番外編 小猿と黒豹 1
ロンドンにある『ガイア2100』の玄関先に、小型の軍用車がゆっくりと入ってきて横付けされ、降り立った軍服姿の男は、黒髪を隠す制帽を深く被り直して、自動ドアを開けて中に入り、大きなロビーに設えられたソファに腰を下ろしていた、修道服姿の女性に声を掛けた。
「マリア。車を取ってきた。乗れ」
「ありがとうございます。ザイア軍曹様」
立ち上がってにっこりと笑ったバーグマン尼僧に、照れ臭そうに頭を掻いて困惑した顔をしたレオは、だが少し不機嫌そうに言った。
「俺に敬語は要らないって言ってあるだろう」
「でも……これが習慣なので……」
困ったように小さく頬を染めた彼女にレオはフッと小さく笑って、黒い瞳に穏やかな光を浮かべて「まぁいい」と小さく呟いた。
「帰るぞ、聖システィーナへ」
「はい」
マリアは嬉しそうに顔を上げ、レオは口元に笑みを浮かべて彼女を車へ導いた。
四月も近くなると、此処英国も、ようやく冬の厳しさから解き放たれ、花の香る季節がやってきた。
萌え始めた木々が淡い緑を纏い、穏やかな季節の足音を感じながら、レオはハンドルを握って、ロンドンから聖システィーナ地域へ車を走らせていた。
黒豹を髣髴とさせる黒い髪と鋭い黒い瞳から、渾名を「レオ」と名付けられたアレックス・ザイアが、英国陸軍第二十二SAS連隊に配属されて、もう間もなく一ヶ月になろうとしていた。
レオが、生涯の好敵手であり、目標と定めた英国海軍フリゲート『ブリストル』の一等航海士コンラッド・アデス中尉の、生き別れの妹であったマリア・バーグマンと出合ったのは、偶然だったのか、それとも運命の必然だったのかは、今となっては分からないが、とにかく、レオは窮地に陥ったこの美しい尼僧を救って、今も彼女を警護する任務を命じられていた。
運転席の真後ろの後部座席で春めいてきた外の景色を見ながらも、時折、レオに話し掛けたそうな視線を向けているバーグマン尼僧にバックミラー越しにレオは気付いていた。
あの日、確かな愛の存在を確かめ合った二人であったが、レオにとって彼女は要警護者であり、そして清廉に生きる事を定められた修道尼であるマリアに、あの日以来触れる事も出来ず、微妙な距離を保ったままの二人の間では、キスが交わされる事も無かった。
それでもレオは彼女が日々を穏やかに過ごしているのを見るだけでも、それだけでも嬉しかった。
強力な負の力を内に秘め、その力で彼女を陵辱しようとした人間を何人も死に追いやってきたマリアの悲哀を、取り去る事は叶わずとも、共にその重荷を背負っていこうと思っているレオには、自分自身も暴虐を尽くして数え切れない人間を殺めてきた過去があり、罪科を負った二人は、互いの心の中で、しっかりと手を握り合っているのを感じて、表面上の距離はあっても、魂が繋がっているのを互いに心地よく受け止めていた。
この日は、政府主催の『地域医療振興シンポジウム』に参加したバーグマン尼僧を送迎して、修道院に帰ってきたレオとバーグマン尼僧が校舎内にある執務室に戻って来ると、ちょっと困惑した顔をしていた【守護者】クリス・エバンスが、顔を上げ微笑んで二人を出迎えた。
「おかえりなさい、バーグマン尼僧」
「ただいま戻りました、クリス様。……どうされたのですか?」
丁寧にお辞儀したバーグマン尼僧だったが、小さな女の子を抱きかかえて、愚図る彼女を宥めるように、クリスがウロウロと室内を歩き廻っているのを見て、怪訝そうに少し眉を寄せた。
「それが、ビアンカが一人で校舎の外で泣いてまして」
「あら、当番の尼僧はどうしたのでしょうか」
困惑した顔をしながらも、穏やかに微笑んでいるこの【守護者】は若干二十一歳の若者で、荒ぶる事の無いこの人格者にレオは内心で小さく笑った。
縋るようにバーグマン尼僧に手を伸ばしてきたビアンカを抱き上げて、柔らかい金髪を頭の上で二つのお団子結びにして赤いリボンで飾られたビアンカの髪をそっと撫でて、困惑顔のバーグマン尼僧は「よしよし」と、まだベソを掻いている彼女を優しく宥めた。
「どうしたのです? ビアンカ」
「おひるねから起きたら、だれもいなかったの」
「それで寂しくなったのですね」
浅黒い肌の大きな青い瞳にまだ涙を一杯に浮かべたビアンカは、もう直ぐ六歳で、次の秋からは上の子供達と一緒に学校に行く事になっていたが、英領ヴァージン諸島で保護された十人の子供の中の最年少の彼女は、何時まで経っても甘えん坊のままだった。
バーグマン尼僧の背中に、小さな手を握り締めて縋り付いているビアンカにレオは戸惑った視線を向けていたが、それは彼が小さな子供を見慣れていないからだった。
