第三章 第五話
その報が齎されたのは、陸軍第二十二SAS連隊A部隊がベルト地帯の掃討に出動して一週間目の事だった。
事件のあったウォリントンを中心に、周辺を虱潰しに探索したが成果を得られないままその範囲を拡大しようとしていた時、陸海空各軍の調査を依頼していた部隊長のバイロン・マクダウェル中佐の元に芳しくない情報が寄せられ、その情報は直ぐに、出動中の副長バート・ミルズ中尉に知らされた。
ミルズ中尉に呼び出されたレオは、部隊野営地の司令官用テントを訪れて、厳しい顔をしてキャンプ用の椅子に座り込んでいる中尉に向き合った。
「お呼びでしょうか、ミルズ中尉殿」
苦虫を噛み潰したような顔をしている中尉は、敬礼を外したレオに向かって静かに訊ねた。
「お前がデボンポート海軍訓練校で一緒だった、ライアン・ローチを覚えているか?」
聞き覚えの無い名前にレオが困惑していると、中尉は小さく嘆息をついた。
「懲罰中に女性兵士に乱暴しようとして、孤島上陸訓練に送られた奴だ」
レオはラットの本名は知らなかった。海軍に送り込まれる前にはそんな情報は不必要だったし、訓練校では教官からは訓練番号で、仲間からは愛称でしか呼ばれなかったからだ。
「しかし彼は、その『監獄島』に送られて戻って来ませんでした。死んだものと思っていましたが」
レオが怪訝そうに返すと、ミルズ中尉は立ち上がって繁々とレオを見返した。
「幾ら懲役を兼ねた訓練兵だとしても、無闇に殺したりはしない。戻って来ない者の多くが、本当の『監獄島』、ラムジー特別刑務所へ移送されている」
厳しい顔を崩さない中尉をレオは困惑した瞳で見つめていた。
その本当の『監獄島』ラムジー特別刑務所は、ウェールズ地方の西端セント・デイビッズの、沖合五kmの地点にあるラムジー島に作られた隔離用の特別刑務所だった。
島には刑務所しかなく、島と本土は流れの速い海流で遮られて、脱獄不可能の要塞島だとミルズ中尉は説明した。
かつては凶悪犯が収容されていたこの刑務所も人口の減少と共に忘れ去られ、今は結界外で暴行や殺人を働いた『穢れた魂』達が、最後に送り込まれる場所となっていた。
ラットとその仲間達はデボンポートの『監獄島』へ送られた後、十日間の帰還期限を過ぎても戻って来なかった。その間、島で何が起こっていたのか、レオは初めて知った。
「ローチは仲間の内の二人と共謀して、他の三人の仲間を殺害した。彼らの食料と水を奪うためだ。更にローチは、共謀した仲間も隙を見て殺害して、結局一人で六十日分の食料と水を手に入れて、軍が十二日後に彼らの探索に出向いた時には、ローチ一人しか残っていなかったそうだ」
ラットのやりそうな事だ、とレオは思った。
小ずるくて、自分の事しか考えていないラットは、他人を陥れる事も平気でやった。その癖力のある者には媚び諂う意地汚い性格で、仲間を裏切る事も何とも思っていないようだった。
『穢れた魂』の中にあっても、泥に塗れ汚れきった魂のラットに、レオは呆れて小さくため息をついた。
「海軍はローチを不適格と判定し、ラムジー特別刑務所へ移送して終身刑を与えた。奴は其処を出る事無く朽ち果てる筈だったのだが、事も有ろうにあの刑務所を脱獄したんだ」
「しかし、泳いで渡る事も出来ないとおっしゃってましたが」
「ああ。奴は看守の交代を狙った。島には、陸軍から二名の看守が交代で本土より渡っていた。奴は暴れる事もなく看守に取り入って、その日は食事当番だったローチは、交代要員が本土から到着すると彼らを襲撃して銃を奪い、全員を射殺した。そして船を奪って脱走したんだ。警備担当のニューポートにある陸軍第十部隊が、異変に気付いたのは一週間後だ。交代要員が、六日目には戻ってくる筈が戻って来なかったからだ。それから三日後にラムジー島に到着してローチの脱獄を知った。だが脱獄から十日も経過してしまっていて、もう後は追えなかったそうだ」
