第九章 北の国への旅立ち編 第一話
正式に辞令を受け取ったレオは、予定通り四月にエディンバラに赴任する事になったが、困惑して固辞するレオを無視して送別会を開いたのはニックス・ベック一等准尉だった。
集まったSAS隊員達はこの日ばかりは無礼講で、旅立つレオの背をバンバンと荒っぽく叩いて、彼の行く道を祝福した。
既に顔を赤くして「おい」と酔った目を座らせて睨むニックスにレオが苦笑を返すと、エールの瓶を右手に持ったまま、ニックスは隣の空いた席にどっかと腰を下ろし、体をフラフラとさせながらも前を向いて独り言のように呟いた。
「俺はちっぽけな人間だ。大した事も出来やしねぇ。そんな事にも気づかずに、今まで適当に生きてきた人間だ。だがな」
ニックスは手にしたエールをラッパ飲みしてグイッと口を拭った。
「そんなちっぽけな人間でも、ちっぽけな事だったら出来るんだ。此処で日々起こる事を、守っていくぐらいは出来る」
目は座っているが真顔のニックスの横顔を、レオは黙ってじっと見ていた。
「ポーツマスも聖システィーナも、ロンドンも『アルカディア』も。イングランドは俺が必ず守ってやる。だから心配するな」
その横顔に安堵の笑みを返して「ああ」と頷いたレオに向かって、ニックスはバッと立ち上がって敬礼を返しキッと口を結んだ。
「大変失礼致しました、ザイア少尉殿。ご貴殿のご健勝とご健闘をお祈り申し上げます」
そう言って最後には口元に笑みを浮かべたニックスに、ゆっくり立ち上がって敬礼を返したレオも、白い歯を溢し、決してちっぽけではないこの男に微笑み掛けた。
出発前日、レオはコンラッドの祖父パーシバルから貸借していた車を返そうとデボンポートへ向かっていたが、コンラッドは苦笑いするレオを横目で見ながらフンと鼻で笑った。
「じいさん、絶対に受け取らないぞ。行くだけ無駄だと思うがな」
今日アデス家の車はローラが使っていて、遠慮無くかっ飛ばしてロンドンへ出掛けていた為、帰りの足が無いぞと散々脅かしたにも関わらず、レオの車に同乗したコンラッドは鼻歌を歌い、困惑するレオを無視しっ放しであった。
『その車はもう俺の物じゃあ無いから、返すと言われても困るな』
パーシバルは無愛想な顔を顰めて、手話でレオにそう伝えてきた。
『いやしかし、これから何年間スコットランドに居るのか、分からないんだ。それに、しょっちゅう外に出る事になって、英国本国に居ない事も多いだろう。受け取って貰わないと俺も困る』
困惑したレオもそう手話で返すと、そ知らぬ振りをしてそっぽを向いている孫のコンラッドをパーシバルは顎で指した。
『今日ローラが自動車登録局へ名義変更に行ったんだよな?』
世界崩壊時に英国国内の保険会社は全て破綻し、現在はそれまで民間で行っていた自動車登録管理を、政府が言わば代行する形で、車両登録をロンドンの庁舎で行っていたが、実はローラがロンドンへすっ飛んでいったのはそれが理由だった。
「おい、コンラッド……」
いよいよ惚けてそっぽを向いているコンラッドをレオがジロリと横目で睨むと、ニヤリと笑ったコンラッドは、レオの背をバンバンと叩いて笑った。
「まぁ、俺のじいさん孝行だと思って諦めてくれ」
「何が孝行だよ。第一、俺の同意が無い文書なんか受理されるわけ」
言い掛けたレオを手を挙げて制し、コンラッドは顎をしゃくってパーシバルを見るようにレオを促した。
『お前達が決めた事だ。俺は口を出さん。だがお前はマリアを終生守ると、そう俺に約束した。何時なんどき、マリアに何かあったらお前は例え遠く離れていても、駆けつけてくれると俺は信じている。だから車は、俺とお前の約束の証だ。忘れるなよ、レオ』
ソファに深く腰を掛け、真っ直ぐに背を伸ばし、皺の浮いた手でレオの顔を正面から見据えながら伝えてきたパーシバルに、レオも真摯な瞳で応えるしか無かった。
翌日、そのベントレーGTCを駆ってスコットランドへと向かう途中で聖システィーナに立ち寄ったレオは、僅かな時間滞在し短い別れを告げた。
レオがクリスに対して「マリアを頼む」と頭を下げている横で、剥れた顔で見上げていたロドニーはフンと鼻を鳴らした。
「で、何時帰ってくるんだ」
「まだこれから行くんだ。何時戻れるかなんて分からないさ」
苦笑して返したレオを見上げて、ロドニーはズイッと前へ出た。
「お前、俺との約束を破るつもりじゃないだろうな」
「約束?」
「時計塔で約束したじゃないか。お前は院長先生を愛してるから、ずっと守っていくって決めたって。生涯守って困らせるような事はしないって。だから俺に世界を作り変える事が出来るような人間になれって」
「……ああ」
そう言えば、そんな事があったなと思い出して、クスッと笑ったレオだったが、ロドニーは真顔を崩さなかった。
「だから、お前がもし戻って来なかったら、俺がスコットランドに行ってお前をぶん殴ってやる。ぶん殴ってでも院長先生のところに連れて帰る。分かったか」
自分の目の前で、挑む目付きで自分を睨んでいるロドニーの金髪の頭が、何時の間にか、自分の肩近くまで来ているのに気づいて、小さな子猿のようだった男の子が少年へと変わり、そして青年へと階段を上がっていっているのだと感じて、きっとロドニーが自分と肩を並べる日はそう遠くないのだろうとレオは思った。
「ああ。約束する」
やんちゃで自由奔放だった野生児が、力を付けて皆を守る騎士に変わっていくのを見られないのは残念だなと思いながら、黒い瞳に穏やかな光を浮かべてレオは頷いた。
「でも、まぁ。会いたくないけど、きっと次の冬にも、会うだろうけどな」
またスコットランドに行く気満々のロドニーがフフンと笑うと、「まぁ」と呆れたマリアが小さくクスッと笑った。
もうレオは、マリアには特別何も言わなかった。言わなくても、あの冬の日に、互いの身体の全てに互いを刻み合った誓いの夜に、全て語り尽くしたと思っていた。マリアもレオと同じ気持ちらしく、ただ穏やかに、美しい瞳で静かに微笑んでいた。
――そうだ、マリア。笑ってくれ。笑っていてくれ。お前の笑顔だけが俺の支えだ。
南から吹く穏やかな風が春の香りを乗せ、何時かまたこの笑顔に巡り合えるその日まで、忘れぬように焼き付けたその笑顔をレオはそっと胸の奥に仕舞い込んだ。




