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闇色のLeopard  作者: N.ブラック
第一章 デボンポート海軍訓練校 虎と豹編
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第一章 第七話

 翌日、睨んだ通りコンラッド・アデス中尉は訓練中のグラウンドに姿を見せた。

 レオは集団を引っ張るように先頭を走りながら、コースの向こう側でムーアハウス少尉の敬礼を受けている中尉の姿を横目で捉え、逸る心を抑えるように自分に言い聞かせながら黙々と走っていた。

 走り終えた男達がペットボトルの水を受け取って疲れ切って地面にしゃがみ込んでいる中で、レオは一人悠然と立って、ゆっくりと近づいて来るアデス中尉を睨み返していた。



「よぉ。少しはマシになったようだな」

 もう息の乱れも収まっている様子のレオに、コンラッドは小さく目を細めて笑った。

「お陰様でな」

 飲んだ水をブッと吐いて、言葉も吐き捨てたレオをムーアハウス少尉がすかさず叱責した。

「訓練番号百二十三番! 態度を慎め!」

 面白く無さそうにフンと息をしたレオが、一応敬礼を見せて、

「アデス中尉殿のお陰様で少しはマシになりました」

 と厭味ったらしく言い直すと、憤慨の顔でレオに詰め寄り掛けた少尉をコンラッドは手で制した。

「まぁいい。直に、何故上官への服従が必要か、嫌でも分かるようになる」

 薄っすらと笑ったコンラッドに、レオは内心で唾を吐いた。

「アデス中尉殿。俺、いや自分は、中尉殿に借りを返さないとならないんだが」

 右手では一応敬礼を返したまま、黒々とした憎悪を滲ませた瞳でコンラッドを睨むレオに、コンラッドは僅かに眉を上げて「ほぉ」と嬉しそうな息をついた。

「俺はお前に何も貸してないと思うが」

「殴られたら殴り返すのが、お、自分の主義だからな」

 敬礼の体勢のまま微動だにしないレオを、コンラッドはニヤニヤとした笑いを浮かべたまま面白そうに眺めていたが、

「良かろう。と言っても乱闘はご法度だからな。後で室内体育館に来い」

 と軽く首を竦めて、睨むレオから目を離さずに、緑の瞳を冷たく光らせた。


「中尉殿!」

 ムーアハウス少尉が荒げた声を掛けたが、コンラッドは全く気にせずカラカラと笑い飛ばした。

「心配ない、少尉殿。訓練の一環でボクシングをするだけだ。貴君に迷惑を掛けるような事はしない」

「しかし! 休暇で来られて、間もなく結婚式だというのに」

「ああ。大丈夫だ。コイツのパンチなど俺の顔を掠りもしないさ」

 鼻で笑ったコンラッドをレオは悔しそうに歯噛みして睨んだが、コンラッドは薄ら笑いを浮かべたままレオに背を向け、グラウンドを去って行った。


 ――必ず、ぶっ殺してやる。


 煮え滾る憎悪に湧き立つ思いが、まるで薄く白い霧のように己の心を覆い尽くしているのを感じて、レオは憮然として敬礼を外し、去って行くコンラッドの背中を、憎しみを込めて睨み続けていた。



 午後三時、講義がひと段落したところで、レオは言われた通りに室内体育館に足を踏み入れた。

 広い体育館の片隅に設置されたリングの上で、もう既にグローブを装着していたコンラッドが入って来たレオを見て用意されていたヘッドギアとグローブを投げて寄越したが、受け取ったヘッドギアを無造作に投げ捨ててレオは鼻で笑った。

「命が惜しいのか。臆病者だな」

「着けろ。規則だ」

 淡々とした表情を変えないコンラッドにレオはチッと舌打ちしたが、ヘッドギアを拾い上げて軽々とリングの上に飛び上がった。


 ガヤガヤとした気配にレオが背後を振り返ると、この一戦を見学しようと教官達や訓練生達が興味津々といった顔付きでゾロゾロと体育館に入って来てクスクスと笑い合っていて、リングの下の片隅では、コンラッドの婚約者ローラ・メラーズ准尉が固い表情で腕を組んで立っていた。



