第一章 第五話
その夜は、隣のベッドで、ラットが一晩中唸って叫び声を上げていて眠れなかったレオだったが、まんじりともせず殺風景な天井を見上げて考えに耽っていた。
翌朝、救護室を覗いたコンラッドが、まだベッドで寝ているレオと隣のラットを見つけてニヤニヤと近づいてきた。
「よぉ、おはようさん。眠れたか?」
まだうーうーと唸っているラットには冷たい視線を投げ掛けて、コンラットは嘲りの笑みを浮かべた。
「女ならチョロイと思ったんだろうけど、残念だったな。返り討ちに遭って」
ケラケラと笑ったコンラッドに、レオも嘲りを籠めて呟いた。
「ひと思いに殺せば良かったのにな。それぐらい、何とも思わない女なんだろ? 薬中の売春婦らしいな」
笑いを引っ込めたコンラッドが、レオに向き直るのが見えると、レオはまだ腫れた口元に冷笑を浮かべた。
「スラムの地べたを這い回ってた女だってな。どうせ男に股を開きっ放しだったんだろうに、そんな女を嫁にするとは物好きだな」
「……アイツ、服脱ぐと凄いんだぜ?」
コンラッドはレオの悪態にまたニヤニヤとした笑いを浮かべると、ベッドの上のレオの顔の上にその顔を近づけた。
「軍服じゃあ色気も無いが、その下はナイス・ボディだ。その上、一途で俺に惚れてる。羨ましいだろ?」
「俺もあの女みたいに改心するとでも思ってんのか」
「まぁな。少尉殿から懲罰室の話を聞いたからな」
レオは懲罰室で自分が泣いた事を思い出して苦々しい顔になった。
「ああいう奴は見込みがあるんだよ。俺には経験上分かる」
フンと鼻で笑って顔を背けたレオにコンラッドはニヤリと笑った。
「俺がそうだからさ。俺も虫けらだったんだ。お前と同じで、殺した人間の数を誇るような、そんな下衆野郎だったからさ」
振り返ったレオは、下から影が差して、黒々とした冷たい笑みを浮かべているコンラッドの顔を黙って見上げていた。
暫くは黙ったまま言葉を発せなかったレオだったが、思い直したように首を振ると、挑む目でコンラッドを見上げた。
「お前ら俺を殺したかったんだろ? どうせ虫けらだ、海まで飛ばして溺死すりゃいいと思ってたんだろ? だったらそうすりゃいいじゃねぇか。改心なんて人其々だ。ゴミを改心させる手間を掛けるより、アンタらが囲ってる善人を軍人にすりゃいいじゃねぇか」
「知った事か。俺らは命令に従うだけだからな。お前らを救助しろと命令された。だからそれに従った。それだけだ」
興味なさそうに耳をポリポリと掻いているコンラッドに、レオは眉を顰めた。
「あの【核】の女が俺達を殺そうとしたんだろ? 誰が俺達を助けろと命令したんだ?」
「は? 【核】?」
「そうだ。俺が殺そうとした女だ。自分で【核】だと名乗ったぞ」
レオの説明にコンラッドは可笑しそうにクスクスと笑い出すと、声を上げてケラケラと笑った。
「あの場所にはもう【核】は居ないぞ? 大方、番人の一人だったんだろ。ああ、金髪のモデル張りの美女だったか?」
「あ、ああ」
戸惑っているレオの答えをコンラッドはフフンと鼻で笑った。
「軍神アフロディーテと戦ったのか。お前ら生きてて幸運だったな。あのSASと戦って生き残った最強の兵士だ」
薄笑いを浮かべたままのコンラッドは、レオに更に顔を近づけると小さく囁いた。
「【核】はもう『発動』のために旅に出た。もう間もなく、世界は『発動』を迎える」
「ふん。乳繰り合って世界を救えるんなら楽なもんだな。俺が【鍵】をやってやるのに」
「阿呆か。【鍵】はな、【核】を殺すんだよ。【鍵】が【核】を殺せば『発動』が起きて、世界に子供が産まれるようになる」
真顔になったコンラッドに、レオは小さく悪態をついた。
「ならさっさと殺せば済む話だ」
「これ以上はトップシークレットだ。だがな、覚えておけ。お前を生かす選択をしたのは【鍵】だ。【鍵】は、結界に守られた魂も、結界に入れない魂も全て救うと宣言した。番人の一人は危険回避の為にお前らを海に弾いたが、別の番人はお前らを救えと命令した。俺らはお前らを救った。何故なら、お前らが人間だからだ」
自分を虫けらに貶めておいて、今更何を言うんだとレオは思った。
「俺らは虫けらなんだろ?」
「ああ。今はな。だが虫けらの衣を纏ったお前の中には、足掻いて呻いて助けを求めている人間が居る。俺らはその人間を救うだけだ」
何を馬鹿な、とレオは顔を背けた。自分は産まれた時から虫けらだった。そう産まれついて来させられた。生まれ落ちた瞬間から、人間である事を否定された存在だった。そんな自分の何処に人間の欠片があるって言うんだと、白けた顔で鼻で笑った。
「そのうちに分かる、お前はな。だが、この隣の奴はもうダメだな。此処まで腐ると、もうどうしようもない。此処まで堕ちる前にお前と会えてよかったぜ」
そう言ってコンラッドは、ニヤニヤと笑うと折れたレオの右手をバンバンと叩いて高笑いし、痛みに叫んだレオを振り返らず救護室を出て行った。
勝手な事を言いやがってと、激痛に喘ぎながら音を立てて閉じられた救護室のドアの方角を睨んで、レオは苦しそうに呻き続けた。
折れた右手を吊りながらも、それでも歩けるようになったレオが訓練に戻る頃には、ラットら数名の男達の姿は消えていた。
「監獄島送りさ。きっともう生きて戻って来れないだろうってさ」
残った男達がヒソヒソと首を竦めて噂をしているのを聞いた。
「よぉ、お前は監獄島送りにならずに済んでラッキーだったな」
訓練棟の廊下でムーアハウス少尉に肩を叩かれたレオは不快そうに振り返った。
「なんだ、その監獄島ってのは」
「此処の沖合にある訓練用の孤島だ。本来は上陸訓練に使うんだが、此処最近は、お前らみたいな撥ねっ返りが最後に送られる場所だ。十日間分の水と食料だけを与えられて、その間に此処デボンポートまで帰還する命令が下されるが、今迄生きて戻って来た奴は、一人しか居ない」
何処か遠い目をして語る少尉の横顔をじっと見ていたレオだったが、面白くなさそうにフンと鼻で笑った。
「随分と悪運の強い奴が居たんだな」
だが、そんなレオを横目で見て、少尉はニヤリと笑った。
「ああ、お前をボコボコにしたアデス中尉殿だ」
それを聞いてレオは小さく眉を上げたが、何も言えず黙り込んだレオの左肩を軽く叩いて、少尉は小さく息をついた。
「まぁ、お前も行けとは言わないが、中尉殿に勝ちたかったら何かを成し遂げるんだな」
「何かを?」
怪訝そうに聞き返したレオに少尉は首を竦めた。
「それはお前が自分自身で見つける物だ。せいぜい頑張るんだな」
去って行く少尉の背中を見ながら、レオは黙って唇を噛み締めていた。
――取り合えず、俺の今の目標は一つしかない。鍛えて、鍛えて、アイツを殴り倒す。
その為には、血反吐を吐く決意を固めていたレオは、髪を揺らす風が冷たくなり始めた十一月の青い空の下、地獄の訓練が待ち受けているグラウンドへ、ゆっくりと歩き始めた。