ストライクゾーン
食堂の端の方でゼミの資料をまとめていると、視界にジャージにビーサンの足元が入り込んだ。
「よお。真面目だな」
私はため息を押し込めて視線を上げる。そこには上下をジャージで揃えたそこはかとなくだらしのない雰囲気の男が立っていた。
「高木」
高木は許可もとらないまま正面の席の椅子を引いた。
「大変だねえ、特待生様は」
「明日発表なんだよ。何しに来たの? まさか授業?」
私が仕方なく机上の資料を一部端に寄せながら質問すると、高木は伸びをしながら答えた。
「なんか小テストあるって雅也から聞いた。腹減ったー」
「ふーん。てか、家で食べてくれば良かったのに」
「いいんだよ。自炊の労力とかを考えればこっちの方がお得なの。台所も汚れないし一石二鳥だよ」
「どうせ家にいても何もしないくせに」
「何もしない時間も必要なの! 買ってくる」
屁理屈だ。そう答える暇もなく、男は席を立って学生で賑わう販売スペースへと向かって行った。その後ろ姿は、冴えない紺色のジャージ姿だというのにハッとするくらいスタイルが良くてムカついてくる。確か、奴の祖父はスウェーデンだかノルウェーだかの人で、北欧の血が混じっている。やっぱりムカつく。
高木は唐揚げ丼を載せた盆を持って戻ってくると、再び正面の席に腰掛けた。
「ていうか聞いてくれ。雅也の彼女の話」
「うん」
「あいつらそろそろやばいってのは言ったじゃん。で、噂なんだけど雅也の彼女、他学部の奴と最近よく遊んでるらしい」
「うーん」
私は終始、手元の資料に目を向けながら相槌を打った。しかし高木は気にしていない。
「いや、まじ、なんで女子ってそういうことすんの?」
そこで私は顔をあげた。自然と眉をひそめる。
「私が聞いた話だと、雅也くんの方にも相当問題あると思うんだけど」
「それはそうなんだけど、だったらきっぱり別れればいいじゃん。なんで先にキープを作っちゃうかな」
私は背もたれに寄りかかると、シャープペンの頭を唇にあてた。
「……まあ、その子が恋愛体質で、彼氏が途切れるのが嫌なんじゃないの?」
「何、その恋愛体質って! つーかなんでほとんどの女は恋愛体質なんだよ。世の中大事なことはもっといっぱいあるだろ!」
「別にいいじゃん、迷惑かけてないんだから」
高木は私の言葉を聞くと、目を見開いて、眉根を寄せた。はぁ? って顔。
「それに巻き込まれる男はどうなんだよ!」
高木がヒートアップしてきたのを見て、目の前の男の顔を見つめながら無言でいると、高木はゆっくり真顔に戻った。
「悪い、興奮した」
高木の言葉に、お互いニヤッと笑う。
「や、でもさ、女の言う『男友達と遊んでるだけだよ〜』は絶対信用できないよな」
高木はどうしてもこの話題を続けたいようだった。箸で唐揚げをいじめながら、遠くの方を見ている。
「こないだしたっけ、男子と女子のストライクゾーンの話」
聞いたような気がする。確か、初対面の異性に出会ったとき、男子は相手の女子を、恋人にできる女子と女友達と論外に振り分けて、それ以降どんなに交流しようと入れ替えはない。女子は、論外との入れ替えはないけど、恋人にできる男子と男友達の入れ替えは起こりうる、という話。
「女は『男友達だから』とか言いながら恋人との入れ替えもありなんだよ。そんなの信用できるわけないだろ。ダメダメ、絶対ダメだわ」
どうも、この手の話題は愚痴っぽくなるようだった。私が放っておいても、高木は一人で「やームリだわー」とか言っている。
私は資料を見ながら呟いた。
「それ聞いて思ったけど、男女間の友情って、女の子の方が損だよね」
「なんで?」
「だって……女子は友達の男子のことを好きになるかもしれないのに、男子は絶対ないんでしょ? それに、仲の良い男友達とかいると、彼氏できなさそうだし」