スラムで子供時代を過ごしたレオは、自分が子供だった当時には勿論他の子供達も周りに居たが、レオ同様に荒んだ子供達は一人、また一人と姿を消し、気付いた頃には自分の周りには小さな子供の姿は無かった。
出生率が減少を始めて既に三十年以上が経過しており、特に此処十年近くは殆ど産まれていなかったので、何処へ行っても、こんな小さい子供の姿を見る事は稀だった。
どう扱っていいのか分からないレオは、居心地が悪そうにそっぽを向いて、何時ものように、彼女の執務が終わって修道尼棟に戻るまでの間、校舎外に待機している旨を告げようとした時に、慌しくノックをされた扉が開いて、眉を寄せた若い尼僧が飛び込むように執務室に入ってきた。
「済みません、クリス様。ビアンカの姿が何処にも……あ」
慌てていた尼僧はバーグマン尼僧がビアンカを抱いて立っているのに気付いて、強張っていた顔を緩めてホッとした顔になったが、美しい曲線を描く眉を顰めたバーグマン尼僧は、少し険しい声で、この尼僧を問い質した。
「どうしたのですか? ビアンカは、一人で校舎の外まで出ていたようですよ。クリス様が保護して下さいました」
「申し訳ありません、バーグマン院長様。それがロドニーが教室を抜け出して見当たらなくなってしまって、皆で探しておりまして」
申し訳なさげに頭を下げた若い尼僧に、バーグマン尼僧は寄せた眉をさらにキュッと寄せたが、クリスは暢気にクスクスと笑った。
「またロドニーか。あの子は本当にやんちゃだね」
「それで、ロドニーは見付かったのですか?」
「いえ、それが」
困惑した瞳を向けた若い尼僧に、バーグマン尼僧は小さくため息をついた。
「それではビアンカをお願いします。私が」
「いや。余りひと気の無い場所をうろつかれても困る。俺が行ってくる」
言い掛けたバーグマン尼僧を遮って、ボソッと告げたレオを振り返って、バーグマン尼僧は顔を曇らせた。
「でも」
「マリアが迷子になったら困るからな」
フッと悪戯っぽく笑ったレオに、バーグマン尼僧は頬を少し染め不満そうに小さく頬を膨らませた。
「私は子供ではありませんよ」
恐らく、本人は意識してはいないのだろうが、レオに甘えているバーグマン尼僧の姿に、クリスは安堵して小さく笑みを浮かべた。
「広い院内を探すのですから、彼にお願いしましょう」
ニコニコと笑ったクリスにレオは無言で敬礼を返し、安心させるようにバーグマン尼僧と、そして少し躊躇った後に小さなビアンカの頭をポンと叩いて、執務室を出て行った。
ロドニーはビアンカの兄で、保護された十人の子供達の中で一番やんちゃで手の掛かる子供だった。大人しく授業を受ける事は稀で、何かに興味を引かれると、授業中でも平気で抜け出して居なくなる事はしょっちゅうで、教育係の尼僧達を手こずらせていた。
一通り院内を見て廻ったレオは、困った顔で頭を掻いてまた校舎付近に戻ってくると、大人しく授業を受けている他の子供達が居る一階の教室をチラリと覗いて、黒板に描かれていた図に目を止めて思いついたように高く聳える時計塔を振り返った。
時計の文字盤が幾つも描かれた黒板では、時間の概念と、時差についての説明がされていたようで、暫く考え込んだレオは時計塔に向かって歩を進めた。
「でも、入口には鍵が掛かっているので入れない筈ですが」
困惑した顔で、時計塔の入口の鍵を手渡したバーグマン尼僧に、レオはそれでもフッと笑った。
「ああ、念のためにな」
受け取った鍵を手に、時計塔の真っ黒に煤けた鉄製の扉を開けると、レオはひんやりとした空気の漂う中上に向かう階段を見上げ、思い出したように地下に向かう階段に目をやった。
この時計塔の地下室で、マリアは暴走した黒々とした闇に包まれた心で眠らされていた。
人を殺める負の力を制御出来なくなった彼女は、覚める事の無い眠りの中で、生涯此処に閉じ込められている筈だったが、唯一その彼女に近づけるレオがこの場所で彼女の闇と対峙して撃ち払った。
あの濃密な数日間の最後に彼女と交わした口付けを思い出して、レオはその思い出を噛み締めるように顔を上げた。
その時、バーグマン尼僧が心を癒す暖かい光を感じていたように、同じように暖かい光に包まれた自分の心に、彼女が自分の絆の相手なのだとレオは強く認識した。
――俺は彼女を守るために此処に使わされたんだ。
自分が歩んできた暗い泥沼のような道は、此処へと繋がっていたんだと、レオは思い起こすように一歩を踏み出して階段を登った。
まだ彼女の負の力が消えてしまったわけでは無く、この先にも、困難が待っているのかもしれないと思いながらも、掴んだこの手を離すまいと、レオは階段を一段登る度にその思いを強くしていった。




