第八章 第七話
帰路『アルカディア』でアシュレイ夫妻を降ろした一行だったが、夫妻のスコットランドへの移住を告げても、ケビックは予想に反して怒るでも無く平然と言った。
「バーグマン尼僧、戻ったらクリスに伝えてくれ。移住希望者は、何組でも構わない。現在この『アルカディア』周辺とハルトン等で、数十組の受け入れが可能だ。それから、カーンフォースに作る学校関係についても打ち合わせしたいとテリーに伝えてくれ」
「承知しました、Mr.リンステッド」
「というわけだ。人手は十二分に足りるから気にするな。だけど、あのバノックの作り方は、此処の女共に教えてやってくれ。アレが無いと俺は生きていけないからな」
最後には苦笑してケビックはオルコットを振り返り、オルコットは目尻の皺を滲ませてゆったりと笑ったが、剥れたシスルが平然とした顔をしているケビックに噛み付いた。
「ちょっと、アンタ。自分が食べたいものの作り方ぐらい、自分で覚えなさいよ」
そもそも、スコットランドが結界を開く切欠になったのは、このケビックの一言からで、ハドリーの遺した希望を叶えたい気持ちはケビックも人一倍なんだろうと、仏頂面でシスルと遣り合っているケビックの照れを隠した横顔を眺め、レオの心の中に灯る明かりが光を帯びてユラユラと揺れていた。
その後聖システィーナに到着して、大勢の村人の出迎えを受けた子供達とマリアを降ろし、レオは一人ポーツマスのSAS指令本部に戻り、その足でマクダウェル中佐に帰隊報告を行った。
相変らず顔色を変えない中佐を前にして、内心で苦笑を浮かべたレオが淡々と報告するのを聞いていた中佐だったが、最後に書面に目を落としたままポツリと言った。
「それで、表敬訪問は無事に済んだか?」
「AAS部隊長であられるグレン大佐殿より歓待を受けました」
「……そうか。それではザイア少尉、貴君に一週間の休暇を命じる。ゆっくりと骨休めしてくれたまえ」
「しかし中佐殿、今週行われる国連会議にて、警備の人手が手薄と聞きましたが」
「それは何とでもなる。だから」
「今回も仏国関係者の中に聾唖の方がおいでかと。それは他では、何ともならない事ではないでしょうか」
レオの反論に中佐は意外そうな顔を上げ、レオは真っ直ぐ中佐を見返した。
「自分には余り時間がありません。この春までに出来る事には全力を尽くしたいのです」
「……分かった。早速明日より、ロンドン『ガイア2100』にて当該関係者への通訳任務並びに仏国関係者への警護任務を命ずる。心して任務を遂行せよ」
「了解しました」
淡々と敬礼を返すレオを見上げた中佐の瞳に、寂しさが浮かんでいるのに気付いて、レオは複雑な思いで口元に笑みを浮かべた。
「教えて頂いた事は忘れません。SASの名に恥じぬよう己の全力を尽くしてきます」
「ああ。出世してこい。そして戻ってきたら俺を追い出せ」
「ご冗談を。中佐殿が連隊長になられる頃には戻ってまいります。その時には、部隊長を任せて頂けるぐらいにはなっておきますので」
「良く言った。『餓えた虎』を追い越してやれよ」
寂しさの消えた瞳で中佐は楽しそうにカラカラと笑った。
あの喧騒が嘘のように、穏やかな日々が戻ってきたレオだったが、予定されていた会議が無事に終わりポーツマスの指令本部に戻ると、待ち構えていたニックス・ベック一等准尉が瞳を輝かせ、控え室で着替えを始めたレオの前に立ってワクワクとした声で訊ねてきた。
「少尉殿、再々戦は何時やられるんですか?」
「は?」
質問の意味が分からずに困惑した顔になったレオに、ニックスはクスクスと笑みを溢した。
「『餓えた虎』との再々戦ですよ。近々やられると伺いましたが」
「は? 俺は聞いてないぞ?」
当事者が何も聞いてないのに、もう噂はポーツマスを駆け巡っていたようで、他の兵士達も笑みを浮かべてレオを振り返った。
「今回のアデス少佐殿は本気だと聞きましたよ。『アイツをマットの血の海に沈めてやる』と。どうかお気をつけて」
それを聞いてレオは、ああと合点がいった。
自分の転属の話をコンラッドは知ったのだと悟り、終生妹を守ると誓った男の裏切りに、コンラッドが激怒している顔が浮かんで、レオは困惑した眉を寄せてため息をついた。
