第七章 第七話
独り車を駆って、強張った顔でメイデンヘッドへ向かうレオは、ただ一つの祈りだけを繰り返し頭の中で唱えていた。
――マリア、無事でいてくれ、マリア。
まさかワイアットが、自分を呼び出すためにマリアを囮に使うとは思ってなかったレオは、其処に油断があった事を後悔したがもう遅かった。
『落ち着いて行動して下さい。彼は決してバーグマン尼僧に手出しする事は無いと思います』
【守護者】クリスの呼び掛けもレオの耳には届かなかった。
『ケビックの言葉を思い出して下さい、少尉。貴方が彼に殺されても、それは決して彼の救いにはなりません。その後地獄が、彼と、残される妻子に降り掛かるんです』
『どうすりゃいいんだ』
ようやく呼び掛けに応じたレオに、クリスはホッと息をついた。
『今、ケビックもそっちへ向かってます。彼が着くまで時間を引き延ばして下さい。決して焦らないで』
バーチェッツ城に着いたレオは、黒のベントレーのドアを乱暴に閉め、茶色を帯びた外観の古城が、此処も暴動に巻き込まれたのか窓ガラスが全て割られ、飛び込んだ中も家財が無残に叩き壊されて残骸を散らしている中を、マリアの名を呼びながら周囲を見渡していた。
『左の廊下の突当たりに隠し扉があります。其処に地下への階段が』
クリスの指示に従って向かったレオは、光の差さない闇の中で、石造りの古い階段が、目が慣れて見えてくると、ゆっくりと闇深くに下りて行った。
数部屋だけであろう狭い地下室で、一箇所だけ明かりを漏らしてチラチラと揺れている部屋へ向かったレオは、開け放たれたドアの向こう、薄汚れた石造りの部屋の中で、粗末なベッドだけが置かれ、その上に、縛られて目隠しをされて体を投げ出しているマリアと、そのマリアに銃身の長い銃を突き付けて笑っているワイアットの姿を捉えると、グッと奥歯を噛み締めた。
「おもちゃだと思ってるかもしれないけど、これちゃんと使える銃だから。古いマスケット銃で、飾りにしてあったんだけど、骨董品で銃器登録してなかったから没収を免れたみたい」
クスクスと笑っているワイアットを、レオは為す術も無く黙って見ているしか無かった。
「で、今持ってる武器をこっちへ全部投げろ」
マリアを人質に取られている以上、レオは従うしか無かった。
持っていた短銃を投げると、慎重に拾ったワイアットは、いとも簡単に劇鉄を起こして、その銃をまたマリアに突き付けた。
「流石SASの銃は違うね」
以前ベルト地帯で脱獄したラットと出くわした時には、彼はその劇鉄の操作が解らず難を逃れた事があったが、訝しげな顔のレオにワイアットは意外そうな顔をした。
「湖水の皆が、SASの基礎訓練をジニアから受けてたのは知ってるだろ? 俺も湖水に移動してから、あそこにある銃器の基本的な使い方を習ったのさ。SASの娘からね」
そうだったと思い出したレオだったが、最早自分は彼に殺されるしか無いと思っていたレオが望むのは、マリアを無事に解放する事だけだった。
「俺の事は好きにすればいい。マリアは、彼女は何の関係も無い。帰してやってくれないか」
「そりゃ、好きにさせて貰うさ。でもお前を殺すまではダメだな。お前を無事に殺せれば尼僧には帰ってもらう。だから、余計な事はしないで下さいよ、尼僧。でなけりゃ、貴女も殺さなきゃならなくなる」
「Mr.ボールドウィン! どうか、どうか気持ちを静めて、落ち着いて下さい!」
マリアの叫びにワイアットは不思議そうにクスッと笑った。
「俺は落ち着いてますよ。ただ、こんな幸運が、こんな時に降ってくるとは思って無かったから少し驚いてますけど」
あくまでもマリアには丁寧な様子に、ワイアットはマリアに手を出すつもりは無い事と判り、レオは闇に沈んだ黒い瞳をワイアットに向けた。
「俺がお前の親父を殺したのは事実だ。お前が俺を殺したいんなら、殺せばいい。いや、寧ろお前にはその権利がある。俺はその覚悟はしてきた」