高木が黙っているので、レジュメから目を上げると、高木は真剣な顔でこちらを見ていた。
「…….なに」
「お前……」
目を見張ったような顔で続ける。
「もしかして、俺のこと好き?」
「なんで、そうなんの」
私が半眼で睨むと、高木は「察してみた」と笑った。察っさなくてよろしい。
そんな風に話しているところに、テンションの高い声がかかった。
「竜征じゃーん! 大学で会うとか超珍しいな!」
声の主は、勝手に同じテーブルに座って高木に笑いかけた。股関節に恨みでもあるのかってくらい足を広げて座っている。私は内心げんなりしていた。これがあるから、高木と大学で話すのを避けているのだ。
「雅也。お前と食堂の組み合わせ久々だわ」
「いやいや、俺の方がまだ大学来てるだろっ。竜征の彼女もチーッス」
「こんにちは」
「彼女じゃないから」
高木は律儀に訂正しながら、手の甲をこちらに向けて追い払うような仕草をした。私は高木に甘えて席を立つことにする。
「じゃあ、ゼミの話し合いがあるのでここで」
私が会釈して背を向けると、高木の友人こと雅也は「はーいお疲れー」と投げやりに応えた。邪魔者がいなくなったとばかりに、弾んだ声で高木となにやら話し出す。近くにある女子大の名前が出ていたので、合コンかなんかの誘いだと思われる。
私は心の中で舌打ちした。しかし、こんなことで腹を立ててもエネルギーがもったいないだけなので、苛立ちを無理やり押し込めて、ゼミ発表の流れを考えることにした。
正直、高木の友人とは馬が合ったことがない。
高木とは、中学時代からの仲だ。いつも図書館で勉強していた私は、二次関数で詰まっているところに、高木から声をかけられた。
高木の説明の分かり易さは感動物だった。それ以降、ちょくちょく顔を合わせては話すようになり、十五歳の春、二人は同じ県内一の進学校に進学した。
その年の夏休みに、高木はグレた。彼の家はとてつもない金持ちらしく、両親からのプレッシャーへの反発だった。私はというと、家が貧乏過ぎて、進学校に入ったことを心の底から後悔している時期だった。高木はグレても、私たちは妙に話が合って、友情が終わることはなかった。
そして一昨年、私たちはめでたく県内の国立大に進学した。私は入学時特待生に選ばれたことから、高木はグレたことの延長で、大学のランクをかなり下げた。
高木は今、ほぼ家とは絶縁状態で、しかしかなりの額の仕送りを受けて生活している。ただ、そのお金に手をつけないようにするため、大学生じゃちょっといないレベルの額をバイトで稼いでいる、という話も聞いた。
だから高木は、大学生になってから全然学校に来なくなった。
次の日。ゼミの発表が終わり、ひと段落した私は、午後の時間を使って郊外のアウトレットモールに来ていた。そこら中、赤や黄色を使って「SALE」と描かれたチラシで溢れている。
アウトレットモールは貧乏女子大生の味方だ。セール中だが、平日だからか人はそこまで多くなかった。
服は半年に一度しか買わないと決めている。その代わり、買うときは時間をたっぷりかける。同じようなデザインでもより安いものを求め、お気に入りの店舗を幾つも回った。
気付いたら、外は夕暮れ時だった。私は目眩さえ覚えるような疲労を抱え、二階のベンチに座った。戦利品である紙袋も一緒だ。
このアウトレットモールは二階建てで、全体が吹き抜けになっている。二階のベンチに座っていると、ガラス製の柵から階下の人の流れがよく見渡せた。
飲み物でも買ってこようか。そう考えながらもボーっと下を眺めていると、一組の男女が目についた。肩を並べ、楽し気に話している。
その女性の方に、私は見覚えがあった。明るい茶色の巻き髪に、オフホワイトのトレンチコート。同じ学部の女子だった。そして確か、雅也の彼女。
