第七章 第六話
予定通りに聖システィーナに荷を届けたワイアットであったが、その後の足取りはぷっつりと途絶えて、帰る筈の時間になっても、『アルカディア』へは戻って来なかった。
シスルから連絡を受けたケビックは、すかさずレオに絶対に接触するな、軍施設から一歩も出るなと警告を発したが、それでも不安は拭えなかった。
「クソッ!」
議場の控え室で、机を拳を叩いたケビックは、暗い瞳で顔を上げずっと考え込んでいた。
ケビックからの連絡を受けたレオも、一応宿舎に留まっていたが、何度もケビックの言葉を反芻していた。
もし彼が俺を殺したいと望んでいるのなら、俺は殺されなければならないという思いは、ケビックの諫言を以ってしても、レオの心からは拭い去れなかった。
――土下座してまで命乞いしていたあの男を、俺は無慈悲に殴り殺した。
家族の元へ帰る事だけを、それだけを望んでいた男のその悲痛な懇願を、当時のレオは、汚らわしい物でも見るように蔑んだ視線で見下していた。
――そんな家族の絆が疎ましかった、いや、羨ましかったんだ、俺は。
自分には無い、決して手に入る事の無いその幸せを、ぶち壊してやりたいと、暗い感情に身を委ねていた自分が犯した罪は、消える事無くこの手にどす黒くこびり付いているんだとレオは思った。
――きっとアイツも『俺の子供に殺されてくれ』と、そう願って出て来るんだ。
何度も夢でレオに向かって物言いたげに佇んでいるだけのその男の姿を思い起こして、レオは両手で顔を覆った。
――マリアはもう独りでも大丈夫だ。
レオは覆った顔の隙間から澱んだ瞳を覗かせた。
負の力を自分で律する事が出来るようになった彼女は、もう俺が居なくても決して闇に落ちる事は無いだろうと思うと、もう自分の役目は終わって、後は彼に殺される事だけが残っているような気がしていた。
もし彼から呼び出しが来たら、俺は断れないだろう、そう感じたレオは、静かに立ち上がり、夜の帳が下り始めたポーツマスの街の明かりを、再び闇に覆いつくされようとしている黒い瞳を向けて、その審判の鐘が鳴らされるのをじっと待っていた。
「目が覚めました? 尼僧」
重い頭を抱えて眠りから覚めたマリアは、目覚めた筈なのに自分の視界が真っ暗な事に恐怖を覚え、その暗闇で響く陰鬱な声の元を探そうと顔を左右に振ったが、後ろ手に縛られた両手と、両足首に感じる戒めに、強張った顔で震える唇を開いた。
「此処は、何処なんです? 貴方は」
マリアの問い掛けに声の主は少し笑ったようで、聞き覚えのあるその声に、マリアの顔は一層強張った。
「俺ですよ。ワイアット・ボールドウィンです。此処は、俺の家の地下室で、今は此処には誰も住んでません。此処も暴動が酷くて、上はめちゃくちゃですから」
淡々としてはいるが、抑揚を含まないその声の冷たさにマリアは背筋に走る悪寒を感じて、あの陽気な青年の身に何が起こったのか、そして自分の身に何が起こっているのか、考えあぐねていた。
目隠しをされ四肢を拘束されている自分は、そのワイアットの家の地下室のベッドの上に寝かされているのだと知って、冷え冷えとした空気に顔に恐怖を張り付かせたまま、石床を歩き廻る硬い音を聞きながら、事態を把握しようと落ち着きを取り戻そうとしていた。
「済みません、尼僧。夕べ修道院を訪ねていって、尼僧を誘拐させて貰いました。騒がれたり、あの力を使われてしまうと困るんで、薬で眠って貰ってました。乱暴な事はしてないので安心して下さい」
「一体、何のために、何故こんな事を? Mr.ボールドウィン」
「奴に、此処に一人で来て貰うためです」
「……奴とは」
「貴女の恋人ですよ。アレックス・ザイアです」
その表情を確かめる事は出来なかったが、吐き捨てるような言葉にワイアットの怒りを感じてマリアは一層顔を強張らせた。
「彼に、彼に何をするつもりなのです?」
「何って、そりゃ死んで貰うんです。俺の親父を殺してのうのうと生きてる男ですから」
薄っすらとした笑みが見えるようなワイアットの冷たい嘲笑に、マリアは冷水を浴びせられたように凍り付いた。
「知ってましたか? 尼僧。貴女の恋人が過去に何をしたのか」
「ええ、ええ。私は彼の懺悔を聞いておりますから」
「へぇ。それでも恋人にしたんですか」
少し驚いた声を出したワイアットであったが、クスクスと笑みを漏らすと不思議と嬉しそうに話を続けた。
