第一章 第四話
それでも、此処を脱走する事をレオは諦めた訳では無かった。
再び地に貶められ、今はまた泥水を煤って生きていると思った。その状況から抜け出したい、もし此処から逃げられれば、また自分は虫けらから人間に戻れるんだと、毎日そればかり考えていた。
しかし捕まればまたあの懲罰室行きで、事は慎重に進めなければならなかった。一見軟弱にも見える此処の兵士達は、その外見から想像も出来ない屈強な男であるのはもう身に染みて分かっていた。建物も簡素で、この時代ではロクな警備も敷かれてはいないだろうと読んでいたレオだったが、軍に守られたこの地域は、暴動による破壊も無く、システムは正常に稼動しているのだと悟ってからは、その穴を突いて逃げ出すのは難しい事も知った。
だが何処かに必ずチャンスはあると、餓えた狼のような黒い瞳のギラギラした光を隠して、レオは静かにチャンスを伺っていた。
そのチャンスはある日突然舞い降りた。
何時も通りの、ぶっ倒れるまでは終わらない地獄の訓練の最中、あのフリゲートで見掛けた茶髪の若い士官が、見学にでも来たのだろうか、気軽な様子で訓練校のグラウンドに姿を現して、「ご苦労。ムーアハウス少尉」と、出迎えて敬礼をしたムーアハウス少尉に、敬礼を返していた。
「どうだ。やんちゃな仔犬達は? 少しはまともになったか?」
「は。まだまだですな。現在鋭意訓練中であります。アデス中尉殿」
明らかに自分よりも年下だと思える上官に丁寧に答える少尉に、若い士官はケラケラと笑った。
「こいつらも運がねぇな。まさか少尉殿に当たるとはな。手加減してやってもいいぞ?」
「ご冗談を、中尉殿。このデボンポート海軍訓練校には手加減などという言葉が無い事はご存知でしょう」
「ああ。俺の骨身にも染みてるよ、少尉殿」
二人の士官は軽口を叩きながら、小さく笑っていた。
あの甲板で見た時から、この男はどうせエリートのお坊ちゃまで、親のコネか何か知らないが、汚れた権力で不似合いな階級についているのだろうと睨んでいた。細身の体に軟弱そうな笑みを浮かべたこの男なら御しやすいとレオは目を光らせた。
今日も規定のノルマを一番に済ませて、もう既に水を受け取って座り込んでいたレオの元に、コンラッドがニヤニヤ笑いながら近づいて来るのを、レオは内心を気取られないよう目を逸らして、興味がなさそうに水を飲んでいた。
「よぉ。久しぶりだな。へぇ、もう走り終わってんのか」
立ったままレオを見下すコンラッドに、チラリと一瞥を投げただけで、レオはそっぽを向いた。
「どうだ? 少しは改心したか?」
コンラッドが上半身を少し屈めてレオを覗き込んだ時に、背後のホルダーに銃が揺れているのが見えると、レオは全身をバネにしてコンラッドに飛び掛った。呆気なく押し倒されたコンラッドに、
――思った通りだ。こいつは木偶だな。
と、内心でほくそえんだレオであったが、銃を奪い取ろうとした手が何者かに押えられ、捻り上げられた右手がメキメキと鈍い音を立てて激痛と共に折られ、胃を押し潰されるような腹にめり込んだ拳に、レオは飲んだ水を全て吐き出した。
「改心してないようだな、残念ながら」
体を折り曲げて吐いているレオの黒髪を掴んで引き摺り起こしたコンラッドは、緑の瞳を冷たく光らせ、困惑した顔を浮かべているレオをサンドバックのように殴り続けた。
拳が腹にめり込む度に息が詰まり、赤く腫れ上がった顔面が視界を塞ぎ、口の中に広がる血の味に、此処までボコボコにされるのは初めてだなと、レオは妙な感慨を浮かべながら殴られ続けていた。
もう自力では立っている事も出来ないレオを、片手で易々と持ち上げて、腫れ上がった瞼で細い視界から僅かに瞳を細めて見ているレオに、コンラッドは冷たく言った。
「これで最後だ。訓練番号百二十三番。救護室行きを命じる」
顎に入った右アッパーで、レオの意識は完全に吹き飛んだ。
「中尉殿。大丈夫でしたか」
事態を見守っていたムーアウス少尉が、険しい顔でコンラッドに声を掛けたが、体を解すようにグルグルと首を肩を回した後、殴り続けていた右手を軽く振っただけでコンラッドはニヤリと笑った。
「あー、大した事ない。久々に運動したな。コイツに水を掛けろ。で、少尉殿、済まないがコイツの右手を折っちまったから、懲罰は何か他を考えてくれ」
「了解しました、アデス中尉殿」
