第一章 第十話
夕暮れの迫ったグラウンドに、長い夕日が差しているのを窓から眺めているローラの背後で、レオは気まずそうに立っていた。
「……済まなかった」
一言短く詫びたレオを、まだ泣き濡れた瞳で、ローラはゆっくりと振り返った。
レオが自分から申し出て、騒動の理由は自分の暴言にあったと、コンラッドの処分を軽減するように上申書を認めて少尉に託すと、少尉は黙ったまま頷いて、レオの肩を叩いて部屋を出て行った。
ローラと二人だけ残された部屋で、所在無げに座っていたレオであったが、決心してローラの背後に立ち、詫びを入れたのだった。
「彼は貴方以上の悪だったわ。此処に入った時は十七歳だったけど、もう数え切れないほど殺してた。尤もその大半は小児性愛者だったそうだけど。子供を食い物にしている奴を見つけると、躊躇する事無く殺したそうよ」
ローラはまたグラウンドを振り返って、遠い目をしていた。
「でも、少尉殿に諭されたの。それで彼は目が覚めたのよ」
「何て?」
「少尉殿は『俺が一緒に妹を探して助け出してやる。それなのに、お前がそんな自堕落でどうする』って言ったのよ。始めは彼も反発していたそうなの。でも監獄島に送られて、一人闇の中で考えて、考えて。それで思ったそうよ。『こんなところで死ねない』って。それで彼はあの海を泳いで、泳ぎ切って戻ってきたの」
寂しそうにポツリポツリと話すローラの背中を見ながら、レオはぼんやりと思っていた。
――それが守る者がある者と無い者の差か。
ひたすら妹を救うために殺し続けたコンラッドと、殺すためだけに殺していた自分の違いに、レオは内心で小さく息をついた。
「そう言えば、貴方手話が出来るそうね。ウチの両親が喜んでたわ」
暫くは二人とも黙って佇んでいたが、振り返ったローラの顔に、少しだけだが笑みが戻っているのを見て、安堵を感じている自分にレオは内心で驚いていた。
「俺の母親も聾唖だったからな。でも、俺が殺したけどな」
自虐的に笑ったレオにローラは眉を顰めた。
「ドラッグ漬けの売春婦でどうしようもない奴だった。お前の両親のような健全な人間じゃなかった」
困惑した瞳を泳がせるローラを、レオはフッと笑った。
「あんな健全な両親が居ながら、スラムに落ちるとは、お前も弱い人間だな」
「……そうね。その通りね」
反発する事なくレオの言葉を受け止めたローラは、自分の過去を振り返って自分自身を笑った。
「両親は生まれつきの聾唖で、私が生まれた後も生活は苦しくて、友達からもいじめられたわ。なんで、普通の両親じゃないんだろうって何時も思ってたわ。一度足を踏み外すと、もう坂を転げ落ちるようだったわ。本当に、今考えればありきたりな話よね」
今度はローラが自虐的に笑った。
「それで、ドラッグと売春で、もうどうしようも無くなった私は、最終処分場に入れられる事になったのよ」
「最終処分場?」
「通称ね。薬中を隔離して、看護する専門の施設よ。表向きはね。離れ小島で、脱走しようとして海で溺れて死ぬか、禁断症状の幻覚に溺れて死ぬか、どっちにしろ、溺れて死ぬしかない所よ」
クスッと笑ったローラは、また遠い目を泳がせた。
「でも、私が送られる前、最後の面会に来た父が、私に言ったの。『今此処でお前と母さんを殺すから、三人で天国に行こう』って」
怪訝な顔を上げたレオにローラは微笑んだ。優しい笑みだった。
「『二人で先に逝って、待っててくれ。俺も死刑になって後を追う。そしたら三人で天国に行こう』って」
「行き先は地獄じゃないのか?」
「天国よ。それでこう言ったのよ。『三人で、神様に文句を言いに行こう。何故こんな酷い仕打ちをするんですかって文句を言おう』そう言って笑ったのよ」
過去を思い出しながらも言葉を噛み締めているローラを、レオは黙ったまま見つめていた。
