第十章 第五話
「どうしてこんなとこに居るんだ? お前が」
自分の目の前にコンラッドが居るのをまだ信じられないレオは、詰め寄りコンラッドを睨んだが、すっ惚けた顔をして目を逸らしたコンラッドは、目深に被っていた帽子を外しポリポリと頭を掻いた。
「あー、実はな。イギリス海峡で速度訓練をやってたんだが、あの『ブリストル』を抜いて、最速を出してやると意気込んでいたら、間違えてオークニーまで来ちまった」
「はぁ?」
「どうせついでだから、要救護者を運んでやるよ。何処まで運べばいいんだ?」
屈託無くケラケラと笑っているコンラッドに、レオは呆れて物も言えなかった。
そのレオの肩をグイッと抱いて自分に引き寄せたコンラッドは、まだ訝しげな顔のレオに顔を近づけ、小声でニヤリと囁いた。
「クリスから連絡があってな。お前がオークニーで泣いてるって。だから俺が助けに来てやったんだ」
「何言ってんだ。俺は泣いてなんか」
「惚けてもダメだ。お前は今でも変わらずクリスの番人だからな。お前の心の中の事なんかアイツにはお見通しだ。おまけに、お前が何処に居るのかも正確に把握している」
悪戯そうに笑ったコンラッドにレオは益々呆れて息をついた。
「お前なぁ、『エクセター』はまだ訓練中だろうが。勝手にこんな場所まで来て、お前艦長を下ろされるぞ?」
レオの言葉にもコンラッドはフフンと笑って鼻を鳴らした。
「そんな事あるわけないだろ。俺は、サヴァイアー大臣殿の命令に従っただけだ」
クリスからの報告と、スコットランド軍特殊部隊AASにS班の動向を確認したサヴァイアー国防大臣が、オークニー諸島にて緊急事態が発生していると判断して、特別命令を軍に下していたという事をレオが知ったのは、もっと後の事だった。
ポカーンと口を開けたレオを見て、コンラッドはまた嬉しそうにカラカラと笑ってレオの背を叩くと、レオの肩を離して帽子をまた目深に被り直しキリッと背筋を伸ばして、呆然とした顔で少し頬を染めてコンラッドを見ているビリーに視線を送った。
「本船は現在ストロムネスに停泊中である。移送用車両を三台この丘の下まで移動済み故、準備の整った要救護者より移送を開始する。直ちに準備に入れ」
「イ……了解しました!」
興奮した表情で敬礼を返したビリーは慌てて建物へ駆け戻って、ようやくフッと笑ったレオはコンラッドの肩を軽く叩いた。
「……助かる。ありがとう」
「何だ。らしくなく殊勝だな」
クスッと笑ったコンラッドに、レオは「ああ」と寂しげな表情になった。
「世界にはこんな絶望が待ってるんだな」
「……ああ。だから俺らは、それに打ちのめされてちゃいけない。前を、前だけを見るんだ」
恐らくストロムネスでも惨状を見てきたのであろうコンラッドも、眉を寄せた険しい顔でレオに向き直った。
「ああ」
慌しくなり始めた建物周辺の様子を振り返りながら、これはまだ第一歩に過ぎないのだと、レオは唇を噛み締めた。
ブラウの故障した漁船は、到着していた哨戒艇が曳航してドックのあるアバディーンまで運ぶ事になり、哨戒艇で帰途につくブラウとは此処で別れる事となった。
「また会おうや」
「本当に世話になった。ありがとう」
ブラウのゴツゴツした大きな手を握り返しながら、気さくな漁師にレオは真剣な眼差しで礼を言った。
「いや、俺こそだ。オック村は生き返る。だからきっとお前さん達なら、この場所も生き返らせてくれると俺は信じてる」
見送る班員達に、ブラウは厳つい顔に笑みを浮かべ居並ぶ男達の顔をゆっくりと眺め渡してから、また嬉しそうに笑った。
「おい、若いの。俺達はお前さん達だけが頼りだ。どうか他の皆も助けてやってくれ」
ブラウに話を振られたランスは、戸惑った顔を引き攣らせたが、それでもキリッと顔を引き締め直し、この老人に敬意を表して敬礼を返した。
「お前さん達もだ。班長さんの話を忘れるなよ」
「了解しました」
最初は敵対したビリーとジャスティンにもブラウが笑い掛けると、二人も敬礼を返して緊張した面持ちで何度も小さく頷いた。
「戻ったらオックにも遊びに来てくれや。脂の乗った旨いサーモンと鯖を食わせてやるぞ。頑張れよ!」
ブラウは何度もレオの背を叩いて、迎えに来た哨戒艇の兵士達に連れられて、何度も振り返って手を振りながら帰って行った。
「そろそろ行くぞ。まぁ、この船ならインヴァネスまで一時間ってとこだな」