「かつての『餓えた虎(ハングリータイガー)』もすっかり牙を抜かれて猫に成り下がったようだな。そんなに自分の地位が惜しいか」

 嘗てはこの訓練校で一番の極悪、まるで『餓えた虎』と称されたコンラッド・アデスも、今や海軍の中でもエリート中のエリート、所謂幹部候補生だった。

 凶暴だった面影は温和になり、普段は陽気な普通の若者に見えるこの男に何があったのか、レオは知らなかったし、知ろうとも思わなかった。自分はそうはならないと、そう決めていたからだ。

「此処で騒ぎになると少尉殿にも、大佐殿にも迷惑を掛けるからな」

 ヘッドギアが蒸れるのか、しきりに頭を掻きながら飄々と答えるコンラッドを、同じ様にヘッドギアを被りながらレオは嘲りと共に笑い飛ばした。

「上官が怖いのか。小心者め」

「まぁ、何時かは、お前にも分かる」

 レオの挑発にも乗らないコンラッドは、両手にグローブをきつく締めたレオに向き直った。

 

「ルールは規定通り。三分三ラウンドだ。但し、ポイントはない。時間内に、お前が俺を一発でも殴れたらお前の勝ちにしてやろう」

 コンラッドの説明にレオは噛み付いた。

「ふざけるな。どっちかが倒れるまでだ。倒した方が勝ちだ」

 フッと鼻で笑ったコンラッドは「まぁいいだろう」と首を竦めてにやけた顔をレオに向けた。

「後悔するぞ」

「お前こそ、女の前で伸されて、婚約破棄されないといいけどな。最もあんな売春婦( ビッチ)は、捨てた方がいいのは明らかだがな」

 リング下で少し青褪めた顔をしているローラをチラリと横目で見て嘲笑ったレオに、コンラッドは真顔で少し眉を上げた。

「訓練番号百二十三番、上官への態度を慎め。俺の目の前でローラを侮蔑するな。殺すぞ」

 ヘッドギアを通して僅かに窺えるコンラッドの緑の瞳に、冷たい光が戻ってきていた。望むところだと両手を挙げて身構えたレオは、静かにゴングが鳴るのを待った。



 今までボクシングをやった事は無かったレオであったが、幼い頃からの闘争本能が、自然に防御と攻撃のリズムを彼に染み付かせていた。身長はほぼ同じリーチも同程度の二人は少しの距離を置いて睨み合っていたが、時折繰り出すレオのパンチは悉くコンラッドに軽くかわされていた。

 相手の僅かな隙をも見逃さない黒の瞳と緑の瞳は、相手の空気を読み、動きを捉えていた。

 軽快に動くコンラッドにレオは僅かな隙を狙ってパンチを繰り出して、二人がリングを踏む足音と時折鳴るパンチが風を切る音だけの静かな館内で、リング下の観客達も誰も無駄口を開こうとはしなかった。


 一ラウンド、二ラウンド共に、レオのパンチはコンラッドに掠りもせず、一方のコンラッドは、まだ一度もパンチを繰り出していなかった。

 まだたった六分しか動いていない筈なのに、レオの足は止まっているとガクガクと震え出しそうで、少し上がった息を悟られないように僅かに俯いて小さく息をしながら、レオは対面のコンラッドを睨み付けた。


 三ラウンド目のゴングが鳴るとレオは猛然とラッシュを始めた。同じようにコンラッドも疲れている筈だと、更に相手を振り回して、一瞬の隙を誘おうと狙っていた。

 開始一分を過ぎると、それまで軽快だったコンラッドの足も少しずつ止まるようになっていた。自分ももう限界に近かったが、レオはそれでもガードを固めて右からのパンチを繰り出して、ジリジリとコンラッドを追い詰めていった。