「ではアイツが……」
「ローチは元々リバプールの出身で、この辺りには土地勘がある。間違いないだろう」
フーッと長い息をついた中尉は、顔を上げてレオに向き直った。
「お前はあの時リーダー格だったそうだが、奴を制御出来るか?」
「いえ。我々は仲間ではなく寄せ集めのクズどもでした。つるんでいただけで、誰も他の人間を信用していませんでした」
恥じ入った顔で返答したレオに、ミルズ中尉は「そうだろうな」とため息をついた。
「奴はお前の顔を知っている。お前を懐柔しようと接触をしてくる可能性がある。その時にはローチに接触を図り、奴を捕獲せよ」
「了解しました」
淡々と返事をしたレオにミルズ中尉は真顔を寄せて囁いた。
「……信用していいんだな? ザイア軍曹」
まだ自分は完全には信用をされていない事に、憤りよりも、己の力不足を感じてレオは僅かに口元に笑みを浮かべたが、その笑みを消し精悍な顔を上げて、真っ直ぐにミルズ中尉を見返した。
「自分はマリアを、Ms.マリア・バーグマンを生涯守ると決めました。そのマリアが守る世界を、【鍵】が守ろうとする世界を守るために、自分は此処に居ると思っています。だから同じ思いで此処に居る自分達は、決して寄せ集めなどではなく、仲間だと」
その答えに、ミルズ中尉はレオの顔を真顔で見返してから、フッと笑みを浮かべた。
翌日、ウィガンから更に北側を探索したレオが、疲れ切った足で野営地に戻る途中、ウィガンの街を通り過ぎようとしていた時に、少し前方を歩いているスペクター一等准尉に、何かを思い出しのか徐に声を掛けた。
「一等准尉殿。例の老人の家に寄っても構わないでしょうか」
「なんだ、また説得か?」
振り返ってニヤリと笑ったスペクター一等准尉に、レオは小さく頭を振った。
「いえ。何か困窮している事があるか聞くのを忘れてまして」
共に聾唖だった妻を十年前に亡くした老人は、一人息子も、遥か昔に失ったと寂しそうに笑っていた。
『事業に失敗してドラッグに溺れて、息子は妻子を連れて何処かへ居なくなった。その後息子夫婦は死んだが、聾唖の年寄りには預けられないと孫は引き取れなかった。その内に孫の消息も途絶えて、俺は一人ぼっちだ』
そう話していた老人の悲しげな顔をレオは忘れていなかった。
「……まぁ、いいだろう。但し手短にな」
荒くれ者と聞いていたレオのお人よしな返事に戸惑いながらも、スペクター一等准尉は、見た目は凶暴そうなレオの黒い瞳をじっと見返していた。
「おいおい、ベントレーかよ。いい車乗ってるな、爺さん」
玄関前に停めてあるピカピカに磨かれた黒い車を見て、目を丸くしたスペクター一等准尉は、感心してヒューッと口笛を吹いた。
その様子に苦笑したレオが玄関の呼び鈴を鳴らして立っていると、暫くしてから、家の中からゆっくりと声が返って来た。
「鍵は開いてるから入りな」
返ってくる筈のないその言葉に、レオは小さく眉を寄せて背後の先輩を振り返ったが、車の影で用足しをしているらしいスペクター一等准尉はこちらを見ていなかった。
レオが声を出そうと口を開け掛けたが、更に家の中から忍び笑いを含んだ声が掛けられた。
「さっさと入ってくんないかな、レオさんよ」
聞き覚えのある声にレオは唇を噛んだ。恐らくここの老人は人質になっているのだと、覚悟を決めたレオはゆっくりとドアを開け、そして先輩に異変を悟らせるように、少し乱暴にドアを閉めた。
「手を上げて後ろを向け。久しぶりだな、レオさんよ。って、何でアンタ陸軍なんだ?」
レオの目の前には、小銃を構えたラットが、あのニヤけた笑いを浮かべて立っていた。
言われた通り玄関ドアに向かって手を上げ両手をついたレオは、老人の気配を感じようと耳を欹てながら、ラットに答えを返した。
「俺は体力だけで頭が無いからな。陸軍向きなんだとさ」
