第十章 第三話
ホルムを出て直ぐ一行を出迎えたのは、嘗ては此処の主力産業の一つであった牧牛達の無残な残骸であった。
土埃に塗れ薄茶色に煤けた骨が散らばっているのを避けながら、枯れた牧草が地面に同化してへばりついている、何処までも土色が続いている光景に、ブラウは眉を顰めた。
「もう二年も経ってるのに、草も生えんとは」
「この辺りの土地は、海水を被ってますからね。土壌の塩分濃度が高くて、草も生えないんでしょう」
後ろのジャスティンが嘆息混じりに話すと、ブラウは「むぅ」と口を結んだ。
「この有様では例え生存者が居たとしても、此処で暮らすのは無理でしょうね」
ニコラスが目深に被ったヘルメット越しに遠くまで見渡しながら何時になく真面目に呟き、ランスも「ああ」と、今回ばかりは皮肉も浮かばせずに眉を寄せた。
「此処とオックとじゃ状況が違い過ぎる。内陸側一km地点程まで海水が入り込んでいる。復興は厳しいだろう」
上空には穏やかな五月の太陽が日差しを降り注いでいたが、その陽さえ翳って見える重い空気に包まれながら、一行は死だけが支配する乾いた道を言葉少なに歩いて行った。
途中に若干小高い場所が見えると、其処で難を逃れている住民が居ないか探索に行かせたが、何も見つける事が出来ず、ただ僅かに、内陸に残った土地の牧草を食べて生き残っていたのであろう野生化した牛の痩せこけた姿が見えるだけだった。
途中で休憩を挟みながら、四時間ほど行軍に耐えた一行の前に、壊れていない戸建の家並みが見えてきたが、其処にも建物の一階を埋め尽くす波は届いていたようで、辛うじて建て残ってはいたが、住民の姿は無かった。
今まで歩いてきたA961ロードがA960と合流した地点で、ルドルフは眼前の光景に言葉を失って立ち止まった。
其処から先の、カークウォール湾に至るまでの広大な土地には、遥か先に聖マグヌス大聖堂の土色の建物と、学校か病院と思われる四階建て以上の建物が僅かに残っているだけで、家も商店も、土台だけを残して、その残骸をアチコチに散らばした爆撃の後のような惨状が広がっているだけで、緑豊かだった町の中の木々も、何一つ残ってはいなかった。
「これは……」
レオも想像以上の被害に、土埃塗れの体でただ立ち尽くしていた。
聖マグヌス大聖堂の直ぐ傍に残っていた白い四階建ての建物は、嘗ては病院だったようだが、その建物の二階に届くまで海水が押し寄せた線を残して、その線までは薄汚れた土を纏った姿には、もうその当時の面影は残っていなかった。
この頑健なコンクリート製の建物を此処での拠点とする事に決め、ようやく重い荷を下ろして、疲れ切った顔を見せている班員達に、それでもレオは街の中の探索を命じた。
「ったく、こき使ってくれるぜ」
ブツブツとぼやきながらも、指示された街の北東部地区の探索にルドルフと出掛けたニコラスに、ルドルフは複雑な表情を返したが、何も言わなかった。
先ずは、その姿を残しているオークニー大学へ向かってみたが、やはり津波は二階まで届いていたらしく、屋内の備品は全て流されてしまったのであろうガランとした一階と二階を抜けて、三階より上にも上がって探索を行ったが、無傷の三階にも四階にも、更に、屋上にも上がってみたが生存者を発見する事は出来なかった。
「此処で生活してた跡も無いようだな」
尤も、大学の構内では食べる物など無かっただろうから、此処に居残っていたとは考え難く、此処で難を逃れたとしても、水が引いたら何処かへ移動したのではないかとルドルフは思った。
屋上から無残なカークウォールの街を見渡すと、ルドルフはまた胸が締め付けられるような想いに突き動かされて、涙が込み上げて来るのを必死で耐えた。
二階に届く高さの水の壁が、怒涛の如く押し寄せて来た時の住民の恐怖と絶望を思うと、逃げ惑う人々の悲鳴が今も聞こえるようで、そっと俯いたルドルフをニコラスは横目で見た。
「悲しんでたって何も始まらない。俺らの仕事は、その中に希望を見出す事だ」
何時も軽口か冗談しか言わないニコラスの口から出た意外な言葉に、ルドルフは弾かれたように顔を上げた。
思えば行軍の間中、何時ものような軽口も無く、暢気なヘラヘラとした表情も見せずに黙々と歩いていたニコラスを、たまに後ろを振り返って確認していたルドルフは、意外な一面を見たような気がしていたが、やはり今も真顔のニコラスは、何かを思うように遠くを見ていた。
