旦那が寝ている間にスネ毛を剃る妻の話
常夜灯のオレンジ色が部屋を染める中、布団をはだけたその先にスネ毛が横たわっていた。
スネ毛だ。
脛と言うにははばかられる。あまりに濃くて黒々とした毛達。
自分達がこの脛の主だと言わんばかりにうっそうと生い茂っている。脛がなければ自分達はスネ毛ではないという矛盾があるのに、そう思わせない存在感。ピンっとまっすぐに張られているものもあれば、うねうねと縮れているものまで様々だ。一つ共通なのは、脛の毛穴から出ていることだけ。
気付いたら口の中に唾が溜まっていた。凝視していて他のことを忘れてしまっていた。唾を飲み込んで気を引き締めなおす。私は今、こいつらを狩るマシンとなるのだ。そのために、極力感情を排除して、論理的に思考を進めなければいけない。そうしなければ、これからすることの徒労感に押し潰されそうになる。時計を見ると深夜一時。どうしてこんな時間に起きて、旦那とはいえ他人のスネ毛を剃ろうとしてるんだろうか。明日も仕事なのに。旦那はピクリとも動かないで寝息だけ気持ちよさそうに立ててるし……ボーナス入ったら車買ってやるんだから。
瞼を閉じて、念じる。
私はマシン。
私はマッシーン。
スネ毛剃りマシン。
瞼を開ける。
私はスネ毛剃りマシンだ。
改めて、前のスネ毛を見る。布団に横たわっている脛はピクリとも動かない。最近、仕事の疲れから私との夜の営みも忘れて、ただ寝るだけの男と化してる。それだけならまだ良いけど、旦那は、このスネ毛達を家にまき散らしていた。部屋掃除を終えた後に掃除機をかけてきた後ろの床を見て、落ちているスネ毛。掃除した意味を否定される絶望感に堪え切れず、何度となく「剃れや」と言ったが、旦那は受け入れなかった。根拠のない大丈夫という言葉だけで。更に、湯船にお湯を張っておいて疲れた体を癒してもらおうと先に入ってもらったら、私が入ろうとした時には湯船にスネ毛がうようよ漂っていた。
「剃れや」と言っても「先に入っていいよ。俺は残り湯でいい」と聞かないし。
もう、離婚か毛を剃るかしかない。それくらい嫌なのに旦那は気付いてくれない。
離婚は正直、したくない。スネ毛以外は良い夫なんだから。毛深いだけで罪深い。
また、やり直したい。
だから、剃ってやるのだ。
お前がやらないなら私がやる。
お前の毛を剃りつくしてくれる
横に置いた髭剃りを手に取る。旦那の髭剃りをさりげなく拝借し、隠し持っていたものだ。髭用だが、同じ毛なのだからスネ毛も同じだろう。
足を持ち上げ、新聞紙を下に敷く。力が入らない人間の重さは相当なものだ。片足ずつ順番に乗せていく。その間、一つも身じろぎしないのは助かった。寝相は良いのだから、そこには感謝する。
乗せ終えてから、髭剃りのシェービングクリームを吹きかけた。これも髭用だがスネ毛でも大丈夫だろう。
白い泡が脛を覆い尽くしたところで、深呼吸。
お前達を……狩る。
もう一度だけ心の中で呟いてから、髭剃りの刃を足首に置き、膝小僧のほうへと進めていった。
ゾリゾリと毛が毛根から切り離されていく音。白い泡の中に生まれる一筋の肌色の道。泡と毛の先に見える本当の脛だ。髭と違って長いため運よく狩りから逃れた毛もあるが、見た目七割八割は髭剃り刃に絡め捕られていた。
一つ息をついて剃刀を脛から離す。目の位置に上げた髭剃りには人差し指くらいの長さのスネ毛がしがみついていた。元々光源の関係から銀色には見えないが、それでも毛が絡まりすぎて使用前の姿を完全に失っている。かすかに見える刃の模様が、ホラー映画の髪の長い幽霊と被った。長い髪の間からぎろりと覗かせてくる目に似ている。
一度立ち上がり、洗面所にスネ毛を落としに行く。水を出して刃を差し出すと徐々に排水溝へ吸い込まれていくが、しっかりと絡みついて取れないものも数本あった。しっとりと濡れたそれを摘まんで、引き抜く。スネ毛を肌から直に抜くような錯覚。胸の奥からこみ上げる達成感。快楽に身をゆだねようとして、まだ終わってないことを思い出す。
いけない。私はマシーンなのだから。
風呂場から洗面器を持ってきてお湯を入れる。こぼさないように寝室まで持ってきて、狩りを再開した。
一筋生まれていた肌色の隣に刃をあてて、同じ要領で膝小僧をめざし刃を滑らせる。ザリザリと音を引き連れながら切られていく毛。長いために上手く切れないのか、前進に多少の抵抗感がある。それでも最後には力で押し切り、刃は黒い森を伐採していく。
二度目のラインには多少赤いものが混じっていた。どうやら力を入れて切ったから肌まで傷つけたらしい。まあ良い。犠牲はつきものだ。