敬礼を返した少尉の隣で、コンラッドは、自分の足元でぐったりとしているレオを静かに見下ろしていた。
救護室で全身の痛みに言葉を発する事も出来ずに、レオは痛みの合間に訪れる僅かな瞬間に事態を思い返していた。
――俺は虫けらな上に、あんな若造にも敵わないのか。
自分が踊ってきた世界は、ちっぽけな掌の上だったのだと思い知らされて、レオは口の中に広がる苦い血の味に小さく顔を歪めた。
――俺の何処に生きている価値がある。俺を生かし続けてなんの意味がある。
あの時、海で溺れて死んだほうがマシだったとレオは思った。
自分達は、あの結界の管理者の手によって、海まで弾き出されたと後で知った。自分達を殺すつもりだったんだろうが、運良く通り掛かったフリゲートに助けられてしまっただけで、本当は、自分はあそこで死ぬ運命だったのだ、とレオは振り返った。
あの清らかな魂の、挑戦的な瞳で見返していた金髪の美女をレオは思い出した。
――あの女は俺を殺したかったんだ。だから俺達を殺すつもりで海まで弾いた。ならばいっそ、本当に殺してくれればよかったのに。
レオは小さく歯噛みをした。
「済みません。怪我人の手当てをお願いします」
想いを巡らせていたレオの耳に、救護室のドアの開く音と若い女の声が聞こえて、レオはまだぼんやりとした意識の中で耳を欹てた。
「おや、メラーズ准尉。久しぶりだね」
「軍医殿、お久しぶりです」
靴音を合わせて敬礼を返したらしい女もどうやら軍人のようで、まだ腫れ上がって視界の狭い視線を、声がした方向にレオは投げた。
赤毛の軍服の女が、右手で敬礼を返しながら、左手にはぐったりとして頭を垂れている、見た事ある茶髪の男の首元を軽々と掴んで軍医に差し出していた。
「どうしたんだ?」
「ムーアハウス少尉殿から懲罰室の監督を命じられまして、監督を行おうと向かったのですが、この訓練生が抵抗し、こちらに反撃を仕掛けて来ましたので、やむなく現場にて制圧致しました」
淡々と報告している女だったが、ラットの顔は自分と同じように腫れ上がり、切れた口元から血を流して、一見すると死んでいるのではないかと思えたが、受け取った軍医は苦笑して女を見て笑った。
「全く、君といい中尉殿といい。君達夫婦は手加減ってものを知らないのか」
「軍医殿! 自分達はまだ夫婦ではありません!」
顔を赤くして抗議する女に、軍医はケラケラと笑った。
「君達がポーツマスで、もう新婚みたいに一緒に暮らしてると報告が入ってるぞ。今日はご両親に会いに来たんだろ? 来年の結婚式の打ち合わせか?」
「軍医殿! 冷やかさないで下さい」
困り顔の女から受け取ったラットを、軍医は無造作にレオの隣のベッドに放り投げた。近づいてくる人影にレオは目を閉じて眠っている振りをしたが、声だけは耳に入ってきた。
「で、ご両親はどうするんだ? ローラ」
それまでの明るい口調とは一転して、軍医の声は心配げだった。
「それが……一緒にポーツマスに行かないかと誘ったんですが」
「まぁ、慣れ親しんだデボンポートを離れるのは不安なんだろう。耳のご不自由なお二人が、全く知らない土地で暮らす事になるんだからな」
「はい。幸い、此処の宿舎では皆長いお付き合いをさせて頂いて、ムーアハウス少尉殿の奥様や、軍医殿の奥様にも良くして頂いて、とても感謝しております」
「いやいや、そんなに堅苦しくならなくていいぞ、ローラ」
軍医は小さく笑うと、ベッドにラットを放ったらかしにしたままカーテンを閉め、声は少し遠のいた。
「でも、まず自分の幸せを一番に考えろ。ようやく生涯を共に出来る相手が見付かったんだ。その幸せを逃がすなよ、ローラ」
それに対する女の声は小さく聞き取れなかった。
「馬鹿だな。確かにお前は、最初はどうしようも無かった。今此処で転がっている男達と似たようなモンだったな。ドラッグに溺れてスラムで暴れて、手が付けられなかった。だがお前は、自分を取り戻した。本当の自分を取り戻したんだ。お前が幸せに生きる事が、何よりもお前の両親に対する贖罪であり、親孝行だ」
軍医の静かな言葉に女は少し泣いているようだった。
「しかし、手加減は覚えろよ。隣に居たボロボロの奴、あれはお前の愛するアデス中尉殿の仕業だ。やっぱり似た者夫婦だな」
閉じられたカーテンの向こう側で明るい笑い声が響いているのを、レオは考え込みながら、じっと聞いていた。




