両親と兄と四人だけで、ノースロナルドセー島で羊を飼い暮らしていた事。だが移住しなければならなくなって、井戸の水を自動で汲み上げるようにして羊達を置いて泣く泣く島を出た事。あの日は大学に居て、学校見学に来たその秋に入学予定の女の子を連れ校舎の案内をしていて、その瞬間は屋上に居た事を、ジョセフは淡々と語り続けた。
「それで助かったのか」
「大学に居て助かったのは僕とその子、後で名前を知ったんだけどオルガだけだったんだ」
「じゃあ、オルガはまだ十九歳か」
唖然と呟いたジャスティンに、ジョセフは黙ったまま頷いた。
「水の引いた街で、僕とオルガが呆然としてたら、生存者を探していたステファンに見付けられたんだ」
当時を思い出すのはまだ辛いらしく、少し眉を寄せて苦しそうな表情のジョセフの顔を覗き込んで、レオはゆっくりと語り掛けた。
「いっぺんに向き合おうとしなくていい。ゆっくりでいいんだ」
レオの言葉に素直に頷いたジョセフの、銀に近い金髪を撫でて、ジャスティンはゆったりと笑い掛けた。
「歩けるようになったら、仔羊に会いに行こうな」
ジャスティンに頭を撫でられたのが恥ずかしいのか、顔を赤らめ頷いたジョセフの顔を覗き込み、オルコットが優しく微笑み掛けた。
「さぁもう少し食べましょうね。ジャムのお代わりは? まだ沢山あるのよ」
空になったガラスの小鉢を恥ずかしそうにおずおずと差し出したジョセフに、受け取ったオルコットは嬉しそうに笑った。