夏に向かい日が長くなってきたとは言え、午後八時も近くなると暗くなり掛けて来た空に、レオは一時撤収を総員に指示して、病院跡地で野営をする事を決めた。
無事だった三階の広い病室の一室に集まって、携行食での簡単な食事の後で、振舞われたお茶を見てブラウは何か思い出したのか、自分の小さなザックからスキットルを取り出すと、ドボドボとお茶に注いで旨そうにグビグビと飲んだ。
「任務中のお前さん達には悪いが、これは俺の習慣なんでな」
中身はスコッチウィスキーらしく、悪びれもせずカラカラと笑うブラウに皆苦笑いを返したが、小さなランプの明かりだけが揺れる室内では誰もが寡黙がちで、自分の目の前に疑いの無い事実として存在する惨状を、現実として己の中で受け止めようと、其々が葛藤しているんだろうとレオは思った。
「そう言えば、班長殿、伺ってもよろしいですか?」
何かを思い出したビリーが、カップを手にしたまま顔を上げて、レオを振り返って訊ねた。
「何だ」
「どうして班長殿は、自分達がオック村で、その、まずい状況下にあると察せられたんでしょうか」
ただ視察に行くとだけを告げて出て来た筈なのに、住民との間に諍いが起きると予測していたかのようなレオの行動に、若い二人はその理由をまだ思い至っていなかった。
レオはゆったりと目を細め、手にしていたカップを床に置くと、床にべったりと座り込んでいた背を壁に預けて遠い目をした。
「お前達はまだ若いが、知識も知恵ある。流石に、海軍士官学校を優秀な成績で卒業しただけの事はあるな」
褒められた事に照れて顔を見合わせたビリーとジャスティンに、レオは続けて言った。
「だがな。出来る奴ほど陥りやすいのが、『自分の提案が受け入れられないのは、相手が理解していないからだ』と思い込む事だ」
見合わせていた二人の顔から笑みが消えた。
「頭のいい奴は、自分と目の前の相手とを比較して優劣をつける。そして相手が自分より劣っていると思ったら、まず相手に理解させようとする。足りないものは相手にあると判断をするんだ。でも、必ずしもそうではない。自分の方に足りないものがあるとは、思い至らない」
シンとした室内で、レオの言葉だけが響いていた。
「今回のお前達は、送電線を延長するのも無理、太陽光も無理だと分かった時点で、結論は一つしかないと思い込んだ。それはお前達に知識が、情報が足りなかったからだ」
「FCVの件ですね」
レオの指摘にビリーがポツリと言った。
「ああ。代替になるFCV車が、実はイングランドにはゴロゴロと転がってる事をお前達は知らなかった。だから思いつかなかった。足りないものはお前達にあったんだ」
聡明な二人は、レオが言わんとしている事の意味を悟っていた。項垂れた二人を慰めるようにルドルフが肩を叩いてやると、寂しげにジャスティンが小さく頷いた。
「班長殿は、何故FCVに気付かれたんですか?」
今度はネルソンがレオに話を向けると、レオは「ああ」と苦笑を浮かべた。
「レッド二等准尉のお陰だ」
名指しされたルドルフは、何の事かとキョトンとした顔をして、意味の分からないニコラスとランスも怪訝げな顔でそのルドルフを振り返った。
「A95に迷い込んだ後、一般道で俺達の前を邪魔してたトラックが居ただろう」
レオがクスッと笑うと、ルドルフは申し訳なさそうに小さな声で「はい」と言った。
「あのトラックが積んでいたものが、何か気付いたか?」
「いえ」
じっと考えた後、首を振ったニコラスに、レオはニヤリと笑って言った。
「あれは蓄電池の予備バッテリーだった」
不思議そうな顔を見合わせてまだ理解していない様子のランスとニコラスだったが、ネルソンは気付いて目を光らせた。
「確かアビモアには風力発電施設が」
「恐らく、その電力を蓄電したものを周辺地域に振り分けているんだろう。天然ガス発電の送電は北海沿岸はアバディーンまで、西はフォートウィリアムまでしか届いていない。それなのに、この中間地域でまだ細々とながらも人々が暮らしていけるのには、そういう知恵があるからだ。それにインヴァネスではまだFCVが流通しておらず、ステーションがガラガラなのを見た時、それを結びつけて考えるのは容易だった」