確かにコンラッドは本気のようで、レオの任務の終了を待って、短い文章で再戦の申し込みが届いた。断るわけにもいかずに了承をしたレオであったが、今度は本当に殺されるかもしれないと思った。
コンラッドの殺意の籠った鋭い視線を思い出して、彼にどう説明すればいいのか思い悩み、そして、告げればマリアが泣いて止めるだろう事を思ってマリアにも告げられず、言葉も見付からないまま直ぐにその日はやってきてしまった。
何時もは陽気で気さくなコンラッドだったが、この日SAS指令本部がある旧ポーツマス大学体育館にあるリングの上に居たのは、紛れも無くあの『餓えた虎』であった。
押し黙ったまま顔を上げず、時折鋭い視線を入口に飛ばしている彼が発する狂気に近い殺気を感じて、気軽な気持ちで観戦に訪れたSAS隊員や海軍兵士達は、野次も軽口も飛ばす事が出来なかった。
噂でしか聞いた事の無かった『餓えた虎』が目の前に居るのを、怯えと困惑の入り混じった瞳を見合わせるだけで、一体何が起きるのかと腰が浮きそうなソワソワした気分の中で、対戦相手のレオが到着するのを誰もがじっと待っていた。
約束の時間に姿を見せたレオを、コンラッドはジロッと一瞥し、少し強張った顔をしてはいるが、黒い瞳には怯えも恐怖も浮かんでいないレオを睨んで、コンラッドは無造作にグラブとヘッドギアを投げて寄越した。
「よく逃げないで来たな」
コンラッドは黒い冷気を放つ緑の瞳をレオに向けた。
逃げられるわけが無いとレオは思った。
この男に背中を向けて逃げていたら自分は前には進めない、そう思っていたレオには、逃げるという選択肢は思いつかなかった。
「今日の勝負は、どちらかがマットに沈むまでだ」
「……いいだろう」
コンラッドの提案に、グラブを手に巻き止めながら静かにレオが頷くと、コンラッドはギリッと奥歯を噛んで、緑の瞳の奥に沈んだ闇色を浮かび上がらせた。
「直ぐに後悔させてやる。あのままスコットランドから帰らなきゃよかったってな。だが、それも一瞬だ。お前の魂は、直ぐに地獄の底に沈む」
冷たく言い放ったコンラッドに弁解もせず、心配そうな部下兵士がレオのグラブ装着をサポートし終わると、レオは真っ直ぐに顔を上げた。
パンチを狙うレオをコンラッドが軽く往なすのが、この試合での何時もの始まりであったが、今回コンラッドは始めから鋭いパンチをレオに浴びせ掛けた。
どれも紙一重で交わしながら、観客が固唾を飲んで見守っているリング上で、レオは静かに考えていた。
言い訳めいた弁解をしたところでこの男は納得しないだろうし、何よりそれは自分が納得しないとレオは思っていた。
世界へ出て行こうとしているこの男の背を追って、自分も進んでいくには、自分の道がそれしか無い事を、レオはこの男に伝えねばならなかった。
自分が纏った罪科への贖いの険しい道を進んだ先にしか、自分とマリアの共に生きる未来が無い事を、風を切る拳や、既に額に汗を浮かべて自分を睨み付けている鋭い眼光に、殺気を籠めたこの男に伝えるには、自分の身を切り、全力でこの男にぶつかっていくしか無いと、レオはそう思っていた。
――俺はマリアと生きたいんだ。だから俺は前へ進む。
コンラッドのパンチを右に左に交わしながら、レオも右手を鋭く繰り出した。
――マリアも自分の意思で自分の進む道を見つけた。共に運命に流されてきた俺達は、自分で見つけた道を歩いていくんだ。
全く勝負がつかないまま三ラウンド目のゴングが鳴って、軽快に飛び出してきたコンラッドの全身を使った猛攻が押し寄せてきた。
(俺達は僅かの間離れて生きる。だが、必ず。必ず再び共に歩く。自分達で作り上げた道が広大な平原で再び出会って、そこから先が)
コンラッドの鋭い左フックを辛うじて交わしたレオは、そのまま逆にコンラッドのガードを弾き飛ばして、左のストレートを顔面にめり込ませた。
――俺達の未来なんだ――
レオの左ストレートをまともに食らったコンラッドは、体を弾き飛ばされて、ロープに背を預けて崩れ落ちていたが、カウンターでコンラッドの右ストレートを顔面に浴びたレオは、吹っ飛ばされた体をリングに横たえて、呆然と天井を見上げていた。
