第一章 第二話
問答無用で海軍訓練生にさせられた男は、あの時一緒につるんでいた他の十九名の男と共に、デボンポートにある海軍訓練校に放り込まれた。腕っ節に自信のあったレオは、こんな場所何時でも逃げられると高を括っていたが、それが簡単では無い事を、直ぐに思い知らされた。
レオ達は収容された『ブリストル』から降ろされ、デボンポートにある海軍施設に連行されると、怪我の無かったレオは直ぐに海軍訓練校に移送された。付き添いの兵士は二名、怪我が無く移送されたのは十名、逃げるのは簡単だと思った。
兵士の油断をついて銃を奪おうと後ろ手に兵士の腕を捻り上げた、筈だったが、腹が捩れる鈍い痛みを感じるとともに、レオは地面に叩き付けられて、逆にねじ伏せられていた。
「おいおい。本当に血気盛んだな。こんな場所で無駄に騒ぐなよ」
軟弱そうに見えた色の白い若い兵士に肩を押さえられ、腕を捻り上げられながらレオは歯噛みをした。顔を上げて他の男達の様子を見ると、全員が地に転がって痛そうに呻いていた。
「どうするよ? 最初っから懲罰室行きか?」
二人の兵士が顔を見合わせて苦笑した時、正面入口からゆっくりと下りて来た士官服姿の男が、兵士達にはそのままレオ達を押さえ込んでいるよう命じてから、うつ伏せで唇を噛んでいるレオの顔を静かに覗き込んだ。
「俺は、お前らの指導教官を命じられたアイザック・ムーアハウス、少尉だ。サヴァイアー大佐殿から血の気が多いとは聞いていたが、本当だな。だがな、逃げようなんて気を起こすなよ。病院のベッドが一杯になっちまうからな」
ムーアハウスと名乗った五十代ぐらいの士官は、身長は然程高く無かったが筋肉質のがっしりとした体付きで、少し後退気味の金髪に茶色の瞳を油断無く光らせて、その姿を地に伏して見上げていたレオは、あの半袖から覗いている太い上腕は全て筋肉だと気付き、コイツは油断のならない相手だと警戒しながらも、腕の痛みに耐え小さく眉を寄せた。
ニヤリと笑ったムーアハウス少尉は、寝転がっている男の一人を蹴飛ばし「全員起立!」と号令を掛け、諦めて立ち上がった男達に、
「これより入校手続きを行う。全員校内執務室にて整列の上待機! 早くしろ!」
と命令して、ノロノロと歩き始めた男達を背後から蹴飛ばして、平然とした顔をしていた。
レオも押さえ付けられていた兵士に腕を取られて、そのまま連行されるかのように中に連れ込まれ、正面玄関の重い扉が閉じる音を、不吉な思いで聞いていた。
その不吉な予感が的中していた事を、遠からずレオは思い知らされた。入校手続きの後、体力測定を行うとグラウンドに整列させられた十名の男達は、当然のように全員これを無視していた。
「ランニング十km? やるかよ、バーカ」
馬鹿にしたように目を細め、目の前に立ったムーアハウス少尉に向かって唾を吐き掛けたラットは、掛かった唾を拭っている少尉をゲラゲラと笑ったが、次の瞬間には体を折り曲げて地面に崩れ落ち、胃の中の内容物を吐き出しながら悶絶していた。
「てめぇ!」
顔を強張らせた男達が一斉に少尉に飛び掛ったが、やはり結果は同じで、全員がラットと同様に地面に横たわって呻いているのを、レオは一人だけ立ち尽くして黙って眺めていた。
「お前は、少しは知恵があるようだな」
レオの前に立ち顔を繁々と覗き込んだ少尉に、レオは白けた顔で冷たい視線を投げた。
「さぁな」
真っ向から向かっても、返り討ちに遭うだけだと解ったレオは、相手の裏を掻く方法をじっと考えていた。
「無駄だ。お前らは、此処で人間に戻るまでは出られない」
「ほう。まるで俺達は、人間じゃないみたいな言い方だな」
「そうだ。お前は虫けらだ。拒否する権利など持ち合わせていない虫けらだ。せいぜい精進して、早く人間になる事だな」
平然としたムーアハウス少尉の揺るがない茶色の瞳を睨み返して、レオは小さく口を歪めた。
「流石、清らかな魂のお方には、俺達が虫けらに見えるようだな。だったら躊躇せずにさっさと殺したらどうだ? 相手が虫けらなら心も痛まないだろ?」
「死にたいなら自分で勝手に死ね。死にたくないならさっさと走れ」
レオの言葉を軽く受け流した少尉に、敵意の篭った視線で答えたレオは、立ち上がってヨロヨロと走り出していた他の男達と一緒に、ギラギラした太陽が照りつけるグラウンドをゆっくりと走り始めた。
それからも、事ある毎に衝突を繰り返していた男達は、懲罰室と呼ばれる問題行動のあった訓練生を懲罰のために監禁する特別室に入れられた。
レオも例外ではなく、初日の夜に脱走しようとして捕まり懲罰室行きとなった。きっと、体がボロボロになるような体罰があるんだろうと思っていたレオであったが、小さな部屋の中には簡素な机と椅子、そして部屋の隅に置かれたトイレがあるだけで、窓も無く、監視用と給仕用の小窓が付いた分厚い鉄の扉の部屋で、座らされたレオに命じられたのは、目の前の机の上に置かれた紙と筆記具で、書く事だけだった。
「何を書けって?」
「お前の人生だ。産まれてからこれまでの事を、詳細に其処に書き記せ。終わったらそのブザーを鳴らせ」
机の上の赤い大きなボタンを顎でしゃくって示して、少尉はそれ以上何も言わずに扉を閉め、大きな音を立てて鍵が掛けられると、上部の監視用の小窓を開けてニヤリと笑った。
「飯が食いたきゃ、さっさと書くんだな。書き終わるまでは食事は認められない」
カタンと音を立てて小窓が閉められると、レオは座り込んだ椅子で手を頭の後ろで組んで、仰け反って両足を机に投げ出し、机の上の紙を床に撒き散らした。
馬鹿馬鹿しいと、レオは思った。飯なんか暫く食わなくても構わない、暴行を加えられる恐れが無いのなら、無駄な事はする必要がないと、疲れた体を休める事にした。
水だけは定期的に差し入れられたが、本当に、誰も何も言う事も無く、レオは丸二日間この中に放置された。
流石に腹の空いたレオは、床に落ちていた紙を一枚拾うと僅かに一行書き記して、机のブザーを押した。
「ほらよ」
たった一行だけ書かれた紙を少尉に投げ付けたレオを、その紙を拾って手にした少尉は、じっと眺めてから鼻で笑った。
「たった一行か。薄っぺらい人生だな」
『ロンドンで産まれて、今デボンポートに居る』とだけ書かれた紙を少尉は、その場で破り捨てた。
「書き直せ」
レオは不機嫌そうに眉を上げると、その場で今度は二行書いた。
『ロンドンで産まれて今デボンポート。目の前にぶっ殺してやりたい奴が居る』と書かれたその紙を、今度は、少尉は見もせず破り捨てた。
「書き直せ」
「ふざけんな!」
「まともな物を書いたら読んでやる」
平然とした顔で少尉は出て行き、レオは机も椅子も扉に向かって投げ付けて、閉じ込められた部屋の中で吼えた。