第三章 第六話
「何アイコンタクトしてんだよ、お前ら。殺すぞ」
苛立ちの篭った声をラットが投げ付けてきて、レオは今の状況をハッと思い出した。
――この人を、マリアの祖父を死なせちゃいけない。
その二人が生きて無事な事を、そして苦難の道を歩いてきたが、今は其々安息の場所を得て、安寧に暮らしている事を伝えなければならないと、レオは唇を噛んだ。
部隊は広大な地域に散らばっていて、例えスペクター一等准尉が異変に気付いていたとしても、十分な応戦体勢を整えるには余りにも時間が無かった。
術を模索して苦悩していたレオだったが、廊下に投げ捨てられた小銃に気付いて視線を送り、その銃をじっと見て何かを思い付いたのか、黒い瞳に光を浮かべて、ゆっくりと前を向き直った。
「じゃあ、俺の尻を貸してやるよ。鍛えてあるからな。そこらの女よりよく締まるぜ」
レオは突然、ラットに向かってニヤリと笑い掛けて一歩前へ出た。
「って、俺が指示するまで動くな!」
焦ったラットが銃を構え直すのにも構わずに、レオはゆっくりと一歩一歩近づいて行った。
「どうしたんだ? 溜まってんだろ?」
じりじりと近づいて行くレオに、ラットは体を引いて下がろうとしたが、構えた銃の引き金に指を掛けて、顔を強張らせて叫んだ。
「近づくなって言ってんだろが! この爺を殺すぞ?」
咄嗟に銃を老人に向けたラットにも動じず、レオは一歩また一歩と近づいて自分のリーチの射程距離内に入り、ラットはレオの胸に銃身をピタリと当てて、怯えた声で叫んで引き金を引いた。
「死にやがれ、クソが!」
だが、その銃身から、弾は出なかった。
カチッと金属音が鳴るだけの銃に焦ったラットが、何度も引き金を引き直したが弾が出る事は無く、怯えた顔を上げたその眼前には、銃身を左手で押え込んだレオの顔が迫っていた。
「死ぬのはお前だ」
唸りを上げた右手に弾き飛ばされたラットは、その一撃で左頬を変形させてもう意識を失っていた。
崩れ落ちたラットをうつ伏せにして、手早く銃器や刃物の有無を確認して全て没収すると拘束用の手錠を掛けてレオは立ち上がり、切れた口元から血の混じった涎を垂らしているラットを、無造作に蹴飛ばした。
「昔なら問答無用で殺したんだがな、ラッキーだったな」
そして、廊下で腰を抜かして座り込んでいたパーシバル・アデス老人に手を差し伸べると、レオは立ち上がった老人に、ゆっくりと手に喜びを込めて伝えた。
『お前の言葉は間違いなく伝えてやる。いや、お前が自分で自分の孫に伝えたほうがいいだろう。俺はコンラッド・アデスとマリアを知っている』
笑みを浮かべたレオの顔を、パーシバルはあんぐりと口を開けてただ見入っていた。
「なるほど。銃の違いか」
司令官用テントでレオの報告を聞いたバート・ミルズ中尉は口に手を当てて頷いた。
「はっ。奴がそれまで所持していた小銃は、陸軍歩兵部隊用でありL八十五系統でしたが、本部隊の銃はM十六系統の、本部隊専用の特別製であり、撃鉄の特殊な操作方法を奴が熟知していないものと推察したからであります」
このSASで使用している特殊銃は、相手に奪われても安易には操作出来ないように特別な仕掛けが施してあるものが殆どだった。覚えるのには苦労したが、その知識が役に立った事にレオは内心で安堵していた。
「そうか、なるほどな。尚、ライアン・ローチは現在判明しているだけでも十名に及ぶ殺人により、銃殺刑に処する事が軍法会議にて決定した。任務ご苦労であった」
「了解しました」
敬礼を返しながらも、レオの心には殺伐した風が吹いていた。
あの懲罰室で、何も感じ取れなかったラットの行く末は決まっていたとは思ったが、ではもう今後はあんな人間が生まれて来ないと果たして言えるんだろうかとレオは不安だった。
奴のような人間は崩壊を起こした世界の過去の負の遺産であり、【鍵】が望む新しい世界では、穏やかで人を労る世界が作られると誰もが疑いを持っていないように思えたが、だが、今まで闇の中で生きてきたレオには、素直に受け止めきれない思いが拭えず、もう近くまで迫っている新しい世界に、レオは不安を感じずにはいられなかった。
