第六章 第三話
相変らず外には赤黒い空気が立ち籠めていたが、まだそれ以上の異変は起こらず、少し精気を取り戻した尼僧達も用意されたお茶でひと息をついている中、レオも受け取ったカップのお茶をゆったりと味わうように口に含み、最近ようやく俺もお茶の旨さが分かってきたなと、のんびりとした気持ちも浮かんできて、慌てて気を引き締め直して顔を左右に振り、ゆっくりと礼拝堂内を見渡した。
時刻は午前三時になろうとしていて、正午まではまだ間があるなとチラリと見た腕時計から目を上げると、祭壇で一人祈りを捧げていたマリアがゆっくりと立ち上がるところだった。
「マリア、お前も……」
休めと言おうとしたレオの眼前で、マリアはそのまま物も言わず壇上に崩れ落ちた。
お茶のカップを投げ捨てたレオが、立ち上がって駈け寄るのと、周りの尼僧が顔を強張らせてマリアを支えるのと同時に、クリスが険しい顔で椅子を蹴立てて立ち上がって叫んだ。
「クソッ! 正午とは現地時間の事だったのか。オージーが正午になったんだ。【核】が、ニナが逆行を終えた! 【地球の意思】が甦ったぞ!」
途端に、ゴウゴウと音を立てる強風が礼拝堂を取り囲んで、巻き上がった石礫が、頭上のステンドグラスを粉々に破壊して尼僧達に一斉に降り注いだ。
礼拝堂に尼僧達の悲鳴が響き渡ったが、クリスが咄嗟に張り巡らした結界が蒼白い炎を放って、降り注ぐガラスの破片をサラサラとした粉状に変えて尼僧達を守ると、レオは、倒れたままピクリとも動かないマリアを抱き上げて、固く瞼を閉じたまま真っ青な顔で、ぐったりとしているマリアに必死に呼び掛けた。
「マリア! マリア!」
脈拍も呼吸も感じない体から、熱が逃げるように冷たさを増していき、悔しそうに歯噛みをしたレオは、何度もマリアの頬を叩いて呼び掛けたが、闇に連れ去れようとしている彼女を、呼び戻す事は出来なかった。
次第にマリアの身体から、あの黒々とした靄のようなものが湧きオ立つのを見て、レオは横たえた彼女の身体に覆いかぶさって、
「クリス! 俺達だけを囲め! 出来るだけ俺達から離れろ!」
と叫ぶと、冷たいマリアの唇に口付けて、彼女の思念の奥深くに入り込もうとした。
自分の周りに蒼白い炎の壁が出来るのを感じたレオは、そのままマリアの魂の奥深くに引き込まれていった。
『随分と、生意気な真似をしてくれていたようだな』
ずっと『あの方』と呼んでいた名など持たない天上の存在からの尊大な声が四方から響く中、マリアは赤い靄に覆われた世界に引き摺り込まれていた。
『愚かな反逆を仕掛けた猿に加担するなどとは、我が与えし本分を忘れたか』
「人は、人は絆を結び、より魂を高みへと昇らせていく事の出来る存在なのです。その崇高な望みを叶えずして、どうして我ら修道尼が存在出来ましょう!」
必死に叫ぶマリアの声にも、『声』は耳障りな金属音でケラケラと笑った。
『所詮、猿は猿だ。我の高みに及ぶ事など有り得ぬ。愚かな高望みなど捨てる事だな』
「いいえ! いいえ! 決して、高望みなどでは有りません。絆は確かに存在するのです。私にも、私にも絆は存在するのです。その絆を守りたいと願う事がどうして止められるでしょうか。私は絆を守りたいのです。この先もずっと、ずっと、あの方と」
『笑止。最早お前達は、我の忠実な僕では無いようだな。お前達を八つ裂きにしてくれる前に、之までの功労に褒美をやろう』
グツグツと煮え滾るような不快な含み笑いと共に『声』は怯えて四方を見渡すマリアに無情な宣告を下した。
『察するにお前はまだあの快感を知らぬようだな。死ぬ前に一度は体験してみるがいい。絶頂というものは、中々に気持ちのいいものだぞ?』
甲高い声で笑い転げる声と共に、赤い靄から湧き立った影が人形に変わると、屈強な筋肉を持った男達が、赤く燃える瞳でマリアを取り囲んで、彼女が纏った修道服を容易く引き裂き、捉えた彼女に圧し掛かろうと赤い靄に押し倒した。
「やめて! 触らないで! 何もしないで!」
