第五章 第二話
その夜、大学併設の寄宿舎をそのまま使った単身者用の宿舎で、簡素な家具だけしかない殺風景な部屋でベッドに転がったレオは、落ちていく感覚に身を委ねていた。
またこの夢かと自分が夢を見てる事を自覚しながらレオは思った。何時からだったろうか、最近ずっと同じ夢ばかり見ていると、レオは真っ白な霧に包まれたジメジメとした黴臭い空間を眺め渡して、きっとまた同じ展開になるんだろうと物憂げに正面に目を戻した。
目の前には男が一人立っていた。高価そうなスーツを着て、短く刈り込まれた金髪は育ちの良さを感じさせて、羽振りが良さそうに見えたが、今は泥に塗れ、赤茶けた染みがこびり付いたスーツは、元の色が判らないほどに汚れ切っていて、レオもそいつのスーツの色が何色だったのか覚えていなかった。
所々に乾いた血痕をこびり付かせた金髪もぐしゃぐしゃに乱れ、赤黒い痣をつけた顔は腫れ上がり、男は何時も何か言いたげに口を薄く開けているが何も言おうとはしなかった。
「お前、俺に何が言いたいんだ」
レオはこの男を知っていた。自分が十五歳の時に僅かな金欲しさに殴り殺した、ビジネスマン風の奴だった。少し酔っていたのか、スラムにほど近い通りに迷い込んで来た男を目聡く見付けたレオが、裏通りに引きずり込んで、土下座をして命乞いする男をヘラヘラと笑いながら殺した男だった。金目の物を全て奪いつくし、それでも写真の入ったパスだけは奪われまいと必死に抵抗していた男だった。育ちの良さそうな美しい女性と、まだ小さな赤ん坊の写真が入ったパスを守るためだけに死んでいった男だった。
「そろそろ話してくれよ」
腫れ上がった瞼の奥の、物言わない男の視線がレオは怖かった。罵倒されたほうがマシだとレオは思った。物憂げにレオを見ている男から感じるのは、何時も同じ感情だった。
『何故お前が生きてるんだ』
刃の切っ先を、喉元に突きつけられているような冷ややかな風を感じて、もう一度、その男に歩み寄ろうとするところで目が覚めるのも、何時もと同じだった。
ガバッと起き直ったレオは、ドクンと音を立てる鼓動に乾いた息を吸い込み、やがて大きくため息をついた。
まだ寝付いてからそれほど時間は経ってはいないのだが、この後眠れなくなるのも何時もの事だった。
――俺はまだ誰にも許されていないんだ。
結界に受け入れられて生き永らえ、生涯守ると誓った絆の相手を手にした自分を、決して許す事の出来ない人間が居て、自分はその負った咎を一生拭い去る事は出来ないんだと、まだ薄闇に包まれたポーツマスの街に僅かに灯った明かりを見下ろして、脆く崩れ落ちそうな自分の足元を感じて背筋から這い上がる悪寒を、レオはただ黙って受け止めていた。
翌日から、レオの新しい任務が始まった。心身の不調をマリアに悟られないように普段通りに接しているレオは、軍用車でマリアをW校に送った後、車で待機しようとしたらベルに呼び止められた。
「折角だから貴方もやってみたら?」
「お、自分もですか?」
ニコニコと微笑みながら準備してあったのだろう男物の胴着一式を投げて寄越したベルは、
「そうは言っても、軍で訓練は受けておられるんでしょうけど」
と穏やかな笑みを崩さずに笑った。
着慣れない胴着に悪戦苦闘したレオが何とか体裁を整えて道場に戻ると、一面敷き詰められた畳の上に、ちょこんと正座をして緊張した様子で座っているマリアを見てポカーンと口を開けた。
空手の稽古なんだから胴着に着替えるのは当たり前の事なのだが、マリアが修道服以外の服を着ているのを見た事がなかったレオは、ほっそりとした体に真っ白な胴着を纏い、少し恥ずかしそうに顔を赤らめているマリアを繁々と眺めながら、少し離れた位置に胡坐を掻いて座り込んだ。
「ザイア曹長、最初は正座よ」
そのレオを一瞥したベルが鋭い声を投げ掛けると、慌ててレオは居住まいを正して、見よう見真似で畳の上に正座し直した。