「へぇ。つい最近まで、平気で人殺しをしてたくせに、随分と人が変わったな」
あの日、ハルトンで【核】を殺そうとしていた時に、馬を駆って捕らえていた女を救ったのは、そういえばコイツだったなとレオは思い出して、確かにあれから流れた月日は、それまで自分が残虐に生きてきた時間に比べるとまだ僅かでしか無い事を思い、贖罪にはまだほど遠い事に、改めてレオは自分の罪を思った。
「待って! 待って下さい! ザイア少尉様! それはいけません。それでは、彼は、ワイアットは救えないのです!」
マリアの言いたい事をレオは分かっていた。ケビックが同じ事を言っていた通り、彼は俺を殺して満足しても、その後にはその罪を贖う日々と、彼に置いてきぼりにされた妻子の苦悩の日々が待っているだけという事は、レオにも痛いほど分かっていた。
「ああ、分かってる。ハドリーが、そんな事を望んじゃいない事も分かってる。だがな、マリア。俺があの男に詫びるには、こうするしか無いんだ」
ハドリーの名前が出ると、ワイアットは苦しそうに顔を歪めた。彼もその意味を十分に分かっているのだ、とレオは思った。
それでも尚、自分の中に積み重なった怨念は、俺を打ち砕くまで消える事が無いんだと思い、レオは諦めたように小さく息をついた。
「後ろを向け」
ワイアットはその苦悩から逃れるように、荒い息をついた。
「ダメです! ワイアット!」
マリアの必死の叫びにも耳を貸さず、ワイアットは煤けた暗い瞳で、ただレオをじっと見ているだけだった。
最後に、マリアのあの綺麗な茶色の瞳を見たかったと思いながら、レオはゆっくりと二人に背を向けた。
「本当は親父と同じようにナイフでズタボロにしてやりたいんだが、流石にお前相手じゃ分が悪い。だが一発では殺さない。親父と同じように苦しんで死ね!」
ワイアットの鋭い視線を感じながらも、レオはその台詞の違和感に気付いて「え」と声を上げた。
「ナイフ……?」
その違和感の正体に気付いた時には既に遅く、鳴り響いた銃声と共に、レオは撃ち抜かれた左肩の痛みに膝を折って崩れ落ちた。
「レオ!」
マリアの絶叫が石造りの部屋に響き渡る中、最後の瞬間を待っていたレオは、突如光の洪水の中に投げ出されて、その意味を悟ると同じように顔を覆っているワイアットをすり抜けて、ベッドの上のマリアに飛びついた。
あの日のような蒼白い炎に守られて、ベッドの上でマリアを抱き締めているレオの前で、壁に身体を打ち付けて苦しそうに頭を振りながら立ち上がったワイアットを、悲しみに満ちた瞳で見ながら、ケビックが部屋の入口に仁王立ちしていた。
「ケビック、止めるな! コイツが俺の親父に何をしたか、お前は知ってるんだろうが!」
絶叫したワイアットだったが、その手にあった銃はもうケビックが手にしていて、ケビックは動揺する事も無く、悲哀を籠めた瞳でワイアットを見つめ返した。
「ああ。知ってる。お前の親父を殺したのは、レオじゃない事をな」
一瞬の静寂が流れると、レオも震えるマリアを抱き締めながら、やっぱりそうかと、血の流れ続ける左肩の痛みに耐えて、悲しげにワイアットを振り返った。
「どういう事だ、ケビック」
その言葉の意味を計り兼ねてワイアットが悲痛な叫びを漏らすと、ケビックは銃を背中に仕舞ってから静かに話し始めた。
「たまたま同じ年に、同じような幼い子を抱えたビジネスマンが、同じスラムで悲惨な最期を遂げたんだ」
この直前にケビックの元に齎された古い警察資料に、その全貌が残っていた。
「レオは確かに、十五歳の時にスラムで一人の男を殺したが、それは撲殺だった」
「……撲殺?」
「ああ。殴り殺したんだ。ナイフは使ってない」
「でも!」
「お前の親父は、ナイフで滅多刺しにされて死んでいた。つまり、レオは確かに男を一人殺したが、それはお前の親父じゃ無かった。別人だったんだ」
「別人……」
