第二章 第八話
「何だ。言ってみろ」
コンラッド・アデス中尉は、一応は直立不動の姿勢は崩さずに、自分の正面に立ったレオに、憎悪の篭った視線を投げ掛けながら、低い鋭い声で言った。
「彼女は意識を失う直前に、『兄は悪くない。悪いのは自分だ』とそう言っていた。その言葉の意味を、お前は知ってるよな?」
謙譲の姿勢をかなぐり捨てたレオがコンラッドを睨み付けると、それまでは、怒りを秘めながらも冷静さを保っていたコンラッドの瞳に動揺が浮かんで、小さく唇を震わせたコンラッドはレオの視線から逃れようとした。
「おい、ザイア軍曹。それはどういう意味だ」
狼狽して立ち上がったサヴァイアー大佐を無視して、レオは尚もコンラッドに詰め寄った。
「俺は彼女に殺されそうになった。確か最初の養父は窒息死だったんだよな? それも絞殺じゃなく、何かで顔を塞がれた所為だったと。俺も同じ様に、顔を塞がれて窒息しそうになったんだが、偶然じゃないよな?」
一歩一歩、コンラッドに詰め寄っていくレオから目を逸らし続け、コンラッドは小さく「違う、違う」と呟くだけで、目を合わそうとはしなかった。
「まさか……」
察した大佐が驚きの声を上げるのと同時に、レオはコンラッドに掴み掛かって喉元を締め上げた。
「言え! 本当の事を言え! コンラッド!」
レオの瞳にも、渦巻く憤怒が燃えていた。
――全ての始まりはそこからだったんだ。
レオはもう、気付いていた。そして彼女は、自分でも気づかない内に人外に貶められていたんだと思うと、湧き上がる怒りがレオの体を震わせていた。
「ふざけるな! 貴様が、貴様が何も言わなければ、マリアはあのまま、清らかなまま、一生清らかなまま生きられたんだ!」
逆に怒りを爆発させたコンラッドが、レオの喉元を締め上げて、対峙する二人の男達から迸る怒りの火花が部屋中に飛び散るのを、驚愕の瞳を開いているマクニール尼僧の隣で、クリスは淡々と見ていた。
「やめろ、二人とも! 冷静になれ!」
サヴァイアー大佐が、二人を引き離そうと駈け寄ろうとした時、目映い閃光が周囲を包んで大佐が掌を翳して眉を顰め、マクニール尼僧も目を閉じて顔を背けると、レオは部屋の左側の壁に叩き付けられて、コンラッドは、その反対側の背後の書棚に体を打ち付けて崩れるように座り込み、零れ落ちる本に埋もれ掛けて驚愕した目を見開いて呆然としていた。
「済みません。お二人共、お怪我は無かったですか? でも、僕の目の前で喧嘩は禁止です」
済まなそうに小さく眉を寄せたクリスに声を掛けられると、レオもコンラッドも、この礼儀正しい、それでいて厳格な【守護者】を驚いたように振り返った。
「大佐のお部屋を散らかしてしまって済みません」
クリスはサヴァイアー大佐にも丁寧に頭を下げ、大佐は安堵の顔で小さく手を上げ、「いえ。どうか気にされずに」と、フゥと息をついてから、また椅子に座り直した。
そしてまた険しい顔を上げると、今度はコンラッドに鋭い視線を送って短く告げた。
「コンラッド・アデス中尉。全て話せ」
抗う事の出来ない強い言葉だった。コンラッドは、項垂れていた顔を上げて、諦めたのか空を見上げて口を開いた。
「その通りだ。あのクソ野郎を殺したのは俺じゃない。でもそれが最初じゃなかった」
コンラッドは遠い過去を遡るように、視線を遥か遠くへ泳がせた。
「アイツが、マリアが最初に殺したのは、親父とお袋だった」
何故かコンラッドは小さく笑っていた。その場の一同は、その顔に浮かんだ笑みを計り兼ねて、何もかもが凍りついた寒々しい空気の中で、コンラッドの独白を聞き続けていた。
コンラッドとマリアの両親はドラッグに溺れて、貧乏のどん底で金に困り、売る物が何も無くなると、事も有ろうに自分の娘を売る事にしたのだった。
「マリアは、小さい頃から本当に綺麗な子だった。金に糸目をつけない金持ちに、俺の親はマリアを高く売ろうとしたんだ」
