第二章 第九話
今は再びソファに腰を下ろしたマクニール尼僧とクリス、椅子に腰を下ろして、口元に手を当て考え込んでいるサヴァイアー大佐と、本が乱雑に転がったままの壁際で、寄り添う妻ローラを掻き抱いて呆然と立っているコンラッド・アデス中尉を、壁に寄り掛かって、ズボンのポケットに手を突っ込んで、レオは物憂げに眺めていた。
部屋に立ち込めた空気は、鈍い音を立てて重く圧し掛かり、誰もが無言の中で、コンラッドがやがて決意を籠めた顔を上げた。
「俺が聖システィーナへ行く。俺がマリアを……」
唇を噛み締めて青白い顔をしているコンラッドからは、先程までの『餓えた虎』と呼ばれた狂気は消え失せていたが、その代わりに魂の奥底から沸き立ってくる悲哀に包まれ、その頬には影が映り、くすんだ緑の瞳には絶望しか感じさせない淡い光が差していた。
「コンラッド!」
夫の決意を悟って、ローラが泣き出しそうな顔で悲鳴を上げた。
コンラッドはマリアを、妹を殺すつもりなのだとレオも察した。そして自らも死ぬつもりなんだろうと、窓に向かって視線を向けて青く広がるポーツマスの空を見ているようで、その遥か先の彼方を見ているコンラッドの、その緑の瞳をレオはじっと見つめた。
「待て、コンラッド。それは最後の手段だ」
察したサヴァイアー大佐も、眉を寄せてコンラッドを制したが、コンラッドは小さく笑みを浮かべて首を振った。
「俺がロリコン野郎を見つける度に殺してきたのは、そんな奴らが憎かった所為もあるが、マリアにもう誰も殺させないためだった。俺はアイツに誰も殺させない。俺がマリアにしてやれるのは、もうそれだけだ」
淡々と語るコンラッドからは自嘲と諦めしか感じず、まだ真実に気付いていないコンラッドに、レオは低い声で語り掛けた。
「おい、お前、本当に分かってるのか?」
突然の言葉に振り向いて眉を寄せたコンラッドに、レオは黒い瞳を向けた。
「彼女の呪縛は、変態野郎から身を守る為のもので、彼女を正しく導けば、その後は誰も殺さずに済んだ筈だった。それなのに自分で自分を制御出来ない人外に貶めたのはお前だ、コンラッド」
レオの言葉はコンラッドに刃のように突き刺さった。
「彼女の心の中にあるのは、自分の罪を被った兄への贖罪の思いだ。自分が兄を罪人に貶めたという気持ちが彼女を蝕んで苦しめている。それを祓ってやらないと、彼女は本当には救われない。ただ彼女を葬ったところで、彼女は何一つ救われないんだ」
コンラッドは、唇を噛み締めて顔を逸らした。ブルブルと震える唇は何か言いたそうに細かく動いていたが、言葉を発する事無く、コンラッドは静かに自分の罪科を受け止めていた。
「しかし、十歳の子供にそれは酷だろう。ザイア軍曹」
コンラッドを庇うようにサヴァイアー大佐が息をつくと、レオは大佐に鋭い視線を向けた。
「確かにそれはそうだ。しかし、今は違う。今は分別を持って行動出来る大人だ」
「俺はどうすればいいんだ」
またコンラッドが掠れた声で呟いた。
「お前は何の罪にも堕ちてはいないと、彼女に証明してやればいい。勇気があって素晴しい女性を妻にして幸せに暮らしていると」
「それでマリアは納得すると思うのか?」
強張った顔を向けたコンラッドにレオは小さく首を竦めた。
「さぁな。でも納得して貰わないと、それこそ死人の山になる」
クッと顔を背けたコンラッドに、レオは真っ直ぐに目を向けた。
自分は何故此処に導かれたのかが、レオにははっきりと分かった。自分が殺した母親が、にっこりと笑って頷いているのが脳裏に浮かんで、レオは小さく息をついてから、また顔を上げた。
「それで納得してもらえるように話すしかないさ、俺がな」
「お前が? 何でお前が?」
混乱したコンラッドが困惑した顔でレオに叫んだが、レオは今日この部屋に入って初めて小さく笑った。
「そりゃ彼女に近づけるのは俺だけだからだ。多分、他の人間では無理だ。そうだろう?」
ソファに腰掛けたまま、レオを怪訝そうに見上げていたクリスを振り返ると、クリスは同意して眉を寄せて頷いた。
「ええ。僕も時計塔には入れませんでした」
「でも! 俺は兄だぞ? 何でお前が!」
レオは焦っているコンラッドを鼻でフフンと笑った。
「悪くは思うなよ、コンラッド。俺には実績があるからな。彼女の呪縛を振り解いて、生き残ったという実績がな」
困惑した空気が流れる場を制したのはサヴァイアー大佐だった。
「よかろう。SAS指令本部には、俺から仔細の連絡を入れておく。アレックス・ザイア軍曹、これより聖システィーナ修道院へ赴き、Ms.マリア・バーグマンを救出せよ」
「了解しました!」
敬礼を返したレオに、サヴァイアー大佐は黒い瞳に光を浮かべて頷いた。
「しかし!」
まだ承服し兼ねるコンラッドは、抗議の眼差しを大佐に向けたが、大佐は逆にコンラッドを睨み返した。
「コンラッド・アデス中尉、謹慎を命じる。自宅にて待機せよ」
「大佐殿!」
「ローラを看護しろ」
大佐の言葉にローラを振り返ったコンラッドは、先程殴った妻の左頬が腫れ上がり、口元に乾いた血がこびり付いているのを見て、急に狼狽して済まなそうにローラの左頬をそっと撫でた。
「大した怪我ではありません、大佐殿」
気丈なローラが笑みを溢しながら返すと、大佐は小さく笑った。
「コンラッドに貸しを作ったんだ。返してもらえ」
その様子をニコニコと見守っているクリスにレオは視線を投げた。
この男、一見優男だが大した奴だなと思っていると、その内心を見抜かれたのか、クリスはレオに顔を向けて真顔になった。
「バーグマン尼僧を宜しくお願いします」
丁寧に頭を下げたクリスに、レオはゆっくりと敬礼を返した。




