第六章 第五話
目を開けていられない閃光に目を固く閉じて、それでも瞼の裏でチカチカとする光を堪えていると、やがて訪れた静寂の中、レオは再び目を開けた。
空一面を覆い尽くしていたあの赤黒い雲は、どんよりとした少し灰色掛かった色に変わっていて、その空からキラキラとした飛礫がヒラヒラと落ちてくるのを、レオは上空を見上げたまま口を開けて、降り注ぐ飛礫を見ていた。
まるで雪のように降り注ぐ光の飛礫達が、踊るようにフワフワと漂いながら地面に転げ落ち、消える事もなく地面を嬉しそうに跳ね回っているのを、上から下へと目線を動かし、まだ事態を飲み込めずに呆然と眺めているレオの隣を、礼拝堂から出てきたクリスが、ゆっくりと通り過ぎ、全身に飛礫を浴びて嬉しそうに微笑んでいた。
「クリス様……」
その後を追う様に出てきたマリアの瞳には、感動と同時に、深い悲しみが浮かんで、胸元の小さく握り締めた拳を震わせているのを見ていたレオが、またゆっくりとクリスに視線を戻すと、クリスは穏やかに微笑んだまま静かに言った。
「世界が生まれ変わります。これからはこの院の出番です。全力を尽くしましょう」
その言葉にゆっくりと頷いたマリアも降り注ぐ飛礫の一つを手に取って、自分の手の中でユラユラと揺れている飛礫を、嬉しそうに眺めていた。
――そうか、これは全て人の魂なのか。
宿命から解き放たれた魂達が、新たな生を求めて、母なる大地に降り注いでいるのを、レオもマリアの隣に立って、感動に打ち震えながら空を見上げた。
【鍵】が解き放った魂は、自分の絆の相手を求めて、キラキラと輝きながら降り注ぎ続けていた。
きっとこの中に、自分の母親の魂もあるのだろうとレオは思った。聾唖に生まれ放浪の果てに薬に溺れ、そして自分に殺されていった母親を想ったレオは、祈りを籠めるように目を細めた。
――今度は薬に溺れるなよ。幸せになってくれ。そして、そしてもう一度俺を産んでくれ。
長い黒髪を揺らして穏やかな笑みを浮かべている母と、その母に縋り付いて明るい顔で笑っている小さな男の子の姿を思い浮かべて、レオはゆったりと笑みを浮かべた顔を空へ向けた。
ポーツマスの港に隣接する海軍指令本部の屋上で、海風に吹かれながら、南の海を見渡しているコンラッドの背中を見つけ、レオはゆっくりと歩み寄ってその隣に並ぶように立った。
「クリスがやった無茶のツケも払わずに済みそうだな」
「ああ」
クスッと笑ったコンラッドにレオも苦笑を浮かべて頷いた。
押し寄せる津波を海水毎巻き上げて空に放ったクリスだったが、上空で厚い雲となって、大量の雨を降らせる筈の雲は北へと流れ、まだ噴煙の収まらないアイスランドに降り注いでいるようで、その効果か噴火活動は収縮に向かい、巻き上げられる噴煙も、厚い雲に遮られ吸収されて、欧州北部では僅かしか観測されていないという報告が齎されたばかりで、今年の実りに不安が無い事に英国国内でも安堵の空気が流れていた。
「マリアは忙しいのか」
「ああ」
前を見たままのコンラッドの呟きにレオは短く答えた。
『発動』が終わって一週間が過ぎていた。
全世界に再び安寧が戻ってきたことで人々の活動が再開し、此処聖システィーナ地域にも大勢の子供達が産まれてくる事が想定され、その受け入れ準備のため、地域医療も担う聖システィーナ修道院はあの激戦を忘れたかのように、尼僧達は何時ものように平然とその準備に忙しく動き回り、院長であるマリアも、生まれ来る子供達への祝福の準備と、不足しがちな医薬品や出産施設の拡充のために、ロンドンと行き来しながら準備に追われている毎日で、レオも中々彼女に会う事が出来なかった。
「ローラに子供は出来たのか?」
海にクルリと背を向け、屋上のフェンスに背を預け空を見上げて笑ったレオに、コンラッドは苦笑を返して同じ様に振り返った。
「まだ一週間じゃ、分かるわけないだろ。でも直に出来るさ。毎晩可愛がってるからな」
悪びれもせず鼻で笑ったコンラッドにレオも苦笑いを返した。
「なぁ」
空を見上げたままコンラッドがポツリと呟いた。
「俺達は、無力だな」
その寂しそうな横顔をチラッと横目で見て、コンラッドが抱えている虚脱感の意味を、レオも自身で身に染みてよく分かっていた。