「じゃあ、A9の事故といい、今回の事といい、レッド二等准尉のポカミスって」
ニコラスが改めてルドルフを振り返り、まだ申し訳なさそうな顔をしているルドルフにレオは笑い掛けた。
「持って生まれた予知能力のようなものなんだろうな」
其々が寝袋に入って寝静まった夜、交替で見張りに立ったビリーとジャスティンは、懐中電灯の明かりだけの真っ暗な病院内を巡回していた。
「しかし、予知能力なんて本当に存在するのかな」
先程の話を思い出してジャスティンがポツリと呟き、暗い廊下に自分達の靴音だけが響いている中、ビリーは辺りを慎重に照らして確認しながら隣のジャスティンを振り返った。
「そういや、前回の山岳訓練、覚えてるか?」
「ああ。途中で土砂崩れ箇所があって、結局中止になったな」
「俺らB班の直前にC班が同じルートを使ったそうだが、そん時もレッド二等准尉殿が道を間違えて、其処から後ろの五名程が迷子になって往生したそうなんだが」
「まさか」
「そのまさかだ。その前を行っていた隊員達は、そのルートで何も異常は無かったと報告している。つまり、そのまま進んでいたら、レッド二等准尉殿以降のメンバーは、土砂崩れに巻き込まれていたという事なんだろう」
「……凄ぇな」
その時にも酷く叱責を受けたというルドルフに同情して、二人は互いに苦笑を浮かべた顔を見合わせた。
「じゃあ、あれも予知かな?」
「あれ?」
「レッド二等准尉殿は、リストに無い物品をご自分の荷物に入れてたんだ」
「だからレッド二等准尉殿の荷物だけやたらとデカイのか」
考え込んでいるビリーに構わず、ジャスティンは足を踏み入れて点検していた備品庫らしき一室を懐中電灯で照らしながら、何かに気付いてその場所を照らし出した。
「五個必要なのに、二個しか在庫が無かったんだ、と言われてた」
「何がさ?」
ビリーはまだ不思議そうな顔だったが、ジャスティンは見つけた小さなガラス瓶にゆったりと微笑み掛けた。
五月とは言え底冷えのする寒さではあったが、病室の床で寝袋に入って転がっているレオはじんわりとした温かさを感じていた。
――ルロイの言った通りだったな。
思わぬ野営になったが、それは多分あの食堂に居た若い兵士達が予想していたものとは、違うものになっただろうと、レオは内心で苦笑を溢した。
兵士達の間では、S班に配属された三人が各班の問題児だった事は周知の事実だったのだろうが、レオは彼らの中に只の問題児では無い何かを感じ取っていた。
――それを見つけ出せ、というのがグレン大佐殿のご命令なんだろうな。
レオは黒い瞳で、僅かなランプの明かりが影を揺らしている天井をじっと見つめていた。
航路の途中で、沿岸の街の破壊を見た時には覚悟はしていたが、まさかこれほど迄の被害とは思わなかったレオの心に、絶望の影がひたひたと押し寄せていた。
あの『発動』の、激動の最中に身を置いていた自分であったが、自分達の国の、こんな近くの場所に防ぎきれなかった被害が及んでいたとは露知らずに、長閑な雰囲気に包まれた聖システィーナで、のんびりと過ごしていた自分の過去を恥じた。
――その間、此処の人達は苦しみと絶望の渦の中に居続けたんだ。
その苦しみの全てを自分が背負う訳ではない、背負える訳が無いと分かってはいても、レオの心に重く圧し掛かる暗い影は、闇から這い出そうとしているレオの心に食い込むようにジリジリと迫り、言い知れない恐怖にレオは小さく息を飲んだ。
――こんな事でどうする。この先の世界には、きっと同じような耐え難い絶望が待っている筈だ。
悲鳴を上げている心を押さえ込むようにゆっくりと息を吐いて、もう一度息を深く吸い込んで目を閉じたレオは、その闇の中に希望を見出そうと、縋るようにマリアの姿を求めた。
――マリア。どうか俺に力を与えてくれ。
何も言わずに、少し寂しげな笑みを浮かべているマリアの顔に、あの茶色の髪の芳しい香りに、淡く紅を浮かべた頬の白さに、心の底に焼き付いて決して消え去る事の無いマリアの全てに身を委ねて、凍り付きかかった心が和らいでいくのを感じながら、闇を祓うように目を閉じ続けて、眠りの来ない夜が更けていくのを、レオはただじっと耐えていた。