レオの返答をゲラゲラと笑ったラットは、「そのまま動くなよ」と声を掛けて、居間から引き摺り出してきたらしい老人をレオの隣に投げ打って、「武器を持って来い」と命じた。
レオが、怯えた表情の老人に顔を向け口をゆっくりと動かして、
『俺の武器を取ってあいつに渡せ』
と伝えると、老人は顔を強張らせ気付かれないよう小さく頷いて、レオの小銃と腰に提げたピストルを外して、威嚇しているラットに手渡した。
ラットは受け取った小銃を嬉しそうに手に取ると、自分が持っていた銃は投げ捨てた。
「残念だったな、レオさんよ。こっちの銃は、もう空だったんだ。ヒャハハハ」
レオから奪った銃を構え直したラットは、下卑た声で笑った。
「さぁて。軍が出張ってんなら、俺も逃げなきゃな。爺さん、邪魔したな。ゆっくり眠ってくれや。あの世でな」
ラットが老人に向かって小銃を突き付けた気配を感じて、レオは短く「待て」と言った。
「ああん? アンタが何で俺に命令するわけ? 逆だろが。自分の立場分かってんの?」
クスクスと笑ったラットにもレオは冷静だった。
「俺が単独行動してる筈がないだろ。外にも兵士が居る。もう異変に気付いている筈だ。もしもお前がその老人を殺せば、外の兵士は躊躇しない。俺が死のうと構わず突入してお前を殺す」
レオの言葉にムッと顔を強張らせたラットは、考えあぐねている様子だった。
「もう間もなく此処は取り囲まれる。その時有効な人質になるのは一般人の方だ。その老人を生かしておいた方が利口だと思うがな」
「へぇ。じゃあ、自分から先に死にたいって事だよな?」
何が可笑しいのかゲラゲラと笑ったラットは、レオに向かって、「手を上げたままこっちを向け」と言った。
振り返ったレオの視線の先には、小銃を老人に突き付け油断なく茶色の目を光らせているラットが居た。
「ご忠告通りお前から殺してやるよ。それとも、俺に服従するってんなら生かしてやってもいいけどな」
「随分優しいんだな」
レオが鼻で笑うと、ラットはまだ余裕のある顔を見せて、レオを睨め付けた。
「俺の靴を舐めて、尻を差し出すなら考えてやってもいいぞ。もう一年近くまともな女を抱いてなくて溜まってんだよ。ここらの女はみんな婆さんばかりだったしな。締まりが無くて、抱けたもんじゃなかったぜ」
一瞬レオは、奴の相手をしている間に奴を倒せる可能性があるか考えたが、直ぐにその考えを捨てた。
どうせ奴は自分を殺すだろうし、自分がそんな状態で死んでいた事を知らされるマリアに、どんな異変が起きるかと思うと、それは考えたくは無かった。
『俺はもう死んでも構わないんだ。どうか俺を放って逃げてくれ』
怯えた顔で佇んでいた老人が、ラットに気付かれないよう小さく手を動かして伝えてきた。
レオはその老人に僅かに目線だけを送って、小さく顔を動かして否定を伝えると、老人は静かに笑みを浮かべた。
『新しい世界とやらには、俺のような年寄りよりも、お前のような若者が必要だ。それに、俺にはもう家族も残っちゃ居ない。死んで悲しむ人間も居ない』
レオは寂しげに微笑んでいる老人をじっと見返していたが、最後に老人は思い出したように付け加えた。
『だがもし、もし、お前が俺の孫達に会う事があったなら、孫達が生きているのなら伝えて欲しい。守れなくて済まなかったと』
そして老人はレオに向かって小さく微笑んだ。
『もしお前が、コンラッド・アデスとマリア・アデスという兄妹に会う事があったならな』
レオはその瞬間、その場の空気が凍りついたように感じて、少し口を開けたまま、ラットの存在も忘れて老人を見返した。
真っ白になった髪からは元の髪色は判らなかったが、穏やかな光を浮かべている緑の瞳と、少しツンと上を向いた鼻が、自分がよく知っているあの男に似ている事にようやく気付いた。
――この人は……コンラッドとマリアの父方の祖父だ。
呆然としているレオの前に佇む老人は、まるで死を覚悟したかのように穏やかな顔だった。




