表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇色のLeopard  作者: N.ブラック
第一章 デボンポート海軍訓練校 虎と豹編
1/288

第一章 虎と豹編 第一話

 柔らかい筈の秋の日差しも、こう何時間も走らされていたら地獄の業火のように感じられて、流れ出る汗を吸って重いシャツが体に張り付く不快感に顔を顰めながら、それでも男は走っていた。

 一周四百mのトラックを、もう何周回ったのか男は途中で数えるのを止めたが、その周りに見える景色も、灰色の建物群と鉄条網が張り巡らされた高い塀に囲まれていて見るべきものも無く、そしてもう、顔を上げて周囲を見る余裕など男には無かった。


「おらおら、何もたもたしてんだ! さっさと走れ! お前、敵に追いつかれてるぞ。此処が戦場ならお前は死んでる。もう何回死んでるんだお前は! ゾンビか?」

 同じ様に走っている筈なのに、指導教官である上官は汗を浮かべてはいるが息も切らさず、苦しそうに喘ぎながらヨロヨロと走っている他の男を叱咤し、堅い樫の棒でそいつの尻を叩くと軽々と追い越して、次の男を同じ様に罵倒した。

 黒髪の男も全身に倦怠感が溜まり疲労のピークだったが、それでもまだ一度も教官には追いつかれていなかった。前方の、短く刈り込んだ茶髪を汗でびっしょりと濡らして、歩いていると言ったほうが早い速度で、ノロノロと走っている周回遅れの男を追い抜くと、茶髪の男は不満そうに口を尖らせてボヤいていた。

「クソッ、何でこんな事しなきゃなんないんだよ! ざけんな!」

 ペッと唾を吐いた茶髪の男は、疲れ切った体を投げ遣りに地面に横たえて、

「あーもう、ヤメだ! やってられっかての」

 と不貞腐れて荒い息をついていたが、目聡く見つけた教官に笛を鳴らされると、あれだけ走っても軽快に全力で走って来た教官に、思いっきり蹴飛ばされていた。

「立て、この鼠野郎が! まだ半分も終わってないぞ! それとも懲罰室に行きたいのか?」

「勝手にしろってんだ!」

 懲罰室と聞いて身体をビクつかせた茶髪の男だったが、もう立ち上がる気力は無かった。

「立て!」

 駆けつけた他の兵士に両脇を抱えられ、懸命に振り解こうとした(ラット)と呼ばれた茶髪の男は、ズルズルと引き摺られる様にして訓練棟に引き立てられていった。

 ――馬鹿だな、あいつ。これでもう何回目の懲罰室なんだか。

 一番先に規定のノルマを終えた男が疲れ切って地面に座り込むと、ようやく飲む事を許されたボトルの水が投げられ、受け取った男は冷たい水を美味そうに喉に流し込んだ。

 






 この黒髪の男にも人並みの名前はあった筈だった。だが、幼い頃から人を寄せ付けない冷たい黒い瞳と凶暴な性格で、『レオパルド(豹)』と称され、其処から『レオ』と呼ばれていた。

 この男の母親は【新地球人( ネオアース)】崩れのイタリア人で、世界を自堕落に放浪した挙句、英国で売春婦をやっていた。彼が産まれたのも、ロンドンの薄汚い路地裏だった。


 戦争や国境が無くなり核兵器が無くなり、世界は平和になったとマスコミや政府が喧伝していたが、貧困や差別が消えて無くなったわけではなかった。

 紛争や戦争が消えて資金源を失ったマフィア達が目を付けたのは、自己中心主義で刹那的に享楽を求める【新地球人】の若者達だった。

 自分の快楽だけを追い求める彼らは、マフィア達にとって格好の獲物だった。ドラッグを売りつけて薬漬けにすると、男は近代化が叫ばれ人手を必要としていたアフリカや中南米地域に売り飛ばされ、女は体を売らせて、其処から得た金をまたドラッグで巻き上げるという悪循環に落とし込み、世界にはそんなスラムが人知れず各所にあった。


 男の母親も典型的なそんな一人だった。男を産み落としても売春とドラッグを止めず、スラムで泥を舐める様にして育ってきた男が、十歳で最初に殺したのがこの母親だった。

 それ以来、一見平和なこの国の底辺を彷徨いながら、男は暗闇に蠢く世界だけを見てきた。人を殺す事などもなんとも思わなかった。だが、平和な世界は彼らの存在を否定した。世界から無き者とされ、声を上げる事すら許されなかった男が、己の存在を誇示できる日は意外と早くやってきた。