「笑っちゃうわよね。神様に文句を言いに行くなんて。でも、私はそれを聞いて必死で父を止めたの。児童裁判所の係官に縋り付いて、泣いて『父を止めてくれ。何でもする。薬もやめる』って、必死に縋って泣いたの。それで最終処分場送りが中止されて、私も此処へ送られたのよ」
「死ぬのが怖くなったのか」
レオの問いにローラは首を振って微笑んだ。
「父を人殺しにしたくなかったのよ。それだけよ」
すっかり傾いた夕日から投げ掛けられる赤い日差しも、今はもうグラウンドに微かに残っているだけで、急速に迫る夜の気配が濃厚になった窓の外を見ながら、レオは過ぎ行く時間をかみ締めていた。
「引き止めて悪かったわね。それに、上申書をありがとう」
右手を差し出したローラの手を、躊躇いながらも握り返したレオだったが、思いついたようにローラに訊ねた。
「なぁ、知ってたら教えてくれないか?」
「え?」
「俺に殺される時、お袋は笑ってたんだ。殺されながら、俺に笑い掛けてたんだ」
ローラに聞いても答えが返ってくる筈が無いのは分かっていたが、己が抱えた澱を、誰かと共有したいという気持ちが、レオの中には湧いていた。
「貴方のお母様、ドラッグ中毒だったのよね?」
「ああ」
「じゃあ、きっと貴方に感謝してたんだわ」
ローラは事も無げに言った。
「感謝?」
「そうよ。貴方の経歴を見る限りでは、自分で薬に嵌った経験は、余り無いようね。売りは、やってたみたいだけど」
恐らく、レオに関する身辺調査の報告書が出廻っていて、レオの過去は赤裸々に明らかにされているようだった。
「だから、中毒患者の心理は分からないだろうから、元患者の私が教えてあげるわ。ドラッグは、自分からその泥沼から抜け出す事が出来ないのよ」
ローラは真顔になっていた。
「私も完全に離脱出来たと診断されるまで、此処で一年掛かったわ。それぐらい難しいのよ。きっとお母様も抜け出したいという気持ちはあったんだろうけど、自分では抜け出す事が出来なかったのよ。それで、その地獄から救ってくれた貴方に、感謝してたんじゃないかしら」
レオの前には、また母の最期の顔が浮かんでいた。
今までは薄汚れた醜い最後にしか映っていなかったその映像が、不思議と穏やかで優しい表情に思えてレオは狼狽した。
「『ごめんね』って言ったんだ。最後に手話で『ごめんね』って」
狼狽えながら首を振るレオに、ローラは静かな目を向けた。
「救ってくれた貴方に、何も残せなかった自分を、逆に、この先を生きていく貴方に、苦難の道しか残せなかった自分を謝りたかったんじゃないのかしら」
少尉の部屋をどうやって出たのか、レオは覚えていなかった。
自室へ向かう廊下を呆然と歩きながら、傷を負った鼻梁が染みて痛むのを不思議に思っていたが、右腕で自分の顔を拭って、初めて自分が泣いているのに気付いた。
自分の記憶から消え去っていた筈の母との思い出が、仕舞い込まれていた奥深くから、水が湧き出すように溢れかえっていた。
売りをやって多少の金があり、薬の禁断症状も出ていない穏やかな日には、レオが八百屋からくすねてきたトマトを使ってパスタを作ってくれた。トマトしか入ってないパスタだったが、極上の味がした。高熱に魘された夜、レオを抱えて街中の病院の扉を必死で叩いていた母親の涙に濡れた顔を、食べる物も無い寒い冬の夜、路地裏の汚い小屋で体を寄せ合って眠った日の、母の胸の中の暖かさをレオは思い出していた。
堪え切れなくなったレオは、廊下に突っ伏して、声を上げて泣き出した。止めようと思っても、零れ落ちる涙は止められなかった。ひと気の無い廊下で力尽きたように突っ伏して、肩を震わせているレオを、瞬き始めた星達だけが静かに見守っていた。




