第五章 第三話
約束の時間に、体育内で所在無げに佇んでいた二人の背後から、ドアの開く音と共に、軍靴の固い靴音を響かせながら近づいてくる気配にレオは振り返ったが、その瞬間、凍りついたように固まったまま動けなくなった。
腰まである長いストレートの金髪を靡かせ、マリアと同じ軍用のTシャツとズボンといういでたちで、真っ直ぐ前を見たまま歩いてくる女性は、二人の近くまで来ると立ち止まって、赤い唇に妖艶な笑みを浮かべてゆったりと笑った。
「お久しぶりです、バーグマン尼僧様。そして、貴方もお久しぶりなのだけど、覚えていらっしゃるかしら」
華奢な体つきながら、しなやかな筋肉を纏わり付かせて、嫣然と微笑みながら仁王立ちしているその姿は、あの夏の日、ハルトン村の橋の袂で見た時と寸分の違いも無く、レオは自分がまたあの日に放り出されたのかと一瞬錯覚した。
「あ、ああ」
余りにも動じていないジニア・ニールセンの様子に、自分がまず何をすべきなのか我を忘れたレオだったが、ハッと気付くとガバッと床に両手を突いて蹲った。
「申し訳――」
「あら、もういいのよ。サミュエルから、貴方が詫びていたともう聞いたわ」
言い掛けたレオを遮って、可笑しそうにクスッと笑ったジニアは、目の前に居る嘗て自分を殺そうとした男を、薄っすらと目を細めて見て、不思議と嬉しそうに口元に笑みを浮かべていた。
今の自分が所属をしているこのSASの、嘗ては部隊長であったジェラルド・スティーブンソン中佐の一人娘であるジニアは、湖水に隠遁してから、結界外へ出るのは初めてなのだと言う。
「今回、夫が足の治療のために国立中央病院に一週間入院する事になったので、その付き添いを兼ねて、私も一緒に来たのよ。尤も、『この忙しい時期に』ってケビックはおかんむりだったけど」
小さく笑ったジニアは二人の顔を繁々と眺めてから真顔になった。
「新生SASの訓練マニュアルは受け取ったわ。机上での講義内容は随分と変わったようだけど、基礎訓練の実戦そのものには変化は無いようなので、目標は、一週間でステージ1のブロック3まで。ザイア曹長、サポートして頂戴」
軍に在籍した事も無い筈の、この女性から漂う圧倒的な威圧感に、レオは気圧されて「了解しました」と敬礼を返していた。
ジニアの訓練は、基礎中の基礎の体力訓練と、瞬発力や判断能力を高めるものを中心に行われ、それも集中して一時間半ぶっ続けで続き、レオはマリアの体が持たないと心配したが、その一時間半が経過するとジニアは訓練を止めた。
「今日はここまでよ」
午前の空手の訓練に比べれば、まだ立っていられるだけマシかと、多少息は荒いが、へたり込む事の無いマリアの様子にレオは小さく安堵した。
「残り三十分は、クールダウンの時間よ。尼僧、此処に横になって頂けるかしら」
床に無造作に置かれていたマットを指差したジニアに、マリアは困惑した顔でマットとジニアの顔を見比べて「え」と小さく呟いた。
「いえ、そのような事までお手を煩わせては……」
「早く。私も四時には此処を出て病院に戻らないといけないの」
全く疲れを見せず、靡いた金髪にも汗すら浮かんでいないジニアは、マリアを急かしてにっこりと微笑んだ。
まだ戸惑っているマリアの下肢をゆっくりとマッサージしながら、ジニアはチラリとレオに視線を向けた。
「クールダウンが重要なのは知ってるわね? ザイア曹長」
「ええ。疲れを翌日に持ち越さないために」
「その通りよ。これも訓練の一環なの。どれ程の激務だったとしても、翌日にはまた同じ様に動かなければならない。疲れを溜めない手段を会得するのも重要な事柄の一つよ」
マリアは、靴を脱ぎマットにうつ伏せたまま、傷みを堪えて眉を顰めていて、レオは内心でハラハラとしながら、美しい二人の女を見下ろしていた。
「それにこの訓練には、もう一つの意味があるの」
ジニアは表情を変えないままで、マリアのズボンを太腿の半分位まで突然グッとたくし上げた。
反射的に体をビクッとさせたマリアを窺って目を細めたジニアは、マリアに変化が無いのを確認すると、今度は直に脚のマッサージを始めた。
普段は、足元まで隠れる長い修道服に覆われているマリアの脚は、色が抜けたように真っ白に輝き、すらりと伸びた足先をほんのりとピンクに染め、初めて目の当たりにしたレオが、ドギマギと視線を逸らすとジニアはすかさず振り向きもせず冷静な声で言った。
「尼僧は、これまでは修道院内で男性との接触も無く来られたわ。少しずつ、男性との接触に慣れて頂く事も必要なの。自身に危険が及ぶ事態以外には動揺をしないようにね。だからザイア曹長、目を逸らさないで頂けるかしら」
この女は後ろに目でも付いているのか、と呆れたレオだったが、顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにしているマリアを見るのは忍びなく、それでもそれがマリアのためになると言われれば、そうするしかないかと、またマリアの白い脚に目を戻した。
「尼僧にも慣れて頂かないとね。他の男性の目ではお恥ずかしいでしょうけど、彼なら尼僧もご安心なんじゃないかしら」
フフッと笑みを浮かべたジニアの言葉に、マリアは一層顔を赤くして俯いたが、マリアが怯える劣情に近い感情は抱かないように、自分を厳しく律してきたレオも、自分は、あの白く輝く脚に口付け出来る日が来るんだろうかと、浮かびかけた想いを振り切るように首を振った。
マッサージの時間が終わるとジニアは疲れも見せず、また金髪を翻して颯爽と帰って行った。
まだ少し足にだるさが残っている様子のマリアだったが、初日の厳しい訓練にも関わらず、辛そうにだがゆっくりと立ち上がって、レオに向かってぎこちない笑みで微笑んだ。
「着替えて参ります故、お車でお待ち頂けますでしょうか」
「大丈夫か? マリア」
「ええ。暫しお待ちを」
少し足を引き摺りながら、更衣室へと向かうマリアの後姿が痛々しくて、何処までも彼女に圧し掛かる咎の重さを振り払うように、蒸し暑さを増してきた初夏の空気をレオは掻き混ぜた。