「それでは始めます。宜しくお願い致します」
きっちりと礼をしたベルに習い同じ様に丁寧に頭を下げた二人は、慣れない風習に戸惑うばかりで困惑の色が表情から消えなかった。
時刻が正午近くになって、ベルが気付いて手を上げ「今日はここまで」と制した時には、きっちりと結わえてあった茶色の髪は所々解れて、汗の浮かんだ顔で、少し口を開けてマリアは辛そうに息を繰り返していた。
余りにも疲れ切っているその様子にレオは心配になったが、自分も足の震える感覚をようやく堪えている状態で、初日からこれじゃ飛ばし過ぎじゃねぇかと乱れた息を整えようと大きく息をついた。
最初と同じように、キチンと正座をして向き直って礼をすると、立ち上がったベルは、同じように動いていた筈なのに息も切らさずにっこりと微笑んだ。
「午後はSASの基礎訓練を行う予定よ。昼食を取ったら、南側に体育館があったでしょう? あそこへ十四時に来て頂戴」
「って、Ms.オルムステッドがSASの基礎訓練も?」
ようやく足を投げ出して,胴着の胸元を緩めたレオが怪訝そうに訊ねると、ベルは小さく首を振ってにこやかに笑った。
「私じゃ無理よ。適任者が居るの。午後には此処に来るわ」
「適任者?」
「ええ。逢えば分かるわ」
その瞬間、複雑な表情を見せたベルにレオは戸惑う眉を寄せたが、それよりも、礼が終わるとヘナヘナとその場に足を崩して座り込み、動けなくなっているマリアの方が気がかりで、立ち上がってベルに頭を下げると、道場の中央でへたり込んでいるマリアの元へレオは駈け寄った。
レオの分まで用意して持ってきたサンドイッチにも手を伸ばさず、マリアは疲れた様子で屋外のベンチに座ったきり、動こうとはしなかった。
今は胴着を脱いで、軍が用意した女性用のTシャツと軍用ズボン、軍用靴という女性兵士と同様の服装に変わったマリアの、すらりと伸びた白い腕が、陽光を返して煌いているのを眩しそうに見たレオだったが、眉を寄せて辛そうな顔をしている事のほうが気になって、隣に腰を下ろすと心配そうにマリアの顔を覗き込んだ。
「マリア、大丈夫か?」
レオがポットの冷たいお茶をカップに入れてマリアに手渡すと、「ありがとうございます」と、疲れていても丁寧に礼を言って受け取ったマリアは一口飲んでフゥとため息をついた。
「しかしまぁ、オルムステッド教授も手加減してくれてもいいのに。マリアは尼僧だぞ?」
「私が期限を切ったのですから、仕方の無い事なのです。『発動』が間もなくで、誰もが多忙な中、ご指導を賜っているのですから」
確かに、近くなった『発動』の日を考えると、のんびりとしてはいられないのは事実だったが、たった一週間で全てを詰め込むのにも程がある、とレオは呆れながら首を振った。
「攻撃よりも防御、そしてより俊敏性を高める訓練とは聞いたが、俺でも脚に来てるんだ。マリア、無理しなくていいんだぞ?」
心配そうに顔を覗き込んだレオに、マリアは疲れた表情ながらも小さく笑みを浮かべた。
「これは私自身のためなのです。私は、二度と他の誰も傷つけてはならないのです。私の手によって死に至らしめられた方々の苦しみに比べたら、如何ほどのものでしょうか。それでも私の罪は決して贖えないのです」
美しい眉を寄せてポツリと呟いたマリアの言葉が、レオに激しく突き刺さった。
幼くて、何も知らないままに自分の力を使ってしまったマリアが負った咎に比べれば、無碍に、そして無慈悲に他人を惨殺してきた自分の負った咎の大きさに、レオは圧し掛かる空気の重さに耐えるように息を飲んだ。
それからの二人は、手の中のカップが次第に温くなっていくのを感じながら、押し黙ったまま俯いた顔で、夏めいてきた日差しの中、風に揺れる木の葉の影を、ただ見つめているだけだった。