コンラッドはまだ小さく笑っていた。
「それを知って俺はマリアを連れて逃げようとしたが捕まってな。酷い折檻を受けた。あの時の親父は、邪魔な俺を殺そうとしていたんだと思う。俺は殺されると、そう思った」
しかし、その場を見ていたマリアが絶叫を上げて気絶をすると、気付いた時にはもう、両親は苦悶の表情で動かなくなっていた。
「その時は、何が起こったのか俺には分からなかった。でも逃げるチャンスだと思った。それでマリアを連れて逃げ回っている間に、警察に捕まって保護されて、そこで両親が死んだ事を知らされた」
まだ本に埋もれたまま、囁くように話し続けるコンラッドの言葉だけが、部屋に響いていた。
「あのクソ野郎の時もだ。最初は養父も養母も俺達に優しかった。だが、それは欺瞞に満ちた演技だった。あのクソ野郎はえげつないロリコン野郎で、養母も、そんな男でも金持ちで贅沢させてくれるから、ソイツの趣味に口出しせず、寧ろ、玩具でも買い与えているかのように子供を連れてきては養子にしていた。俺はそれを見抜けなかったんだ」
段々とコンラッドは俯くようになっていった。
「俺達が寝込んでいた時、マリアだけが連れ出された。俺が異変に気付いてマリアを探し当てた時には、アイツの部屋でマリアは全裸にされていて、アイツはベッドの上で喉を掻き毟って、もう死んでいた」
その時の事を思い出して、眉を寄せて目を細めたコンラッドを、レオは呆然とした顔で見つめ続けていた。
「運が悪い事に直ぐに養母も気付いて騒ぎ出した。だから言った。『俺が殺した』と。マリアは自分が何をしたのか分かってなかった。そりゃそうだ。マリアはまだ五歳だった。俺もまだ十歳で、罪には問われないと思っていた。それで言ったんだ。『俺が殺した』と」
コンラッドは深く長いため息をついた。
「それでお前は矯正施設へ、妹君は別の施設へ移されたんだな?」
大佐の問いにコンラッドは頷いた。
「俺はマリアが心配だった。また何処かで、誰かを殺してしまうんじゃないかと。それで脱走してマリアの元に向かったが、其処にはマリアは居なかった。もう、売られてしまった後だった。だから、俺は殺した。今度は本当に自分で殺した。金の為にマリアを売った悪魔を」
コンラッドは自嘲的に、フッと小さく笑った。
「しかし、それで終わりでは無かったのです」
今度はマクニール尼僧が重い口を開くと、全員顔を上げて悲痛な顔をしている老尼僧を見た。
「売られた先でも同じ様に、買った男が死にました。しかし警察は当初から院長を容疑者から外しておりました。無理もありません。当時まだ六歳の少女なのですから。しかし院長は、頑なに元の院に戻るのを拒否しました。それで母方の祖父母の元に返されたのです」
「しかし、アイツらは俺達を引き取るのを拒否したぞ?」
「詳細は聞いておりませんが、妹だけならという事だったそうです。しかしその祖父母も、やはり同じように亡くなりました。その時に何があったのかは分かりません。時此処に至って初めて警察も院長に疑惑の目を向けましたが、やはり幼い少女には不可能と判断され、院長は聖システィーナ修道院へ送られたのです。この院は、強大な力を持った院と広く知られておりました。此処ならば、彼女を制御出来るのではないかと、そう判断されたようです」
マクニール尼僧の言葉を、コンラッドは目を見開いて聞いていた。
「前任のオルブライド院長は、彼女のこの院に来る迄の記憶を封じました。それにより彼女の精神は安定し、何事も無く成長を遂げましたが、オルブライト尼僧も亡くなり、院長の力が次第にその強さを増すにつれて、その封印が解かれる事になってしまったのです」
マクニール尼僧は悲しげに目を落とした。
あの時にだとクリスは思った。バーグマン尼僧がスコットランドから戻って来た時、コンラッドを目にして、バーグマン尼僧は自らの封印を解いてしまったんだと、クリスは小さく息をついた。
