壱
昨日、この街に越してきた。
もうあそこには、あの部屋にはいたくなかったから。
家具や電気製品は置いてきた。
ベッドは捨てさせてもらった。
置いていったりしたら、あいつが喜ぶだけだ。
私が買った、ダブルベッド。
予定より早く仕事から帰ったあの日、知らない人が寝ていたあのベッド。
彼女の髪は真っ黒で、艶のあるショートヘアだった。
あいつが好きだって言うから髪を伸ばして、明るい色にして……あの女の子の髪は、出勤前に行きつけの美容院で巻き髪にしている私の痛んだ髪とは大違いだった。
「……あれ、高かったのに」
あのベッドをあいつがまた誰かと使うなんて、考えただけで吐き気がする。
お店で一目ぼれしたあれを買うために、私は自分でも驚くほど熱心に働いた。
貯金が無かったから、歩合制のお給料をいつもより多く稼ぐために頑張った。
この私が寝坊も遅刻も欠勤も無くお店に通った。
でも、捨てた。
惜しそうにこっちを見るあいつの視線を感じつつ、粗大ゴミとして業者に廃棄してもらった。
現在は寝袋愛用中。
これはなかなか快適で、ずっと寝袋でもいいかもって思ってしまう。
「……お腹、すいた」
築14年の1LDKのアパートは、リフォームしたばかりで綺麗だった。
駅から徒歩15分、日当たり良好。
前に住んでた3LDKマンションと比べるとさすがに狭いけれど、私一人なら十分……すごく気に入った。
寝転んだまま全てが見えるこの狭い空間は、なぜかとても安心できた。
「もう4時か。ご飯、買いに行こうかな」
そういえば。
今日はお昼ご飯を食べてなかった。
朝は何を食べたっけ……コンビニで買ったメロンパンだ。
「……」
稼いだら、あればあるだけ使っちゃう生活をずっとしてきた私に貯金なんてほとんど無くて。
引越し費用が必要だったから、売れそうなものを担いで鼻息荒く初めて質屋に行った。
あんなに高かったバッグも靴もアクセサリーも、売ったらたいしてお金にならなかった。
神経質そうな男性店員が計算機でひょいっと提示してきた額は、私の予定よりゼロが1個足りなかった。
高価買取なんて、看板に書くなって思った。
「…………はぁ…」
寝袋にすっぽり入り、蓑虫状態で転がっていた私はもそもそと行動を開始した。
やかんすらなくて、お湯さえ沸かせない。
キッチンで使うものを……おたま1つ持ってこなかったことを、ちょっと悔いていた。
「……やかん、かぁ」
父親の車以上に高かったベッドより、898円で買ったやかんのほうに未練を感じる自分を笑う気にもなれなかった。