第六章 第四話
「次の襲撃に備えます。各所に防御の祈りを!」
一度は騒然とした尼僧達だったが、険しい顔で叫ぶクリスの檄に、自分達の使命を思い出して落ち着きを取り戻すと、守護の賛美歌を奏で始めた。
礼拝堂から湧き立った白い守護の光は、聖システィーナ地域から広く英国南部を覆い尽くし、結界外の中部にも広がり続けていた。
「クリス様」
気丈にも立ち上がったマリアが【守護者】を振り返ると、クリスは凛々しい顔付きで、ギリッと奥歯を噛んで南の方角を振り返った。
「このまま英国全土に広げよう。各国でも【守護者】達がその守護を広げている。全ての、全ての民を救うんだ」
ゆっくりと頷いたマリアがその賛美歌の輪に加わると、一層輝きを増した光が、四方に煌きの光跡を残しながら放たれていくのを、レオは緊張で浮かんだ汗を拭い、光の行く先を見届けようと素早く四方を見渡した。
この礼拝堂の壊れた天井から見える空には、もう赤黒い雲は跡形も無く消えていて、瞬く星の光さえも守護の力を帯びて真白に輝き、自分の頬を撫でて北へ南へと飛び去る光の飛礫を受け止めながら、レオは呆然と佇んでいた。
――これが、これがこの院の守護の力なのか……
圧倒的な白い光の洪水の中にあって、レオはその力の脅威に気圧されて、何も言えずにただ立ち尽くしているだけだった。
「全員持ち場を離れるな! 異常あらば直ちに報告せよ!」
出動命令を受けて、イギリス海峡に出動した英国海軍フリゲート『ブリストル』の艦橋で、一等航海士コンラッド・アデス中尉は、艦長サヴァイアー大佐指揮の下、艦内全乗組員に檄を飛ばしていた。
「アデス一等航海士、ロンドンより入電です!」
コンラッドの愛妻である一等通信士ローラ・アデス准尉も、今は兵士の険しい顔で、艦橋で前方を睨んでいる上官を振り返った。
「オープンにしろ!」
「了解しました!」
手際良くローラが盤面を操作し、艦橋内に、ロンドンの庁舎内に居る担当者の悲鳴に近い声が響き渡った。
「アイスランド火山帯にて大規模な噴火現象を確認! と同時に、アイスランドにてMw.8.0の地震を観測。津波に警戒せよ!」
「クソッ!」
慌しく通信が切れるとコンラッドは険しい顔に焦りを滲ませて、ギリギリと唇を噛んだ。
「スコットランドに知らせろ。何処まで対処できるか……」
拳で計器を叩いているコンラッドの背中に、サヴァイアー大佐は冷静に声を掛けた。
「了解しました!」
機敏に反応したローラが慌しくロンドンと交信を始めて、艦橋でコンラッドの隣に立ったサヴァイアー大佐も険しい顔のままだった。
「この空を見ろ。我々に出来る事は、微々たるものだ。ハドリーを信じるしかない」
赤黒く染まった空が、不気味な発光を繰り返しているのを見上げながら、コンラッドも祈るような気持ちで遥か南に視線を送って、握った拳に力を籠めた。
緊急の連絡を受けたクリスが慌しくやり取りしているのを横目に、レオは礼拝堂の入口近くの椅子にぐったりと座り込んでいた。
「アイスランドでまた噴火です。しかも今度は、スコットランドに津波が押し寄せるかもしれないと」
電話を終えたクリスが一層険しくなった顔を上げると、青褪めた顔のマリアは、それでもキッと顔を上げクリスに向き直った。
美しい顔には凛々しさも浮かんで、レオは其処に、ジニアと同じあの軍神アフロディーテの美貌を見出していた。
「クリス様。アーサー牧師と交信を。共に祈りを捧げてみましょう」
『どうぞ我らにお力を。北部の民を逃がすのは難しい』
マリアの声が終わらぬうちに、礼拝堂にアーサー牧師の強張った悲痛な声が響いて、頷いたクリスは暫くじっと考え込んでいたが、強く拳を握った腕に鍛えられた筋肉がメリメリと音を立てて浮かび上がると、クリスは全身を使って唸り声を上げた。
「うおおおおおおおおおおお」
