第一章 第六話
その年の冬は例年に無く寒かった。刺すような北風が頬を凍てつかせたが、あの灼熱の地獄に感じた夏から秋の日に比べれば、まだマシだった。こうして走っていれば自然に体が暖まって、そのうちには汗も吹き出してくるからだ。
男達の集団を抜け出して先頭を疾走するレオは、ひらすら黙々とグラウンドを走っていた。流石にもう周回遅れになる奴は居らず、どいつもレオからは遅れていたが、緊張した顔で荒い息を白く吐き出しながら淡々と走り続けていた。
あの夏の日に【核】を襲撃してイギリス海峡まで弾き飛ばされ、このデボンポートの海軍訓練校に放り込まれた男達は、当初二十名だったが、年の明けた今は十四名に減っていた。
ラットと呼ばれていた茶髪の男と、その取り巻きの五名の男達は、監獄島と呼ばれる上陸訓練用の小島に放り出された後、結局此処には戻って来なかった。
あの女軍人を襲ったラットが監獄島送りにされたのは分かったが、他の奴らは、たまたま家族に面会に来ていた耳の不自由な一般人を人質にして脱走しようと襲い掛かって、アデス中尉に全員病院送りにされたのだという。その後、ラットと共に監獄島送りにされたと聞いて、馬鹿な奴らだとレオは鼻で笑った。
そいつらの処遇について、上官のアイザック・ムーアハウス少尉も、他の教官達も、誰も話そうとはしなかったが、きっと聞いても無駄だろうとレオは思った。
その島で野垂れ死んだのか、それとも、他へ移されたのかは分からないが、少なくとも、自分自身を振り返る事すら出来ない底辺に堕ちたあいつらには、人として生きる道は残されていなかったのだとレオは思った。
レオ自身はそれからは上官に反逆する事無く、ただひたすら訓練に打ち込んでいた。しかしそれは、任務に目覚めたからではなく、あのクソ野郎をぶちのめしたいという一念から来るものであった。
ムーアハウス少尉にはそれが分かっていた筈だが、それを咎める風でもなく、訓練を通して力を付けていく男をただ静かに見守っているだけだった。
どうせ俺には出来ないと思ってるんだろとレオは内心で舌打ちをした。しかし、レオの心には消しがたい執念がへばりついて、その事を忘れる瞬間など無かった。
あの飄々と笑っていたコンラッド・アデス中尉は、あれから此処デボンポートに姿を見せる事は無く、ポーツマスを母港とする英国海軍フリゲート『ブリストル』の一等航海士であるコンラッドが、此処デボンポートには特別な用が無いと来ない事は分かっていたが、きっとまたその日はやって来ると、レオは北風が砂埃を巻き上げているグラウンドを見やった。
――いつかアイツをぶちのめす。足腰が立たなくなるまで、ぶん殴ってやる。
レオの黒い影を落とす瞳に焼きついた執念は、静かに炎を上げてその日を待っていた。
それまでは基礎体力訓練ばかりだったが、男達が従順に変わると机上で講義の時間も加わるようになり、この時間が、レオにとって一番苦痛だった。
高等教育は勿論、レオは小学校にすら通っておらず、読み書きはいつも誰かしらレオに纏わり付いていた女達に教わった。数学は、勘定が出来ないために仲間に騙されてからは基本的な計算ぐらいは覚えたが、それ以上のレベルは全く未知の領域だった。
どうせ他の奴らも似たりよったりの筈だと思っていたが、中には海洋学や船の基本構造に興味を示す者も居た。
「俺んち漁師だったんだよ」
一人の男が照れ臭そうにポリポリと頭を掻いた。コイツは操船を学んで航海士になりたいと言った。
「俺、通信にしようかな。楽そうだし」
実はロンドンのパブリックスクールに通っていたという別の男は講義にも難なくついていっている様子で、講義の合間の休憩時間に雑談を交わしている仲間を、面白くなさそうに遠目に睨んでレオはフンと鼻で笑った。