話を聞いたばかりだったので、一瞬ギョッとする。ただ、見てみれば別に腕を組んでいるわけでもなく、そこまでやましい雰囲気は感じなかった。女の子の方が、買い物したであろう紙袋を自分で持っているのが印象的だった。
二人はそのまま、噴水横のベンチに腰掛けていた。どうしよう。高木にメールでもしてみようかな。
「竜征にメールでもすんの?」
スマートフォンを取り出した所でそう声をかけられ、私は驚き過ぎて持っていたそれを落としそうになった。横に視線を向けると、雅也がガラス製の柵に寄り掛かって男女の二人組を見つめていた。
同時に、バツが悪くなる。図星を当てられた。これは相当印象が悪いだろう。大して興味もないんだから、そんな俗っぽいことやめておけばよかった、と反省した。
「……ごめんなさい」
とりあえず謝っておく。
「認めんだ。まあこんなこと、当人達以外には笑いの種ぐらいにしかなんねーだろうけど」
どうやら彼は、私が考えているより傷付いているようだった。階下を睨む眼光は鋭い。
「……そんなことないよ」
「はあ〜〜。まじでクソビッチだわあの女」
雅也は私の言葉に応えることなく、そう溜息を吐いた。
「俺が悪いみたいな前提で別れ話しやがって。自分が新しい男に乗り換えたかっただけじゃねーか。ていうか浮気だろ、これ。よく平気なツラして俺のこと責められるよな。クソッ」
私はすぐにこの場から逃げ出したくなった。私は彼の愚痴を聞く恩も義理もないのだ。立ち上がったついでに、苛立ちに任せて口を開いた。
「新しい男の人とかっていうのは、ただのきっかけじゃないですか?」
「は?」
「元々別れる気で、そこにたまたま次の人が現れただけで、原因は違うところにあったんじゃないかなって」
「あんた、何も知らないくせに何言ってんの?」
雅也の声は明確な怒気を孕んでいた。それを聞いて、急激に私の中の苛立ちが萎えていく。私は自他共に認める小心者だ。それに、確かに雅也の言うことは正しい。ていうかだったら、無関係な私に愚痴るなって話だけど。
私はそろそろ耐え切れなくなって、足元の紙袋を拾い上げた。
「すみません。じゃあ、私はこれで」
雅也はまだ何か言いたそうな顔で口を開いたが、すぐに真顔に戻ると私から目を逸らした。
「あっそ」
最後まで微妙にイラっとさせてくれる。私は足早にその場を去った。
その後、アウトレットモールの隣のホームセンターで買い物をした私は、アウトレットモールの駐車場を突っ切って駅に向かっていた。
完全に買い物の順番を間違えた、と後悔していた。足腰はもうすっかりくたびれていた。
「ねえ」
先ほども聞いた声に再び引き止められ、私は見えないように顔をしかめた。声のした方を見ると、案の定雅也が立っていた。
「俺も今から帰るところなんだよね。あんた泉の方っしょ? 途中まで送って行くよ」
どういう風の吹き回しだろう。私が訝しげな顔をしていると、雅也は笑った。
「別にそんな警戒しなくても、なんもしねえよ」
正直、家までの道のりをこのいけすかない男と車の中で二人というのは、かなりの苦痛だ。しかし、と思う。この郊外のアウトレットモールまでは、電車とバスを乗り継いで片道千円以上かかる。それが浮くということについては、魅力を感じざるをえなかった。
足の疲れを勘案しても、この申し出はありがたいと言えばありがたい。
「乗れよ」
私が迷っているのを見て、雅也は助手席のドアを開けた。
自分を納得させる理由を探す。好きな相手ではないが、それを我慢してでも実利を手に入れるのが合理性というものではないだろうか。それに、高木と関わるなら必然的に雅也とも関わることになる。先ほどのことを引きずって、気まずい仲でいるのも良くないだろう。