コンラッドが不敵に笑うのを見て、レオは苦笑を浮かべた。
避難していた赤子を含む五十五名は、皆栄養失調だと診断され、その人数を収容できる病院を擁しているのは北部ではインヴァネスしか無く、エディンバラの指令本部経由でインヴァネスに受け入れを要請し、レオ達は一旦インヴァネスへと戻る事となった。
陽光を浴びて鈍色に輝く『エクセター』の勇姿を見上げて、一応は艦長らしく居住まいを正したコンラッドに向かって、レオが少し笑みを浮かべて敬礼を返すと、コンラッドもゆったりと敬礼を返し、二人で互いに笑って肩を抱き合い、ゆっくりとタラップを上がって行った。
「ご苦労だったな、ザイア中尉」
翌朝、レオ達と入れ替りでインヴァネス指令本部にて組織された捜索隊を乗せて、『エクセター』が再びオークニー諸島へ向かうのをインヴァネス空港脇の軍港で見送ったレオを振り返り、少し沈痛な面持ちを浮かべたハリソン少佐はポンとレオの肩を叩いた。
「いえ」
少佐は忽ち速度を上げて遠ざかっていく『エクセター』の艦尾を見ながら、己を責めるように顔を顰めて俯いた。
「もっと早くに北部沿岸調査を行っていれば、オークニーの悲劇は早くに突き止められた筈だった。貴君が此処へ来るよりも前にな。これは、我々の落ち度だ」
「しかし、少佐殿」
「国内の調査はこれより対象範囲を広げて、詳細に行う事となった。AAS各班も遍く域内に展開し、住民に寄り添った調査を実施する。貴君らが、此処インヴァネスで見せてくれたような奴をな」
険しい顔を崩さない少佐を見ながらも、あのブラウが取り戻した笑顔が、これからのハイランドに広がってくれればいいがとレオは願わずにいられなかった。
インヴァネス最大のレイグモア病院に収容されたオークニー島の人々は、安心して眠れる暖かいベッドと、久しぶりに食べる十分な食事に笑顔を取り戻しつつあったが、レオにはまだ気がかりな事が残っていた。
「あの少年は、何て名前なんだ?」
一緒に病室を見回りながら、仲間に笑みを浮かべて励ましているステファンに、レオはデイルームで一人ポツンと椅子に座り込んで、外の街を相変らず虚ろな瞳で見下ろしているあの少年を指で指した。
「ああ、いや、名前は分からないんだ」
途端に曇った表情になったステファンはフルフルと首を振った。
あの少年は一家でオークニー諸島最北部ノースロナルドセー島で暮らしていたらしい、とステファンは言った。
「だが世界の崩壊で島嶼部との行き来が出来なくなる事が分かって、周辺の島嶼部の住民は全てメインランドへ移住したんだ」
少年の一家もカークウォールに移り住んだらしいが、彼の家族は一人も助からなかったようだとステファンは顔を曇らせた。
「彼だけは大学に行ってたから、難を逃れたらしい」
「大学? 中学生か高校生じゃないのか?」
「最初は、少しだけは彼も口を利いたんだ。その時に、十九歳だと言っていた」
まだ子供だと思っていた小柄な少年が、実は、青年と呼べる年齢だったと知って、レオは身じろぎもしない少年を振り返った。
「彼はずっと家族を探していた。海に近いクロムウェルロード沿いに家があったそうなんだが、土台だけで、家財も何もかも、何一つ残ってなかったそうだ」
そうやって家族を毎日探す中で、彼は打ち捨てられていた亡骸を一人で運んで埋葬するようになったのだと言う。
「俺らには余力が無かった。生きている人間の事だけで精一杯で、亡くなった人を弔う余力は無かったんだ」
悔いを滲ませているステファンに、レオは「いや」と肩を叩いた。
「それは仕方の無い事だ。過酷な状況で百名の生存者を守るだけで精一杯だったろう」
「だがな」
ステファンは悔しさを残したままの瞳を上げて、少年の後ろ姿を見つめた。
「そうやって毎日毎日、弔いを続けているうちに彼は何も話さなくなった。見付からない家族と、絶望だけが支配する街を毎日歩いているうちに、彼の心は閉ざされてしまったんだろう。そんな苦悩を彼一人に負わせた俺達の責任なんだ」
「いや、それは俺達の責任だ」
助けを求め手を差し伸べている人達がこんなにも近くに居たのに、それに気付かなかった俺達の責任だ、とレオは強く思った。
――あの少年の閉ざされた心を再び開くまでは、この任務は終わらない。
ギリッと奥歯を噛んだレオは、全てを拒絶する小さな背中から、目を離す事が出来なかった。