「俺の家はポロの名門一家で、ひいじいちゃんもじいちゃんも有名な選手だったんだけど、親父は、あんまりポロが好きじゃなかったみたいで。何時もじいちゃんと比較されるのが嫌だったみたいです。それで、大学までは続けてたけど、大学出たら普通のビジネスマンになりました。最初はじいちゃんも剥れてたけど、俺が産まれて、親父も仕事を頑張ってるのを認めてくれて。俺達は、幸せになる筈だったんです」
コツコツと鳴っていた足音が止んだ。
「その日、ずっと契約を取りたくて頑張ってた大きなプロジェクトが受注できる見込みになって、親父は仲間とパブで祝杯を挙げたんだそうです。じいちゃんは金持ちだったけど、ただのビジネスマンだった親父はそうでもなくて、帰り際にハイヤーを呼べよと仲間に言われたのを『地下鉄で帰るからいい』って、そう言って、一人で歩いて帰っていったんだそうです。でもあの日、親父は帰って来ませんでした」
最初は抑揚の無かった声に、少しずつ、悲しみが籠っていくのを感じながら、マリアは黙って聞いていた。
「翌朝、警察に呼ばれたお袋は、最初はそれが親父だとは分からなかったそうです。もう顔はボロボロで。辛うじて、親父が着ていた服が、じいちゃんが俺の誕生祝いに親父に贈った物で『一流になるには身なりも重要だ』って、いい仕立てのスーツで。その裏地の、ボールドウィンの銘で、やっと分かって。後はDNA鑑定で、確実に俺の親父だって判明したんです」
レオの懺悔の中にあった、十五歳の時に殺したビジネスマンが、ワイアットの父親だったという数奇な巡り合わせに、マリアも息を飲んだまま凍りついていた。
「で、一度、怪しいスラムの子供が捕まったんだそうです。でも、ソイツは、『最初にアイツから金を出せとナイフで脅してきたから、逃げようと必死になって、揉み合っているうちに胸を刺して、怖くなって逃げた。後の事は知らない』とそう証言したんだそうです。実際に、近くに落ちていたナイフには親父の指紋だけが付いていたそうで、警察はお座なりな捜査の末に、帰る金が乏しくなって強盗を試みたが返り討ちに遭い、その後はスラムで金目当てに他の連中に襲われたんだろうって、そう結論付けて、捜査は終わりました。ソイツの名も教えて貰えませんでした」
「そんな……」
「でしょ。俺の親父が強盗だって。そんな馬鹿な事ある筈ないじゃないですか。仕事も上手くいって、家庭も幸せで。そんな事、ある筈ないじゃないか!」
最後は絶叫に近い叫び声を挙げたワイアットは、もう興奮を抑えられないようだった。
「だから俺の家でも、何度も警察に言って再捜査を願い出たけど、スラム一帯を管轄しているあの警察署では、良くある出来事だったようで、全く相手にもされなかった。扱いは小さかったけど、全国ニュースにもなって、暫くお袋は外に出られなかった。『あの名門ボールドウィン家が強盗だ』って。じいちゃんはそれでポロ団体の理事を辞めて、家で毎晩飲んで毎晩泣いてました。泣く度に俺に、『何時かはお前が必ず怨みを晴らしてくれ』って。俺の中の親父の記憶って、写真と、毎晩じいちゃんが泣きながら話したその話だけなんですよ。ねぇ、尼僧。俺達の無念が分かりますか? 尼僧」
ワイアットの慟哭を聞きながら、マリアはドクドクとした鼓動を抑えられずに震え続けていた。
「俺の家ではそれでも諦めきれずに、あの辺りで目撃者が居ないかずっと聞いて廻ってました。その時に、その様子を見ていたという一人の子供が証言してくれたんです。『それはアレックス・ザイアの、レオの手口だ』ってね」
「いえ! いえ! 違います! 彼は決してそんな」
「人殺しなんかしない、ですか?」
フッと笑ったワイアットの荒い息遣いが間近に迫って、マリアはビクッと顔を逸らせた。
「態とナイフを相手に握らせて、その上で自分は別のナイフで相手を滅多刺しにして金品を奪い、万が一捕まったら、正当防衛を主張する、それが奴の手口なんですよ。そうやって奴は何度も罪を逃れてきた。ねぇ、尼僧。それでも彼を自分の恋人だと言うんですか」
ワイアットの冷たい手が頬に触れたのを感じて、マリアはその手から逃れようと暗闇の中、必死で後退った。
「大丈夫です、尼僧。俺は奴とは違う。貴女には、手出ししたりはしません」
少し遠ざかった声にマリアは一瞬安堵の息を洩らしたが、そんなマリアに向かってワイアットは冷たく言い放った。
「だから、奴を此処へ呼んで下さい。貴女はクリスと会話が出来るでしょう? クリスに言って下さい。奴一人だけを、此処へ寄越すように。でなければ、貴女を殺します」
もう異変を察知して、何度も自分に呼び掛けてきているクリスにどう答えればいいのかと、マリアは恐怖に見開かれた瞳を闇に漂わせて、じっと考えていた。