送って貰うか。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
後部座席に荷物を置いて、助手席に乗り込む。
私がシートベルトをしたのを確認すると、雅也は車を出した。既に日は沈み、駐車場の入り口の黄色い光が周りを照らしている。
「あの、さっきはごめん」
私が謝ると、雅也はちらりとこちらに視線を寄越してから短く答えた。
「や、いいよ別に」
車内には再び沈黙が落ちた。仕方なく私の方から大学の話を振ると、思いのほか話は途切れなかった。
それから十五分ほど経っただろうか。あたりの景色に木々が増え出した。私は窓の外を見やると、雅也に尋ねた。
「ここら辺って、なんていうとこ?」
「さあ。あのアウトレットも、初めて行ったし」
雅也は前を向いたまま答えた。
「煙草吸っていい?」
雅也に聞かれ、私は小さく頷いた。元々、車内は少し煙草臭かった。
更に十分ほど車を走らせ、車は完全に木々に包まれていた。さすがの私もおかしいと思ったが、この林の中、降ろされてしまったらどうしようもない。
「あのさ、もしかしてだけど、道間違ってない?」
一縷の望みをかけてそう尋ねると、雅也は相変わらずこちらを見ないまま答えた。
「や、あってるよ」
そう言い切られてしまっては、反論もできない。そうこうする内に、舗装された道の所々に砂のようなものが見え始めた。ヘッドライトに照らされた視界の先に、林が開けているのが見えた。
到着したのは、小さな海辺だった。意図が分からず隣を見やると、雅也は手元でジッポーの炎を点けたり消したりを繰り返していた。その表情は暗闇に紛れ伺えない。恐怖感がふつふつと沸いてくる。
「ここ、穴場なんだよね」
雅也は呟いた。さっき、通ってきた土地の名前も分からなかったのに、何故こんな穴場を知っているのか、最早そんなことは聞ける雰囲気ではなかった。どうやったら雅也を刺激せずに、速やかに引き返して貰えるかを必死に考える。
「竜征とはどういう関係?」
急に高木に話が及び、私は戸惑いの視線を向けた。
「俺あいつのこと嫌いなんだよね。俺と似たり寄ったりのクズの癖に、どこか俺のこと馬鹿にしてるっつうかさ」
雅也が車に乗ってから初めて私の目を見た。暗闇の中で、彼の瞳には激しい怒りの感情が渦巻いているように見えた。雅也の腕が伸びてきて、私の右手首を掴んだ。
「……っ」
頭の中で心臓の音が鳴り響いている。普通、親しくない女子相手にこんなことしない。私はシートベルトを外すと、座席の上で限界まで後ずさった。恐い。
「いいだろ別に。もう男に迫られることもないかもよ」
もう片方の手首を掴まれると、体を引き寄せられた。雅也の頭が私の首筋に沈む。首元にぬめったものが触れ、私は半狂乱で掴まれた左腕を振った。
気色悪い。恥ずかしい。こいつにこんなことする権利ない。嫌悪と恐怖が入り混じった興奮で視界が歪む。
「……っ! ……っ!」
恐怖を極めると全く声が出なくなるのは、知識にある通りだ。私は雅也の左腕をドリンクホルダーに叩きつけると、雅也が怯んだ隙に右腕も振りほどき、ドアを開けて外に転がり出た。
体の側面に砂がついた。波の音がする。私は怪しく波打つ夜の海に背を向けると、林の中に向かって全速力で走り出した。
暗闇の中を、何度も転びながら足がもつれて進めなくなるまで走った。
防潮林だったのだろう。林はそれほど深くなく、木々の先に街灯の光が見えた。私はそこで力尽きて、木に背中を預けながらその場に座り込んだ。
尻に硬い感触がする。手を延ばすと、後ろのポケットに入っていたスマートフォンだった。私は震える手でそれを操作すると、電話帳から迷わず選び取った人物に電話をかける。
相手は十コール目くらいで電話に出た。
「た、かぎっ……!」