クリスやマリアのような『力』を持っている存在では無く、ただ腕力だけしか誇れるものが無い自分達は、あの絶望的な赤黒い雲の前で何もする事が出来なかったという思いは、きっと軍人ならば、誰でも抱いただろうとレオは思った。
「ああ」
「だが、お前は違う。お前はマリアを救った」
コンラッドはフッと笑った。
「俺は何もしてない。あれは俺達の絆が引き起こしたというだけだ」
「それでもいいさ。お前はマリアを救ってくれたんだからな」
ポンとレオの肩を叩いて歩き出したコンラッドの寂しげな背中に向かって、レオは立ち止まったまま声を掛けた。
「おい、まだ諦めるな」
振り返ったコンラッドの訝しげな瞳にレオはゆっくりと頷いた。
「これからは、俺達の出番だ。『神秘の力』を持つ奴らが協力して、人外の力に打ち勝った。だが、この先起こりうるのは、ただの人間が迷った時に起こすただの人間の力だ。その人間を守る事が出来るのも人間の力だ。俺達が持っている、俺達の力だ」
「だが、この先の世界には、協調と相互協力だけが待っているんだ。軍は、軍はまだ必要なのか?」
まだ迷いを見せているコンラッドの気持ちも、レオも分からないでも無かった。【鍵】が望んだ世界には、紛争も戦争も起こりうる可能性は見えなかった。
「さぁな。でも俺らにもやれる事はきっとある」
その言葉は、自分に言い聞かせるものでもあった。
まだ朧げに広がっている、自分の未来のその先に何があるのか、霧に霞んだその先を見つめるようにレオは目を細めて、今は青々とした光を降り注いでいる穏やかな英国の空を見上げた。
今日はニックス・ベック二等准尉と地区内のパトロールを命じられたレオは、すっかり夏めいてきた空の下、ゆっくりとポーツマスから東に向かう車窓に落ち着いた日常が戻っているのを感じながら、農作業に勤しむ住民達を遠くに見て、物憂げに黙り込んでいた。
「嫁さんのところに寄っていくか?」
マリアの事をレオの嫁と言って憚らないニックスに、思わず苦笑を洩らしたレオは言葉少なに返した。
「いえ。任務中ですので」
「そうは言っても中々会う機会が無いんだろ?」
「ええ」
レオは小さく息をついて窓に顔を向けた。
世界の復興に向けて忙しいのはレオにとってもであったが、希望に輝く人々の中にあってレオだけが物憂げなのは、『発動』以降、マリアが生き生きと輝いているからだった。あの時、己を制御してあの負の力をコントロール出来た事が、マリアの自信になっていた。
僅かの間ではあったが、自分を鍛えた事も、彼女の精神の安定に大きく寄与していて、この先マリアが自分を見失って暴走する事は無いように思え、それは即ち、自分の使命の終了を意味していて、レオには、もう自分はマリアには必要ないんじゃないかという思いが拭えなかった。
その任務が終われば、修道尼であるマリアは、また静謐な院での穏やかな暮らしに戻るのだ、そう思うと、もう自分は、マリアには会えないような気がしていた。
「惚れてる女が泥沼から抜け出せないのなら、力ずくでも引っ張り上げろ。そうやって自分の物にしちまえ」
ニックスの呟きに思わず振り向いたレオだったが、運転席で真顔のまま真っ直ぐ前を見ているニックスは、レオを振り返らずにまた独り言のように呟いた。
「俺は女房がどんな暮らしをしてたのか知ってる。だが俺は女房に惚れたんだ。強引に連れてきて何が悪い。それが惚れた女のためになるなら」
「二等准尉殿……」
レオが告げなくても、ニックスは妻の汚れた過去を知っていた。それをおくびにも出さずに、今は隣で微笑んでいる妻を大切にしているニックスに、レオがそれ以上何も言えず黙り込んでいると、
「お前のマリアは確かに世界の聖母なのかもしれんが、ただの女だ。お前に惚れてるただの女だ。いざとなったらかっさらっちまえ」
そう言ってケラケラと笑ったニックスにレオも苦笑を返して、
「……了解しました」
と、小さく呟いた。
キラキラとした陽光を返しているイギリス海峡は、レオの目にも穏やかに見えて、まだこの先の道が見えないレオを励ますように、小さく揺れて囁きかけていた。