力では院長に及ばないマクニール尼僧の力では、その時の出来事の記憶を消すぐらいしか出来なかったと言う。
「私の力では、もう院長を封印する事は出来ません。暴走を始めてしまった院長を封じるには、最早ああするしかなかったのでございます」
「あの薬か? あれは只の精神安定剤じゃないよな?」
左の壁際に座り込んだまま、レオは老尼僧を訝しげに見た。
「あれは院に伝わる秘薬で、対になる目覚めの薬を飲ませるまで、院長は目覚める事はありません」
レオの脳裏には、昏々と眠っている彼女の姿が浮かんだ。
窓の無い暗い地下牢のような真っ暗な部屋で、硬いベッドの上で身じろぎもせず、真っ白な顔に色の褪せた唇を結んで、閉じられた瞳からは、あの美しい茶色の瞳を覗く事は叶わなかった。
「まさか、このままずっと眠らせておくつもりか?」
「解決の手立てが見付からない限りは仕方がありません。暴走中の院長の力は、強大かつ邪悪で、私どもは近づく事すら出来ません。その力でどれだけの人が殺められるのか、それを思えば、こうするより仕方無かったのでございます」
「くそぉおおおおおおお!」
顔を歪め強張らせたコンラッドが絶叫を上げてマクニール尼僧に飛び掛ろうとしたが、クリスが張った結界に弾かれて、また本棚に背を打ち付けて床に転がった。
「落ち着け! アデス中尉!」
叫んだ大佐だったが、狂気に陥ったコンラッドの耳には届いていなかった。何度も立ち上がっては、飛び掛ろうとする度に弾かれるコンラッドの怒りの視線は、クリスに向けられた。
「結界を外せ! エバンス!」
「ダメです。貴方がそうやって攻撃的でいる間は外せません」
クリスはそれでも冷静だった。狂った瞳で、今度はクリスに飛び掛かろうとしたコンラッドを、誰かが背後から飛び付いて止めた。
「やめて! コンラッド!」
何時の間にか来ていたコンラッドの妻ローラが全身でコンラッドを押さえ込んだ。
「どけ! 邪魔するな! 殺すぞ!」
「ええ! いいわよ! 殺しなさいよ! 私を殺したきゃ、殺せばいいわ!」
ローラは臆する事なく叫び返したが、コンラッドは背後の妻を、拳で殴り倒した。
「貴様!」
思わず立ち上がったレオだったが結界で前に進めず、切れた口元を拭ったローラは、それでもコンラッドの前に立って両手を広げて立ち塞がった。
「【守護者】に手を出せば、貴方は結界から弾かれるのよ?」
「其処をどけ!」
肩で大きく息をしながら、闇色を浮かべた緑の瞳でローラを睨むコンラッドに、ローラは覚悟を決めて言い返した。
「分かったわ。それなら私が先に【守護者】を殴るわ。それで私はイギリス海峡のど真ん中に弾かれてその海に沈むのよ。先に行って待ってるから、貴方は後から来て頂戴」
「待て! ローラ! やめるんだ!」
サヴァイアー大佐が青褪めた顔を引き攣らせた。
『ブリストル』は、今はポーツマス港に係留されていて、海上に出動している船舶は無く、結界の端に弾き飛ばされたら、海の藻屑となるのは間違いがなかった。
ローラは、大佐の制止を無視して振り返ってクリスに向き合い、クリスはそれでも全く表情を変えず、悲しみに満ちたローラの瞳を淡々と見つめ返していたが、ローラが振り上げ掛けた拳を後ろからコンラッドが押さえた。
「……分かった。分かったから、やめろ。ローラ」
少し落ち着きを取り戻していたコンラッドの言葉に、全身の緊張を解いたローラは、ボロボロと涙を溢すと振り返って、コンラッドにしがみ付いて泣いた。
死を以って自分を諌めようとした妻の赤い髪を静かに撫でながら、コンラッドは顔を上げ、諦めにも似た呟きを吐き出した。
「俺は、どうすればいいんだ……誰か、誰か教えてくれ」
狂気の消えた緑の瞳からは涙が零れていたが、誰も言葉を発する事が出来ず、重苦しい空気だけが静かに揺れていた。