 世界に子供が産まれなくなり、やがてそれが暴動になると、男は初めて光の当たる場所へ出た。善人の顔の仮面を脱ぎ捨てた奴等が、暴れ回り、破壊と暴虐を尽くし、女を姦淫するのを、男は高笑いをして見ていた。

 どいつも自分は善人ですという面をしてたくせに、一皮剥けば、俺と変わらない虫けらじゃないかと、かつての良き隣人を嘲りながら笑い飛ばし、同じ様に破壊し、女を犯し、そして、そんな元善人どもも、なぶり殺しにした。

 男は愉快だった。世界が、嘘に塗り固められたこの世界が壊れていくのが楽しくて仕方なかった。


 だが、ある日突然、世界に現れた【(コア)】と【鍵】という存在が、男をまた闇に落とし込んだ。

 真の善人は結界という名のバリアーで守られ、手出しをする事が出来なくなった。そして、その安全な囲いの中から侮蔑を籠めて、男の事を『穢れた魂』と蔑んだ。

 男にはそれが許せなかった。勝手に人に魂を与えておいて、誰が何の為に、そんな線引きをする権利があるんだと歯軋りした。


 ――俺はあの場所に産まれたかったわけじゃない。

 ゴミくさい澱んだロンドンの路地裏の、汚れた地面に這い蹲って、陽の光など差さないあの場所に俺を産み落とさせたのは誰なのか。神が命を授けたというのなら、そんな場所に俺を放り出し、その上でその魂が汚れているなどとどの口が言うんだ、男はそう思った。

 そいつを探し出して必ず殺してやる、男はそう決めていた。




 【核】を襲おうという男の呼び掛けに応じた他の男どもは、男と同じ様に世界から弾かれた、のけ者達だった。

 【核】が居るという湖水の辺りとロンドンから南の、この二つの結界に挟まれたイギリス中部は、ベルト地帯と呼ばれていた。

 その中で、比較的湖水に近いエリアで狼藉を繰り返していたこのグループを取り込むのは容易い事だった。

 その時グループのリーダーだったあの茶髪の男は、自分を『(ラット)』と自己紹介した。

「名前はラットだがな、太った猫どもに捕まった事なんかないぜ」

 と、ヘラヘラと笑った男に、男は内心嘲りの笑みを浮かべていた。

 ――自分で自分を鼠と呼んでも、何とも思わない自尊心の無い奴なんか、恐るるに足らずだな。


 実際に男が一度コイツをボコボコにすると、あっさりとラットはこの男に従った。実質リーダーになった男は、自分の事を、レオと名乗って、【核】の襲撃計画を練ったのだった。

 だが、ようやく【核】の居場所を突き止め、おびき出した【核】をもう少しで殺せるというところで、男は突然自分が海上に浮いているのに気付いた。



 最初は何が起きたのか分からなかったが、そんな男の目の前に、大きなフリゲートが近づいて来るのが見えた。

 救助されたフリゲートの甲板(デッキ)で、男の眼前に立った艦長を名乗る人物は、切れ長の黒い瞳に油断のない光を浮かべた、一見温和そうだが内面は鋭そうな男だった。

 サヴァイアーと名乗った大佐は、まだずぶ濡れで座り込んでいる男の顔を覗き込むと、「ふむ」と小さく頷いた。


「中々いい面構えをしているな。鍛え甲斐がありそうだ」

「……どういう意味だ」

 睨み返した男を無視して、大佐は背後に直立で立っていた部下へ指示を出した。

「アデス中尉! 負傷者を含め全員デボンポートへ移送! 負傷者は海軍病院にて手当てを受けさせよ! 尚、怪我の無い者は、全てデボンポート海軍訓練校へ収容し、準備が整い次第、訓練生として訓練任務を命じよ!」

了解しました(  イエスサー)!」

 茶髪の若い士官が艦長に敬礼を返すと、呆気に取られている男を尻目に艦長は悠々と甲板を後にした。

「さーて。地獄のデボンポート訓練校へようこそ」

 アデスと呼ばれた若い士官は、まだ殆どがぐったりと横たわっている男達を眺め渡して、薄っすらと笑みを浮かべた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