身体の力が抜けたワイアットは、そのままズルズルと壁際に座り込んで、呆然と目を見開いているワイアットを、レオは悲しそうに見ているだけだった。
「お前の親父を殺したのは、手口から恐らく通称キティと呼ばれていたティム・カークで、当時十二歳の少年だった」
「キティ……ソイツが、レオの仕業だって情報をくれた奴だ……」
「ああ。態とナイフを相手に握らせ、別のナイフで襲って滅多刺しにして、正当防衛を主張した上、自分は最初に刺しただけで逃げた、と主張するのがコイツの手口でな。この男は、後年ようやく証拠を掴んで有罪にして終身刑になり刑務所で死んだ。古い調書の中で、最初に聴取を受けたのがこのキティだったという記録が見付かって、俺は真実に気づいた」
「じゃあ」
「レオに自分の罪を擦り付けて、お前達に金を要求してきたろ? そうやって被害者家族に近づき、情報を提供すると持ち掛けて金を搾り取る、コイツは本当の悪党だった」
「じゃあ、俺は、俺は」
「残念だが、お前が仇を討つ相手はもう死んでしまっているんだ。レオじゃないんだ、ワイアット」
「わぁあああああああああぁ」
頭を抱えて絶叫したワイアットは、そのまま冷たい床に身を投げ出して泣き崩れた。
「ザイア少尉様!」
マリアの声に気付いたレオが目隠しを外してやると、ボロボロと涙を溢していたマリアの頬を流れる雫を拭ってやり、レオは痛みに顔を歪めながらも口元に笑みを浮かべた。
「マリア、無事か」
「酷い、酷い怪我を。早く手当てを」
焦るマリアの手足の戒めを解いてやりながら、レオは「ああ」と小さく笑った。
「かすり傷だ」
「でも!」
「かすり傷だ。ついうっかり家具の角にぶつけちまったようだが、こんなのかすり傷だ」
そう言いながら微かに微笑んでいるレオに、ケビックも俯いて、小さな声で「済まない、レオ」と詫びた。
「いいんだ。ワイアットは間違って無かった」
微笑ながら呟いたレオに、ケビックがピクリと眉を上げた。
「悲しい思いをした二人の子供が居たのは事実だ。ワイアットは、その子の代わりに俺を戒めようとした。それだけだ」
「ザイア少尉様……」
「俺は討たれるべき存在だ。だから、ワイアットは間違ってない。彼を責めないでくれ」
「責めはしない。だが責任は負ってもらう」
冷たくも思えるケビックの言葉にレオは振り返った。
「自分が罰を下すべき相手はもう罰を受けて死んだ。だから、もう忘れろ、ワイアット。そして思い出せ。お前が守るべき存在の事を。異国で一人、お前しか頼る相手が居ないエマの事を。そして何時かそのエマの母に会わせてやらなきゃならないフィオナの事を。二人ともお前の絆の相手だ。お前が守らないで、誰が守るんだ」
泣き崩れているワイアットを諭すように、静かにケビックの声が響くと、その泣き声の背後に微かに、ほんの微かに、か細い歌声が流れているのに気付いてレオは顔を上げた。
柔らかな少女の歌声は、何処から響いてくるのか、哀愁を秘めて悲しみに満ちていたが、何時かは訪れる希望を待ち望んで、静かにゆったりと流れていた。
「……レティシアの歌だな」
「レティシア?」
聞き覚えの無い名にレオが怪訝げに呟くと、ケビックは「ああ」と嬉しそうに空を見上げた。
「ニナの、【核】の過去世の一人だ。彼女は此処へ幽閉されていて、十七歳という短い生涯を終えた。正に、この場所でだ」
恐らくこの石壁に染み込んでいたのであろう歌声は、次第に遠くなって消え去っていった。
「地獄の中にあっても、僅かな光を、希望を求めてたんだな」
ケビックはゆっくりとワイアットに歩み寄りその肩に手を掛けた。
「ワイアット。帰るぞ、湖水へ。俺達の故郷へ。お前を待ってる人が居る、俺達の場所へ」
崩れ落ちたまま立ち上がれないワイアットを、励ますように話し掛けるケビックの横顔を見ながら、レオは運命が仕掛けた悪戯とは言え、無情な結末に天を仰いでため息をついた。