高木が何か言う前に、私は言葉を絞り出した。まだ、気道が狭められているような感じで、上手く声が出ない。
「岩屋……? なに、どうした!?」
電話の向こうでは、大勢の人のざわめきが聞こえていた。時折、指示を出す威勢のいい声も混じる。
高木のアルバイト先の一つである居酒屋だろう。高木の声も少し潜められている。
「っ…………」
なんと説明したらいいのだろう。そもそも、高木に電話を掛けるような場面だったのだろうか。私が何も言えないでいると、高木は言い聞かせるようにゆっくりと言葉を発する。
「大丈夫。落ち着いて。充電は大丈夫? GPS使って、位置情報俺に送って。迎えに行くから」
私は声を振り絞るようにして頷いた。電話が切れてから五分後くらいに、今度は高木から電話がかかってきた。
「四十分くらいで行くから。多分、近くにコンビニあると思うんだけど、行けそう?」
私は少し悩んだ末にそれを否定した。きっと今、私はひどい姿をしている。人目のあるところに出て行ったら通報されてしまうだろう。それは避けたかった。
「わかった。そこにいて」
高木との電話が途切れると、再び恐怖が這い上がってきた。雅也は、追いかけて来ていないだろうか。少なくとも、奴が車を降りた気配はしなかったが、不安は拭えない。
しかし、体は疲弊していて、既にそこから動く気力はなかった。
どうして、簡単に車に乗ってしまったのか。後悔が止まない。合理性がどうなんて言い訳して、単純に楽をしたかっただけなのだ。できれば関わりたくない相手だと、分かっていたのに。
放っておくと涙が幾筋も頬を伝った。荷物も全部置いてきてしまった。怒った雅也に海へと投げ捨てられてしまったかもしれない。もう、取り返せるとは考えない方がいいだろう。そもそも、これ以上関わりたくもない。
何度もスマートフォンの画面を確認し、高木からの連絡を待つ。電話が切れてから丁度四十分後、スマートフォンが震えた。ワンコールで電話に出る。
「今、林の入り口なんだけど。舗装された一車線の道。分かる?」
恐らく海へと出る際に通った道だろう。あの道へは、このまま左の方へ行けば出ることができるはずだ。私が返事をすると、高木は「電話切んなよ」と言った。私にとってもありがたい申し出だった。
しばらく行くと、舗装された道に辿り着いた。思いのほか出口までの距離は近く、街灯に照らされ、出入り口に立つ人の姿が見える。
「ついた。高木のこと、見える」
私が言うと、人影が動いた。こちらに気づき、駆け寄ってくる。
「岩屋」
思わず高木の二の腕のあたりの服を掴む。高木は私の顔を見て一瞬驚いたような表情をしたが、私の肩を引き寄せると、そのまま緩く抱きしめた。
「大丈夫」
背中を軽く叩きながら、何度も繰り返す。それにあやされるように、私の動揺は静まっていった。
「震えてる。寒かったでしょ」
頭の先を高木の胸に押し付けながら、頷いた。人の温もりに触れたが最後、甘えてしまいたいという誘惑が湧き上がってくる。それを抑えるように、私は高木の体を押し返した。
「ご、ごめん。誰に連絡したらいいか、迷って。あの……」
「いいよ。送る」
近くに車が停めてあるのだろう。高木は私の背中を優しく押した。
車に乗り込むと、高木とは違う匂いがした。急いで友人に借りたのだという。自分が方々に迷惑をかけていることに、身が縮む思いがした。
帰路につく中、高木は私に何も聞かなかった。私の方も、今話をしたら雅也を一方的に罵ってしまいそうで、あまり話をしたくなかった。
「今度、可愛くお礼言ってくれればいいから」
私を家の前で降ろして、高木は笑った。私もいつもの高木との会話の雰囲気に、いつもの素直じゃない笑みを浮かべる。真摯なお詫びと感謝の方法を考えながら、その場では静かにお礼を言って、高木とは別れた。