レオがポーツマスに帰還して一週間が過ぎ、また何時もの過酷な訓練の日々が戻ってきた。
その中でも特に過酷な『アデス中尉による実戦訓練』が終わると足腰立たない兵士が続出したが、整列が終わるとへたり込む多くの兵士の中で、流石に疲れた様子ではあったが、シャワー室に誘ったコンラッドと肩を並べて歩いていくレオを見て、地面に倒れ込んでいたニックス・ベック二等准尉は男達の背中を目で追って、小さくクスッと笑みを漏らして「敵わねぇな」と呟いた。
「爺さん、落ち着いた様子か?」
並んだブースで、シャワーで汗を流しながらレオがコンラッドにシャンプーを手渡しながら訊ねると、手だけ伸ばしてシャンプーを受け取ったコンラッドが「ああ」と笑い返した。
コンラッドとマリアの父方の祖父であるパーシバル・アデスは、レオの説得に応じて聖システィーナに避難する事にしたのだった。
コンラッドとローラは同居を激しく希望したが、二人揃って英国海軍フリゲート『ブリストル』の乗員であり、同時に乗務する事もあるということで、パーシバルは孫に迷惑を掛けたくないと、結局デボンポートの軍用住宅に住んでいるローラの両親と同居する事にしたのだった。
ローラの両親メラーズ夫妻も聾唖であり、手話による意思疎通が可能である事と、長年その場所に住んでいる夫妻を取り巻く周りの住民も、手話を解する人が多かったからだ。
「ローラのご両親が実の親のように接してくれてるし、周りの健常の人も手話の解る人が多くてな。隣近所と仲良くやってるようだ。あそこには軍住宅用の畑もあって、在住の家族の食材を賄っているんだが、じいさん、もう農業指導を始めたらしいぞ」
その返事を聞いてレオは安堵の息を漏らした。
レオがコンラッドとマリアにパーシバルと面会させた時、今まで聞いた事の無かった父方の祖父の存在に戸惑っていた二人だったが、最初にローラが気付いた。
「お祖父様、貴方にそっくりよ。瞳の色も鼻の形も」
きっと老いたコンラッドはこういう顔になるんだろうと思わせる祖父の顔付きに、ローラは涙ぐんだ。そしてパーシバルが持参してきた、亡くなった妻の若い頃の写真を見せると、其処には古ぼけた写真の中で、マリアが笑顔を浮かべて笑っていた。
パーシバルはひと目で、自分と亡き妻に似た二人の孫に気付いてボロボロと泣き崩れた。自分達が聾唖であったために引き取る事が出来ず、長年生き別れて苦労をしていた二人の孫に、何度も泣いて詫びた。
「じいさん、まだ俺に会う度に詫びるんだよ。もういいって言ってんのに」
困惑して笑ったコンラッドにレオも苦笑を返した。
「それにしても」
頭が泡だらけのまま隣のブースから顔を覗かせたコンラッドが、意地悪そうにニヤリと笑った。
「お前はどれだけ俺に貸しを作ったら気が済むんだ? あ?」
「貸し? さぁ、なんの事だか」
コンラッドの言わんとしている事は察したがレオはすっとぼけた。
「今、お前に『SASに来い』って言われたら断れんぞ、俺は」
ポツリと呟いたコンラッドにチラッと視線を投げたレオだったが、フンと鼻で笑うと同じように意地悪そうに言い返した。
「SASのトップには、俺がなるんだ。お前に来られると邪魔だ。海軍で大人しくしてろ」
「言ってくれるじゃねぇか、この野郎」
コンラッドは悪態を付きながらも明るく笑い、レオも口元に苦笑を浮かべた。
「後二年で『エクセター』の太陽光化が終わる。クリスの親父さんが来てくれたお陰で目処がついてな。そうしたら俺は『エクセター』に志願する。艦長としてな」
少し俯き加減になったコンラッドの横顔にレオは視線を向けた。
デボンポートを母港とするフリゲート『エクセター』は太陽光化のため現在は運用されていなかったが、その『エクセター』の乗員になってデボンポートに戻って、ローラの両親や祖父と暮らしたいという事なのだろう、とレオは思った。