クリスの体から天を突く蒼白い炎が上がり、渦を巻いたその炎が北へ向かって、ゴウゴウと鳴り響きながら天を駆けていった。
「我らも祈りを! 守護の壁を作るのです!」
マリアの声で、尼僧達の歌声も礼拝堂内を小刻みに震わせ始めるほど強くなり、ビリビリと空気を震わせながら湧き立った光の飛礫が蒼い炎を追う様に北へ走り、重く圧し掛かる空気に耐えるようにレオは体を折ってグッと腹に力を籠めた。
俺に出来る事は何も無いのかと己の無力を感じながら、自分の体を震わせている空気の振動にレオが耐えていると、天を仰いで仁王立ちしていたクリスが、力が抜けたようにがっくりと膝を落とし、荒い息を付きながら、両手を地につけて苦しそうに咳き込んだ。
「クリス! 大丈夫か!」
駈け寄ったレオに、汗を浮かべた顔で振り返ったクリスは、また何時もの穏やかな笑みを浮かべて「ええ」と言った。
「後でちょっと、沢山雨が降るかもしれませんけど」
「何をしたんだ?」
怪訝そうなレオに、クリスはクスッと小さく笑った。
「あの渦で竜巻を起こして、津波の海水を吸い上げちゃったんです。雲の上に」
レオの脳裏に、黒々とした海水を巻き上げながら、蒼い炎が渦を撒いて天高く聳え立っている光景が浮かんで、僅かな波も英国北部一帯を覆いつくす守護の白い壁に虚しく打ちつけているその景色は、きっと自分の妄想では無いんだろうとレオは安堵して小さく笑った。
「このまま守護を世界に広げましょう」
まるで朝飯前の事のように気軽に言ったクリスにレオは目を丸くしたが、マリアもゆっくりと頷いて、この修道院の清廉な空気が、地を這うように広がっていくのを振り返り、赤黒い空の下に広がる守護の壁が、北へ南へ、東へ西へと広がっていくのをレオは呆然と見ているだけしか出来なかった。
「あれからは、この院への攻撃はありません。恐らくハドリーが、【地球の意思】と対峙していて、その意識を彼だけに向けさせる事に成功しているのでしょう。きっと、きっと」
そう言って俯いたクリスには、もう終幕に何が起こるのか見えているようだった。
全てを諦めて、全てをハドリーに託すしか無いと知ったクリスは、悲しみも見える黒い瞳を閉じ、この院に科せられた使命を、世界を守る使命だけを想って大地に手を触れた。
その瞬間、真白な世界に体を投げ出されたレオは、天空に浮いて世界を俯瞰していた。
自分の矮小な魂が、そんな場所に居る事に違和感を覚えながらも、眼下の世界の光景にレオは目を向けた。
湖水の湖の畔で苦痛にのたうっている人々が見えたが、見ているだけで手を差し伸べる事の出来ない自分に歯噛みをするしか無く、世界の各所で、人々が不安に震えながらただ祈りを捧げているのも見えた。
火山の噴火から必死に人々が逃げ惑っているのも見えたが、彼らが無事に逃げおおせてくれるのを祈るしか無く、その自分の下を、白い守護の光が全土から、ただ一点を目指して飛び交っているのを見ながら、レオはその一点に目を向けた。
赤々と輝く大きな一枚岩の上で、赤黒い邪気を伴った靄と蒼白い炎が正対しているのが見え、レオが眼を見開いてその姿を捉えようとした瞬間、レオの身体は、またあの礼拝堂の中にもんどりうって投げ出された。
「オージーの結界が消えた! ハドリーを、ハドリーを守るぞ!」
少し赤らんだ頬でクリスが叫び、礼拝堂に籠った守護の白い光が、闇を照らす閃光となって南へ走った。
何が起こるのかとレオが打ち付けた背中の痛みを堪えて礼拝堂の外へにじり出ると、上空の雲が不気味な唸りを上げて広がり始め、溶岩を思わせる赤い閃光を放ちながら一時は薄くなった赤い空気も色を濃くし、上空から赤い靄が地上に降り注ぎ始めるのを、呆然と見上げていたレオだったが、南の空から一筋の白い閃光が走って、瞬く間に世界は白い守護の光で覆われていった。