二日後。今でもあの場面を思い出すと嫌悪感で胸が重たくなる。しかし、それでも当時の衝撃を感情的にではなく話せる気がするくらいには落ち着いていた。
高木に予定を確認されて、その時間は家に居ると答えたところ、丁度その時間に合わせて家の呼び鈴が鳴った。古臭い電子音が家に響く。
扉の向こうには普通の格好をした高木が立っていた。驚いたことに、両手に女性服ブランドの紙袋を下げている。更に、こめかみの打撲痕を見て私は少し動揺した。
「中入っていい?」
私は頷いて、高木を我が家の簡素なリビングに案内した。
高木は紙袋を部屋の隅に置くと、リビングの椅子に腰掛けた。お茶を用意しようとすると丁重に断られたので、私も高木の正面に座る。
高木は少しの間黙っていた。普段から感情を表に出すタイプではないが、このときの高木はことさらに感情を出さぬよう努めているように見えた。
「昨日、雅也と会ってきた」
私は何も答えなかった。高木が見覚えのある紙袋を持っていた時点で、雅也と会って話をしただろうことは想定の範囲内だった。ただ私は、雅也が何を話したか、ということより、今高木が怒っている理由に意識が向いていた。
「バカだとは思ってたけど、あそこまでだとは思わなかった。一発殴ったら殴り返された。あ、それは俺らの問題だから、岩屋は気にしなくていいよ」
私が口を開くと、高木はそう言って私の言葉を制した。
相変わらず、例えるなら嵩を増した川のような、こちらを不安にさせる目をして、続ける。
「ごめん。俺があいつと友達だったせいで、嫌な思いしたよな。あいつが俺のことどう思ってるのか知ってて、ほっといてた。岩屋、ごめん」
「いやっ……高木のせいじゃないよ。私も、なんの警戒もしないまま車に乗ったし」
「普通、同じ大学の顔見知りの奴がそんなことしてくるなんて思わねーよ」
それでも、と思った。それでも私は馬鹿だったのだ。相手と仲良くなる気もないくせに、親切にただ乗りしようとしてしっぺ返しを食らった。困った顔をしてみせると、初めて高木の表情が少し緩んだ気がした。
「まあ、ね。乗るんだーとは思ったけどね」
「高木……今度ちゃんと、お礼するよ。何か食べたいの、ある?」
「なんで女の子助けて奢られなくちゃなんねーの。絶対やだわ」
フォローを入れたつもりだったが、失敗したようだ。高木の声が棘を帯びる。
喧嘩は何度かあったが、こんな風に一方的に腹を立てられるようなこと、今まであっただろうか。少なくとも記憶にはない。私の中に不安と苛立ちが芽生える。
「あのさ……高木、なんか怒ってる?」
ストレートにそう尋ねると、高木は机の上に視線をやったまま答えた。
「怒ってるわけじゃない」
「でも、怒ってる人の態度だよ」
「怒ってんじゃねーんだよ」
「いや、関係ない人が今の高木見たら絶対『この人怒ってる?』って言うって」
「怒ってる態度かもしんないけど、怒ってないから」
「じゃあ今怒ってる態度になんの意味があるの」
「意味は……なくはないけど……」
「何? わかんない」
「いや、意味なんてねーよ。つーか……や、この流れやばいわ」
「は? 意味あるって言ったのに」
「あるとは言ってねーよ。てかお前いつもよりしつこくね?」
「高木がいつもと比べてかなり変なんだよ」
「やーそれは……いや、待って」
「な、なに。なんで立ち上がるの」
「俺そろそろ帰っていい?」
「はあ?」
「とりあえず、今は黙って見逃して」
「見逃すって……ってほんとに帰んの?」
「あ、つか紙袋足りてるか確認して貰わなきゃ駄目なんだった」
「いやいや、落ち着こうよ。とりあえず座って」
再び椅子に腰掛けた高木は、さっきの態度とはうって変わって、落ち着きなく何度も座り直していた。