必死に叫んでみたところで男達が改悛する筈も無く、大きな手に青白い色を晒した胸を鷲掴みにされ、無数の手に嬲られながら叫ぶマリアの絶叫は虚しく赤い靄に吸い込まれて、大きく足を開かれた向こうに、焼けた鉄をそそり立たせたような男の赤い一物が迫ると、絶望に眼を開いたマリアが悲嘆の絶叫を上げた時、赤い靄を割いて黒い影が飛び込んで来て、目の前の男の身体が吹き飛んだ。
「マリア!」
マリアを取り囲んでいた男達を、一撃で薙ぎ倒したレオが、縋り付いてきた白い腕を掴んで引き上げると、マリアは白い裸身を躍らせてレオにしがみ付いた。
此処は、マリアの心象風景の中だとレオには分かってはいたが、マリアを押え込んでいた男を殴った時には、確かに感触もあった。
だが、普通ならその一撃で大概の奴は立ち上がれない筈が、全くダメージを受けていない様子でムクリと立ち上がった男達の周りに、また新たに靄から湧き立った幾つもの影が揺らめき、次々と人形を作って立ち竦むレオとマリアを取り囲んだ。
「クソッ!」
片手にマリアをしっかりと抱き締め、グツグツと煮え滾るような音を発しながら近づいてくる集団に、レオは鋭く四方に視線を走らせて顔を強張らせた。
「マリア」
救いの手が差し伸べられた事で、青褪めた顔ながらも呼び掛けに答えて顔を向けたマリアに、レオは諭すように声を掛けた。
「コイツらは人間じゃあない。『あの方』とやらが仕向けた人外だ。マリア、思念を制御してコイツらにあの力をぶつけられるか?」
それが、効力があるのか分からなかったが、事態を打開するにはそれしかないとレオは思った。
「ええ、やってみます」
冷静に頷いたマリアをレオは守るようにしっかりと抱き止めた。
スウッと少し息を吸ったマリアは、その息をゆっくりと吐き出しながら瞳に力を籠めた。
レオとマリアを避けるように湧き立った黒い靄が、地を這う赤い靄を覆い尽くし、男達の足元から纏わり付くように駆け上がって、全身を黒い靄で覆われた男達は苦しみにもがきながら呻き始めて、やがて、グズグズと崩れた体は赤い霧となって霧散していった。
『薄汚い猿めが!』
マリアを両手で抱き抱えながら、レオはその声の主に向かって、全身で怒りを表して天上を見上げて吼えた。
「何とでも言え! お前のような下衆に、マリアには指一本触らせない。俺達の絆は、俺達だけじゃない、多くの人の悲しみや苦しみの上にある。だからこそ、俺はその絆を守る。お前みたいなクズに、消させてたまるか!」
足元に再び湧き立ち始めた赤い靄に向かって、渾身の力で右拳を叩き込んだレオは、その拳から放たれた真っ白な光に全身を包まれ、自分の身体がフワリと宙に浮く感覚を覚えて、左腕に抱きかかえたマリアの存在を感じながら、囚われの檻の中からの脱出を試みた。
「バーグマン尼僧! ザイア曹長!」
真っ先に聞こえてきたクリスの声に目を開けたレオの眼前には、心配そうに覗き込んでいるクリスの強張った顔と、頭上の赤い雲が蒼白い炎から透けて、薄っすらと見えている壊れた天井が見えて、ガバッと起き直ったレオは隣のマリアを振り返った。
「マリア!」
その声にハッと目覚めたマリアは、スウッと大きく息を吸い込み、体を横にして苦しそうに激しく咳き込んだ。
「マクニール尼僧、バーグマン尼僧に薬を!」
マクニール尼僧は手にした薬を、マリアを抱き抱えるようにして飲ませ、やがて落ち着いた呼吸に変わったマリアは、礼拝堂の床に横たわったまま、まだ潤んでいる瞳をレオに向けた。
「私を、助けに来て下さったのですね」
「ああ。俺はお前を助けるためには何処へでも行く。約束したろ?」
フッと笑ったレオに、マリアは疲れ切った顔ながらも口元に笑みを浮かべて、嬉しそうに小さく頷いた。
「戦いはまだ始まったばかりです。我ら人類の全ての英知を掛けて、聖システィーナが世界を守るんです」
二人の無事を見届けたクリスがユラリと立ち上がると、一層燃え立った青白い炎が揺らめいて、レオは眩しそうに、毅然とした若い【守護者】を見上げた。