「おいおい、尉官じゃ艦長にはなれないだろ? せいぜい頑張って昇進するんだな。今みたいに不平たらたらじゃ昇進しないぞ」
「うるせー。お前に抜かれたら、本当にシャレにならないからな。アレックス・ザイア曹長」
昨日付けで昇進したばかりのレオを、新しい階級で呼びながら、コンラッドはジロリと睨んだ。
「もたもたしてると追いついてやるよ。そしたらタメ口解禁だな」
「お前なぁ、今でもタメ口だろが」
ケラケラと笑った男二人の笑い声が、まだ多くの隊員がへばって辿り着かないシャワー室に明るく響き渡っていた。
コンラッドの明るい嬉しそうな顔を見ていると、まるで自分の事のように自分にも喜びが湧いてくるのを、レオは自然に受け止めていた。
そしてコンラッドと同じ様に、血の繋がった祖父の存在に涙したマリアの喜びを思い出して、再びマリアと交わした口付けの感触を辿ってレオは目を細めて思い返した。
ポーツマスでマリアを祖父に会わせた帰り道で、隣で嬉しそうなマリアを見て、自分の心にも喜びが沸いてくるのを抑えられなくてレオは終始笑顔だった。
「天涯孤独だと思っていた自分に、お兄様やお義姉様、お祖父様もおられたなんて」
嬉しそうに頬を染めたマリアに、レオは「ああ」と頷いた。
「俺と違ってお前は真っ直ぐだからな。神様も見捨てはしないだろ」
自分自身は本当に天涯孤独なレオが何気なく呟き、マリアはその言葉に気付いて顔を曇らせた。
「ごめんなさい、私……」
「気にするな、マリア。俺にはお前が居る。コンラッドもローラも、もう家族みたいなもんだ」
明るく笑ったレオにマリアは喜びと悲しみの混じった瞳を向けた。
その言葉は、マリアへの慰めでも何でも無く、レオの本心だった。これまで誰も受け入れず、心を閉ざして生きてきた自分が、自分では無い他の誰かの幸せを喜ぶなど、到底考えられない事であったが、今はもう素直に自分の変遷をレオは受け止めていた。
それはコンラッドとローラ、海軍訓練校のムーアハウス少尉や、サヴァイアー大佐らの存在があってこそだとレオは思った。
そして何よりも、マリアの存在がレオの心の中で明るい光を投げ掛けていた。
清らかな心の内に闇を秘め、それでも尚、健気に生きるマリアの存在こそが、レオの心に穏やかな気持ちを齎してくれているのだと、こみ上げる思慕の念を堪え切れずに、行き交う車も無いハイウェイでレオは唐突に車を停めて、怪訝げなマリアに向き合った。
「マリア、お前は聖システィーナ修道院の尼僧だ。世界を守る役目がお前にはある」
マリアは、子供の頃から自身が抱えている負の力の他に、世界を守る事を義務付けられたあの修道院の院長として、甚大な力を与えられていた。
世界が生まれ変わろうとしている今、マリアの存在は、無くてはならないものであったし、彼女に修道尼を辞めてくれと言う事などとても出来なかった。
「けれど、マリア。時には、本当に時にはでいい。こうして俺の、俺だけのマリアになってくれないか」
レオは、自分を見つめているマリアのきっちりと包まれたベールをゆっくりと外して、乱れる事無く束ねられていた艶やかな茶色の髪を解き放った。
「ザイア軍曹様……」
はにかんだ紅を白い頬に浮かべて小さく呟いたマリアに、レオは「チッチッ」と笑って指を振った。
「二人だけの時は、『レオ』だ」
「……レオ……」
恥ずかしそうに呟いたマリアの声が消えないうちに、レオはその唇を塞いで、マリアのその囁きごと飲み込むように体を引き寄せた。
じんわりとした柔らかい光が自分からもマリアからも上気するのを感じて、レオは一層マリアを強く抱いて、マリアの手が遠慮がちにではあったが、ゆっくりとレオの背に廻された。
降り注ぐ暖かい光の中で、体を寄せ合って互いの温もりを確かめ合う二人に微笑み掛けるように時は静かに流れ、寧ろこのまま時が止まればいいと、マリアを抱き締めながらレオは願っていた。