気にせず作業を続ける。同じように刃をあてては滑らせ、滑らせ終っては洗面器で毛を取り、あてては滑らせる。
何度も何度も足首と膝の間を往復する。
一度終わるたびにスネ毛が消えていく様は、未開の土地を切り開いていく開拓者のようだ。全てが明らかになった時、出てくるのは綺麗な肌色に違いない。そうすれば掃除機で床の埃を吸い取っていく後ろで毛が落とされることもない。
スネ毛の黒で覆われていた明るい未来が、ほっこりと顔を出すような気がした。
右足の白い泡を取りきった時、存在していたのは毛が多少残っていても見間違うことなき人間の足。
遂に私はやった。この家を汚している元凶を狩ってやったのだ。
残りは左足。狩り終えれば私の役割は完了する。毛狩りマシーンとしての私の役目が。
気持ちを新たに左足へとシェービングの泡を吹きかけようとして、唐突な違和感を覚えた。
何かが私を狂わせる。マシーンとしての私が、人間としての私に浸食されていく。
「え……」
声が漏れてしまった。でも、洩らさざるをえなかった。
剃り終えたはずの右足。そこには、チョコチップのように点在する黒い点があった。
「もう……こん……」
毛根。それはスネ毛の源。スネ毛だけではなく、すべての毛にとっての命。たとえ表面上狩られていても、毛根が生きていれば再び生えてくる。それは事実。
それはもちろん理解していた。私も無駄毛処理をする時に気にしてしまう。
だから旦那のスネ毛を剃っても、しばらくしたらまた生えてくるだろう。その時は今度こそ自分で剃ってもらうつもりだった。
しかし、旦那が自分で剃りたがらない理由が分かってしまった。
この絵面は、気持ち悪い。
小さな虫が所狭しと付着しているかのようだ。あるいは癌に進化しそうなホクロが散らばっているかのようだ。
それだけの黒い温床から、またにょきりとスネ毛が一斉に生えてくるのだろう。
ふと、テレビでたまにやっている定点カメラでのゆっくりした映像で思い浮かび、吐き気がしてきた。一本一本のスネ毛があったことでこの点が繋がりあい、見た目を隠していたのだろう。旦那は気付いていたに違いない。確か、初めて繋がった夜に、中学生から毛深かったと言っていた。中学生という多感な時期に同年代より毛深いという事実に耐え切れず、剃ってみたに違いない。そして、さらに醜悪な脛になったことに絶望したに違いない。だから、頑なに剃るのを拒んでいたのだ。
旦那はこうなることを防ぐために、私の罵声を受け入れてきたんだ。
申し訳なくなって、涙が出てきた。髭剃りを握りしめる手に落ちていく。
「ごめんなさい……私……自分の嫌だって気持ちだけで……」
「いいよ」
声のしたほうを向くと、旦那が目を開けてこちらを見ていた。恥ずかしくなって顔をそむける。
多分、今の私は最低の顔をしているに違いない。自分の不快な気持ちを鎮めるために勝手に旦那のスネ毛を剃り、途中でその意味することに気付いた哀れな女。そんな風に旦那に映っているに違いない。
「ごめんなさい……私は、あなたに合わせる顔が」
「いいよ。俺もちゃんと理由を言わなかった。恥ずかしかったんだ。こっち向いてくれよ」
ゆっくり振り向くと、旦那は笑顔を向けてくれていた。私の頭の悪い行為にも、怒っていないらしい。
その顔はいつも恰好よかったけど、今は更に神様みたいな神々しさが見えた。室内光がオレンジ色だからかもしれないけど。
なんて心の広い旦那だろう。私にはもったいない。やっぱり、好きになってよかった……スネ毛を落とすからって怒らずに、いくらでも吸い取るって言えば良かった。
「あなた。ごめんなさい。私が間違っていたわ。これから、あなたのスネ毛は私が掃除機で吸い取ります」
愛しい気持ちが溢れてきて、旦那の隣に寝転がる。もうスネ毛狩りなんてやらなくていい。考えてみればもう深夜二時だ。明日は仕事だけど、今なら久しぶりに男女の営みができるかもしれない。いや、今の気持ちの高ぶりならやらなければいけない!
「あなた……抱いて?」
そっと旦那の布団にもぐりこもうとする。旦那の足元に敷いておいた新聞ががさりと音を立てたり、したけど今の私は止められない。布団の中で、旦那と久しぶりの営みを楽しむんだ。
「今日の私は好きにして?」
「……その前に左のスネ毛何とかしてくれよ」
布団が急にめくられて、二人の体が露わになる。
旦那が掲げた左足は、まだまだもっさりとスネ毛が茂っていた。
……私の罪滅ぼしは、まだ終わりそうになかった。
スネ毛濃い人って大変ですよね