「や……高木がいいなら、いいんだけどさ。私が何か怒らせたんじゃないかって、不安だっただけだから」
私が高木の方を伺うと、横目で目を逸らされる。
「今は絶対違うんだよ」
「はい?」
「おれがしたい話をお前にするタイミング」
「別に、こちらはいつでもいいですけど……」
「あーーーーー。くそ。話が進まねえ」
高木は頭を掻き乱すと、椅子に真っ直ぐ座り直して私の目を見た。高木の目の中には、力強い意思が灯っているように見えた。頑固な人の目だ、と思う。
「じゃあ言いますけど」
「どうぞ」
「おれは岩屋のことが好きなんだよ」
私は高木の真剣な眼差しを受け止めながら、完全に動きを止めた。一緒に思考も止まる。
「はっ……。…………」
「気付かなかったっしょ」
どこか得意げな言い様に、しかし反論する言葉も持ち合わせず、私は黙った。
「怒ってるように見えんのは……八つ当たりだよ。本当はあんな奴と岩屋を引き合わせた自分に一番ムカついてるってだけ。ごめん」
「や……あの……」
なんとか声を絞り出して、しかしその先に続ける言葉は思い浮かばなかった。高木のいつもと変わらない顔色に反比例するように、顔に熱が集まるのが分かって、それがまた恥ずかしく、悪循環となる。
「こんな風に、岩屋が参ってるときに言いたくなかったんだけど」
高木が後ろめたそうに視線を落とす。しかし私の中では、この度の衝撃で先日のことは全て吹っ飛んでいると言ってよかった。私を車で連れ去った男のことなんて記憶の彼方だ。今はただ、目の前の真剣な顔をした男に何と言うか、それだけを考えていた。
「高木……男子のストライクゾーンの話で、女友達はそれ以上にならないって言ってなかったっけ……?」
「岩屋のこと、女友達だと思ったことなんてねーよ」
高木はそう言って目を細めた。これまた、顔面を殴られたかのような衝撃を受ける。
私の中で、高木は友達以外の何物でもなかった。気の許せる数少ない一人だったのだ。
「岩屋の中でおれが友達以外の何物でもないのは分かってたけど」
簡単に言い当てられる。
「中学んとき、図書館で何回も岩屋のこと見かけて、多分そのときから好きだった。なんつーの? おれはずっと嫌々勉強してて、でも岩屋は机に向かってるときも楽しそうだったんだよね。おれとは違う所を見てるんだって思って、憧れた」
「過大評価だって……」
「八年くらいの付き合いだけど、そうは思わねえよ」
心臓の音がうるさい。
「あー……ストライクゾーンの話だけど、男は女を自分の中で分類すると、そこから移動しないって言ったよな。岩屋が受験近くなって見た目に全然気使わなくなった時も、高校入っていきなり捻くれだして可愛げなくなった時も、おれは岩屋のこと、馬鹿みたいに好きだったよ」
八年。八年か。とても長い。そんな長い間、高木はどんな感じだったけ。私はどんな顔して高木と話していたっけ。何故か今は、思い出すのが難しい。
私が応えを返せないでいると、高木は静かに立ち上がった。
「こんなタイミングだし、返事は落ち着いたらでいいから」
服足りなったら連絡して。そう言って高木は背中を向ける。私は高木にお礼を言うこともできず、その背中を黙ったまま見つめていた。
「じゃあね。あ、鍵閉めてね」
高木がドアを開け、玄関から外へと出て行く。私はそれにうんと頷いただけで、それ以外に何も言えなかった。
服を確認しなきゃ。ちゃんとお礼もしなきゃ。そういえばもうすぐ母の仕事が終わる時間だ。買い物を頼むメールをしなきゃいけない。今夜はカレーだから、下ごしらえも始めないと。銀行にも行きたかったけど、十五時を過ぎてしまったな。
思考が氾濫する中で、それでも私は、あのストライクゾーンの話を思い出していた。
女子は、男友達も好きな人に昇格することがあり得るという。
それは本当だろうか?