 廻り込むように引きながらレオを軽くかわしていたコンラッドの左のガードが一瞬下がり、レオは黒の瞳に力を籠めその隙を逃さずに全力で拳をぶち込んだ。

 コンラッドの緑の瞳に困惑が浮かんでいるのを見てレオは内心で勝ち誇った。

「地獄へ落ちやがれ。クソ野郎が」

 くぐもった叫び声を上げながら更に前に足を踏み込んだレオは、ヘッドギアから覗いている緑の瞳を叩き潰そうと右手を唸らせた。


「俺の勝ちだな。おい、払えよ」

「くそぉ、もう少しだったのにな」

 リング下の観客達はどうやらこの一戦で賭けをしていたらしく、勝った方は笑いながら手を差し出し、負けた方はブツブツと文句を言いながら懐から食券を取り出して手渡していた。


「おいおい。俺に賭けないとはどういうわけだ? ん?」

 ロープに気だるげに手を掛けたコンラッドがニヤニヤと負けた方に笑い掛けると、バツが悪そうに頭を掻いた男は「済みません」と小さく縮こまった。

 その男に軽く手を上げていなしたコンラッドは、リング上を振り返った。まだレオは呆然とした顔のまま、リング上で仰向けに倒れ込んで肩で息をしていた。


 自分のパンチは当たった筈だった。確かに感触があった。しかし、同時に左から襲ったコンラッドのカウンターの右フックをまともに食らって、レオは声も出せずにリングに崩れ落ちた。

「立てるか」

 グローブを外した手を差し出したコンラッドを、レオは見る事が出来なかった。


 あれからずっと黙々と自分を鍛え上げてきた筈だった。仲間内での格闘訓練ではレオに敵う奴は一人も居なかった。最初は息の上がった十kmのランニングも、今では難なくこなす事が出来るようになっていた。それなのに勝てなかった。レオの混乱した頭の中で、負けたという言葉だけが繰り返し鳴り響いていた。


「最初の規定通りならお前の勝ちだったのにな」

 左目の下を赤く腫らしてコンラッドはフッと笑みを洩らした。

「すぐ其処の教会で、明日俺の結婚式がある。お前も来い」

 コンラッドは短く告げると、リング下で心配そうな顔をしているローラの元へ下り立って、泣き出しそうな顔のローラを慰める様に抱き締めて、訓練校の上官達と笑い合いながら立ち去って行った。



 人の居なくなったリングで、レオはまだ立ち上がれずに、鉄骨がむき出しになった天井を見上げていた。

「どうだ、分かったか」

 そのレオを覗き込む様にムーアハウス少尉が立ったまま顔を覗かせ、寝転んだままのレオを強引に立たせた。

「身体を少し鍛えたぐらいでは、お前は中尉殿には敵わない。少し頭を冷やすんだな」

「何故だ……」

 まだふらつく足で、立つのがやっとのレオの頭からヘッドギアを外し、手のグローブも外してやりながらムーアハウス少尉は淡々と言った。

「守るものがあるか無いかの差だ。大した違いは無いと思っている今のお前には、その差を埋められない」

「あの女の事か」

「まぁ、准尉殿の存在もそうだ。中尉殿は、確かに驚くべき実績を上げて、その度量も才覚も高く評価はされたが、過去が過去だけに上は昇進には消極的でな。その中尉殿を庇って彼を引き上げたのがサヴァイアー大佐殿だ。中尉殿を信頼し重要な役職を任せてきた。中尉殿は大佐殿の為なら泥水でも飲むだろう。其処には、男同士の計り知れない絆がある」

「はん。ただの腐れ恩義じゃないか」

「その信頼が何故必要か、中尉殿がおっしゃったように、お前にも何れ分かる」

 力無くヨロヨロと歩くレオに肩を貸して救護室へと向かいながら、ムーアハウス少尉は淡々とした表情を変えなかった。


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