第一章 第三話
その後も、何度書き直しをしても少尉は見もせずに破り捨てて、「書き直せ」と言うだけだった。流石にレオも体力を消耗してきて、目の下に黒ずんだ隈を作りながら、虚しい作業を繰り返す事に辟易としてきた。
アイツは本当は俺が何を書いても見る気は無いんだ、こうやって甚振って楽しんでいるんだ、そう思うともう書くのも馬鹿らしいと思ったが、ブザーを押してぶん殴って逃げようと思っても、何時も逆に空っぽの胃から胃液を吐き出す事になるだけで、レオは諦めたようにノロノロとペンを走らせるだけだった。
自分の生きて来た過去を記憶から掘り起こしながら、稚拙な文章を書き殴っていくレオは、通り過ぎて来た過去を思い出していた。
十歳で母親を殺した。何時ものようにゴミ漁りをしていた時に、偶然ゴミ捨て場でナイフを見つけた。まだ新しい研ぎ澄まされた刃は汚れた自分の顔を映して、チラチラと誘うような光を放っていた。レオはその光に魅入られた。これで此処を脱出出来るかもしれないと思った。その夜、路地裏の薄汚い小屋の中で、ドラッグに溺れて涎を垂らして寝込んでいた母親の心臓を一突きにした。
その時の母親の様子を、レオは記憶の中から容易に見つけ出していた。目を見開いた母親は、泣きたそうな、困惑しているような、そんな顔をしていたが、だが口元は笑っていた。確かに笑っていた。根元までナイフを突き立てても、何の感慨も抱いていなかった少年の黒い瞳に、剥げ掛けた口紅が斑に赤くなっている母親の口元が、微かに微笑んでいたのだけが鮮明に映っていた。
――何で笑ってたんだろう。
思い起こしながら、レオは顔を上げた。自分の息子に刺し殺されながら笑っていた母親の、最後の考えていた事に、今初めてレオは向き直ろうとしていた。
それからも、レオは自分の生きて来た道程を一つ一つ思い起こしていた。十三歳の時にレイプして殺した少女の顔を思い出していた。泣きながら、強張った顔で目を見開いていた、少女の青い瞳を思い出していた。十五歳の時に、僅かな金を奪う為に殴り殺した、まだ若いビジネスマン風の男を思い出した。顔面が腫れ上がったその男がただ一つ奪われまいと手に握り締めていたパスの中の、妻らしい女性と小さな赤ん坊の写真を思い出した。
その後の彼の人生にも、暴力と残忍な殺人と強姦しか無かった。時代が混沌としてから後は、もう殺した人数を数える事も出来なくなったが、その一つ一つをレオは鮮明に思い出していた。
書き殴った文章の最後にレオは一旦手を止めて、暫くじっと考え込んだ。そしてゆっくりと、ブザーを押した。
疲れ切って呆然とした顔のレオの前で、少尉はその数十枚に及ぶ彼の人生を読んだ。そして顔を上げるとその紙をレオにつき返した。
「読め」
虚ろな瞳を怪訝そうに上げたレオに、少尉は冷静な顔を崩さずにもう一度言った。
「自分で全部、声に出して読め」
ノロノロと紙を受け取ったレオは、自分で書いた物を掠れた声で読み始めた。何の感情も伴わない棒読みで最後まで読み終えると、少尉はまた言った。
「もう一度読め」
それを何度も繰り返した。レオは自分の人生を何度も言葉に出して読み返した。暴力と空虚だけしか詰まっていない自分の人生を、何度も読み返させられた。
そこには死んだ母親が居た。強姦した少女も殴り殺したビジネスマンも、ただすれ違っただけで殺した男も、レオに親切にしただけで殺された老人も居た。何度も読み返す度に、レオの前に姿を現すその人々を、レオは初めて、それは人間だったと気付いた。
朦朧としてきた意識の中、己の空虚な人生を突きつけられたレオは泣きながら読んでいた。自分が何故泣いているのか、レオは分からなかった。涙を流した事など、何時の事だっただろうとぼんやりと思いながらも、レオは泣きながら読んでいた。
何回繰り返したかも分からない音読の後、少尉は力無く紙を机に置いたレオに向かってゆっくりと言った。
「訓練番号百二十三番、これより食堂にて食事を取るのを許可する。立て」
ノロノロと立ち上がったレオに、少尉は静かに言った。
「分かったか、虫けら。自分が何で虫けらなのかを」
まともに歩けないレオの腕を取り、食堂まで引き摺るようにして先導していく少尉に、何も言い返せない自分を感じて、レオはただ無意識に足を前後に動かしているだけだった。
それ以来、レオは懲罰室へ行くのを恐れた。男達の内の幾名かは、レオと同じ様に懲罰室行きを恐れたが、ラットや数名の男達は何度懲罰室行きになっても懲りていないようで、ただ中々食事にありつけない時間、とだけしか考えていないようだった。
「あんなもの、何処が懲罰なんだか。しゃらくせぇよな。な?」
与えられた食事を黙々と食べているレオの前に踏ん反り返って、得意げに周りを見渡し、クチャクチャと汚い音を立てながら食べているラットを、レオは完全に無視していた。
レオが怖がっている懲罰室を、自分は微塵も恐れていないという事で、再度グループのリーダーに返り咲こうと狙っているラットは、同じ様に懲りていない数名の男達と、懲罰室行きを恐れている他の連中を嘲笑った。
「なぁ、あれの何が怖いのか、俺に教えてくんねぇかな? なぁ、レオさんよ」
今度は身を乗り出してレオを覗き込むと、下卑た笑いを浮かべながら濁った瞳に油断無く狡猾を浮かべたラットに、それでもレオは顔を上げる事も無く目の前の食事を胃に収める事だけに集中した。
「訓練番号百二十五番、私語を慎め! 食事は時間内に済ませろ!」
監督官の怒号に「ケッ」と口を歪めたラットは、自分の目の前のトレーに乗った食事を乱雑に撒き散らしながら掻き込むと、最後にまたレオに嘲りを浮かべた瞳で挑発を投げ掛け、トレーを手に席を立った。
――アイツは長生きしねぇな。
自分が虫けらだと気付いてもいない歪んだ魂に、レオはチラリと視線を投げ掛けたが、憐憫の感情は浮かんで来なかった。
寧ろ、気付かなかったほうが幸せだったのかもしれないと思った。例えそれで明日にでも命を落とす事になったとしても、少なくとも自分は人間だと思い込んだまま死ねるのだからと、そう思って誰にも悟られないよう小さく息をついたレオは、食べ終わったトレーにフォークを置いた。