配属先への希望を記入して三日以内に提出するようにと、用紙を渡されたばかりで、男達は其々どんな職種が良いのかを暢気に話し合っていたが、レオはそんなものには全く興味が無かった。
そのレオの用紙には、乱雑な文字で『ブリストルでの勤務希望』とだけ書かれていた。
退屈な講義の間はイメージトレーニングの時間と決めたレオは、もう何百回も、頭の中ではアデス中尉をぶちのめしていたが、そのチャンスは中々訪れなかった。
配属先への希望を書いた用紙を手に、夕食前の時間、レオは一人ムーアハウス少尉の教官室に向かっていた。
ドアを面倒臭そうにノックをしたレオに「入れ」と、短い返答があって、ドアを開けたレオは、一度背を伸ば直してから「訓練番号百二十三番。入ります」とだるそうに、それでも決められた通りの敬礼をした。
怪我が治ってからは、それまでのような軽口は許されなかった。ぶっきら棒な物言いをすると、直ぐに地面をのたうち回る事になり、上官への返答は「了解しました」しか許されなかった。
最初は反発したレオだったが、毎回徹底的に打ちのめされると、やがて渋々と従うようになっていった。
配属先への上申書を少尉に手渡したレオをチラリと一瞥してから、その用紙に目を落としたムーアハウス少尉は小さく鼻で笑った。
「『ブリストル』は成績上位者しか受け付けないぞ。せいぜい頑張るんだな」
背を向けたレオは歯噛みをした顔を気取られないように、黙ったままブスッたれた顔で教官室を後にした。
「くそったれが」
ドアを閉めたところで小声で呟き、内心で舌打ちしたレオが自室に戻ろうと振り返ると、見慣れない男女が、少し驚いたように目を丸くして廊下の少し先で立ち竦んでいた。
共に六十代ぐらいの男女は私服で、察するに一般人と思われた。今の呟きを聞かれたかと、レオが鼻白んだ顔で二人を睨み返すと、怯えた顔の二人は慌しく手を動かし始めた。
『貴方、どうしましょう』
『落ち着け。あの時の訓練生はもう居ないと、少尉がおっしゃっていたじゃないか』
オロオロとしながら手話を交わしている二人は、耳が聞こえないようであった。ラットの仲間に襲われたというのはこの二人の事かとレオが察した時、あの時の軍医と女軍人の会話を思い出した。
――そうか。あの女の両親か。
メラーズ夫妻は、目の前の訓練生の制服の男に、あの時のようにまた襲われるのではないかと危惧しているようで、二人の忙しない会話を音の無い廊下でじっと見つめ返しながら、レオはゆっくりと手を上げた。
『心配するな。俺は襲ったりしない』
言葉で話しながら手話でも返したレオに、メラーズ夫妻は驚いた顔を見合わせた。
レオの母親も聾唖だった。レオは、しゃべる言葉を覚えるよりも先に母親の手話を覚えた。怒り狂っている母親が何を言っているのかを悟らないと、次にはその手で、体中に痣が出来るほどぶちのめされるからだ。
十歳で母親を殺してからはもう忘れたと思っていた手話だったが、体に染み付いていたものは消えていなかったようだった。
『済みません! 貴方と同じ訓練生の方に、この前酷い目に遭ったので、つい。申し訳ありません』
『手話がお出来になるんですね』
恐縮した夫妻が何度も頭を下げて謝罪するのを手で制して、レオは知らん顔で通り過ぎようとしたが、ふと気付いて夫妻を振り返った。
『娘さんがデボンポートに来ているのか?』
レオの問いに夫妻は嬉しそうに笑った。
『ローラをご存知なのですか。ええ、昨日から帰って来ています。次の日曜日に結婚式なんですよ』
その返事に、内心のほくそ笑みが顔に出てレオはニヤリと笑った。
――アイツがデボンポートに来ている。
チャンスが訪れた事を知ったレオは、夫妻に一応軍人らしく敬礼をしてクルリと振り返ると、沸々と湧き上がる闘志を抑えきれず、靴音を立てて歩いて行った。