コンラッドはブルブルと頭を振りながら、レオが立ち上がる前にヨロヨロと立ち上がり、震える両足を踏ん張って辛うじてリングに立った。
「……どっちの勝ちだ?」
「……立ってるから、アデス少佐殿じゃないか?」
決着がついたのか見ても分からず、観客達もザワザワと成り行きを見守っている中で、コンラッドはヘッドギアをうざそうに外して投げ捨て、血の混じったマウスピースをブッと吐き出し、荒い息で起き上がろうとしているレオの背に手を掛けて、同じく震える足で立ち上がったレオの、汗に塗れた背に腕を廻して抱き寄せた。
「今度は世界で会おう。だが、お前が他の女といちゃついてたら、そん時は躊躇無く殺すぞ」
耳元で囁いたコンラッドの言葉に、レオはまだ痺れの残る顔で、ぎこちなく笑った。
そりゃお互い様だとレオは言いたかったが、口中に苦い血の味が広がって、マウスピースもまだ咥えたままでは何も言えず、レオはポンポンとコンラッドの背を叩いて了承を表した。
「今回はお前の勝ちだ、レオ」
切れた口元を拭いながら笑ったコンラッドの瞳から黒い闇は消え、穏やかな明るい緑色が戻ってきていた。
コンラッドは、かっちりと縛ってあったグラブを外して貰うと、まだ足元がフラついているレオのヘッドギアを乱暴に外した。
「いや、まだまだだ。次は必ずノックアウトしてやる」
同じ様に血の混じったマウスピースをブッと吐き出したレオが、腫れ上がった口元を拭いながら睨み返すと、コンラッドは威勢良くカラカラと笑って、レオの背をバンバンと乱暴に叩いた。
「よーし、再々々戦は何処でやる? 欧州か米国か、いやアフリカでもいいな」
「何処だって行ってやるさ。だから、艦長になったからって鍛錬を怠るなよ」
「当然だ。『エクセター』を最強の艦にするのが俺の目標だからな」
「最強で最怖か」
「上手い事言うな」
先程までの殺気の応酬など忘れたように笑い合っている二人を、観客達はポカンと口を開けて見ていて、そんな周りの様子など眼中に無く、楽しげに笑っている二人には、溶け残った蟠りの欠片すら残っていなかった。
「今回は、ザイア少尉の勝ちだな」
体育館の入口近くに陣取って、この一戦を遠くから見守っていたSAS連隊長アーノルド・リンチ少将の隣に、何時の間にか立っていたエリック・サヴァイアー中将が嬉しそうに笑っていて、リンチ少将は静かな灰色の瞳を向けた。
「怒りで我を忘れていたアデス少佐に、拳だけで真実を伝え、彼を諭す事が出来るのはザイア少尉だけだろうな」
「全くです、サヴァイアー中将殿。あれは、アデス少佐の好い所であるのでしょうが、逆に唯一の弱点でもありますな」
妹マリアを守るためだけに生きていた少年時代のコンラッドの、暗い狂気を秘め『餓えた虎』と呼ばれていた頃の生き様そのままに、あのままレオを殺すつもりで襲い掛かっていた事に、リンチ少将もサヴァイアー中将も気付いていたが、そうなるともう、誰にも彼を止められない事を二人とも知っていただけに、妹マリアの時と同様、暴走したコンラッドを制する事が出来るのもこの男だけなのだと、サヴァイアー中将は、レオの持って生まれた宿命とも呼べる運命のめぐり合わせに驚嘆していた。
唯一守りたい存在だったマリアも、世界各所に渡る異なる宗教を、共通の理念の元に共存させるという、これまで誰も成しえなかった大きな任務を負って、自分の手から飛び立ってしまう事を知ったら、コンラッドは寂しがるだろうなと、サヴァイアー中将は思ったが、今月彼に第一子が産まれる事で、今度は自分が何を守るべきなのか直ぐに彼は思い知るだろうとも思った。
――神様は、本当に良いタイミングで授けて下さるな。
サヴァイアー大佐は安堵を浮かべた瞳で、まだリング上の二人に目を向けた。
「しかし彼も直ぐに気付くだろう。もう妹は、怯えて助けを求めている小さな女の子では無いという事に。その時になれば、彼は自分が成すべき本分をもう見失う事は無いだろう。まぁ、少々手を焼くぐらいが、逆に可愛かったんだがな」
サヴァイアー中将は一抹の寂しさも浮かべてフッと笑い、リンチ少将も緩やかに顔を綻ばせた。
「全くですな」
二人の壮年の男達は、この先の未来を託せる人材を有している事に、互いに満足しているかのように穏やかに微笑み合っていた。




