第26話 それぞれの信念
「……殿下、ご無事ですか」
鬱蒼と生い茂る大樹海の木々、その死角から突然届いた声に、私は肩を強張らせた。
恐怖に胸を締めつけられながら、私はゆっくりと声のした方へ視線を向ける。
「…………あなた」
そこには、葉の擦れる気配すら感じさせない静けさがあった。
木漏れ日の逆光のなか、まるで大樹海の影そのものが形を持ったように、一人の男が立っている。
深緑の外套。
その背には、漆黒の弓。
城で何度も見た、隙のない佇まい。
追手だと思った瞬間、最悪の結末が頭を過った。
けれど、男は私へ近づくと、泥にまみれた私の前で静かに片膝をついた。
「……お静かに、シャロン殿下。どうか怯えないでください」
男がゆっくりと深緑のフードを外す。
逆光の影から現れたのは、城の片隅で何度も私を見守ってくれていた、見慣れた顔だった。
ヴァルキア王国近衛兵団長――ギルバート。
「ギル……バート?」
震える唇から、ようやく名前がこぼれた。
「はい。シャロン殿下」
ギルバートは跪いたまま、私を真っ直ぐに見つめている。
「……あなたも裏切り者だったのね」
カイルから突きつけられた、あの手紙が頭を過る。
「今度は、お父様からあなたが私を狙うように言われたのかしら……」
「いえ。そうではありません」
「そんなの信じられるわけがないわ!」
私は涙に濡れた琥珀色の瞳で、目の前の男を睨みつけた。
「どうせ、お父様から私を連れ戻せとか、害そうとする命令を受けているんでしょう! ……もう、何もかも信じられないわ!」
声が震える。
自分でも分かっていた。
目の前のギルバートが、城で私に向けていた視線と何も変わっていないことくらい。
それでも、今の私には、それを信じることができなかった。
「……シャロン殿下のお気持ちを考えれば、そう感じられるのも無理はございません」
ギルバートは、私の言葉を否定しなかった。
「……私の話を聞いていただけないでしょうか」
「じゃあ、今すぐ湖畔で戦ってるシルヴィアお姉様とアルノを助けてよ!」
私は涙を拭うこともせず、叫んだ。
「早くしないと、あの二人が……!」
「……私の力では、出来ません」
ギルバートは静かに答えた。
「申し訳ございません」
「…………」
「ですが、助ける機会があれば、なんとしても助けたいと思っております。ですから、まず私の話をどうか……」
そう言って、ギルバートは背負った漆黒の弓へ一度だけ視線を落とした。
その仕草に、私は気づいた。
彼は、自分の力を知っている。
今、湖畔にいる勇者たちと正面から戦えば、自分がどうなるのかも。
「……分かったわ。話しなさい」
私は涙を拭い、辛うじて声を絞り出した。
それでも、ギルバートから視線を逸らすことはできなかった。
その瞳に宿る光は、城で何度も見たものと変わらない。
少なくとも、私にはそう見えた。
――でも、本当に信じていいの?
お父様も、カイルも。
今まで信じていたものも、全部私を裏切った。
だから、ギルバートだけは大丈夫だなんて、今の私には到底思えない。
それでも今の私には、彼以外に縋るものがなかった。
「ありがとうございます」
ギルバートは静かに頭を下げた。
「私は、確かにグスタフ様より密命を受けておりました。王命である以上、近衛兵団長として従うほかありませんでした」
「なによ! そんなの、ただの言い訳じゃない!」
胸の奥に溜まっていたものが、また込み上げてくる。
「……言い返す言葉もございません」
ギルバートは、ただ受け止めた。
「ただ、これだけは言いたいのです」
その声に、初めて僅かな強さが宿った。
「王命に従うことと、王国を守ることは同じではないと」
大樹海の奥から冷たい風が吹き抜け、深緑の外套を揺らす。
「今は、私自身の判断で動いております」
私は、その言葉を黙って聞いていた。
王命ではない。
誰かに命じられたからでもない。
ギルバート自身が、今ここにいる。
「……なら、早くシルヴィアお姉様の所に連れていきなさいよ」
私は縋るように言った。
「早くしないと、あの二人が……」
白銀の長髪を揺らしながら、今も勇者の前に立っているはずのお姉様の姿が、頭から離れない。
「……承知いたしました」
ギルバートは立ち上がった。
「行きましょう。シャロン殿下とシルヴィア殿下は、私がなんとしてでもお守りします」
その言葉に、私は顔を上げる。
ギルバートは湖畔の方角を見据えていた。
その横顔には、迷いがなかった。
私は、その背中を見つめながら、胸の奥に残る疑念を消すことができないまま、それでも彼の後を追って歩き出した。
――今は、信じるしかなかった。
――その少し後の湖畔。
「じゃあ、そういうことで話は終わりでいいかな?」
俺は白銀と真紅の魔眼を静かに細めながら、目の前のアイリスへ問いかけた。
左腕のなかでは、傷の癒えたシルヴィアが俺の胸元に寄り添い、そのサファイアの瞳でアイリスを見つめている。
「……ええ。とりあえず、と言ったところね」
アイリスは聖槍ミストルティンの槍先を地面へ向けたまま答えた。
先ほどまで俺たちへ向けられていた殺意は、もうない。
だが、完全に消えたわけでもない。
今はただ、その槍先と同じように、彼女自身の答えがまだ定まっていないのだろう。
お互いがようやく矛を収め、次の話へ向かおうとした、そのときだった。
「――火炎矢――」
大樹海の茂みの奥から、突然声が響いた。
「…………っ!」
アイリスが青紫色の瞳を見開く。
同時に、森の奥から炎を纏った矢が一直線に飛び出した。
俺は反射的に右腕を上げる。
白銀の防壁を展開しようとした、その瞬間――。
「――水球弾――」
別の方向から、低く重い声が響いた。
次の瞬間、大樹海の奥から巨大な水流が放たれた。
濁流を凝縮したような水の奔流が、炎の矢へ正面から迫る。
二つの魔法が衝突した瞬間、炎は大量の水によって包み込まれ、膨大な熱が白い蒸気へと変わった。
始まりの湖畔を、一瞬で濃い霧が覆い尽くす。
俺は右腕を下ろした。
「……誰だ?」
霧の向こうから、緑色の髪を揺らしながら一人の男が姿を現す。
カイルだった。
「な……っ」
カイルは、自分の魔法を打ち消した相手を見て、言葉を失う。
その背後から、もう一人の男が姿を現した。
深緑の外套。
漆黒の弓。
そして、その背中に縋るようにして立っている金髪の少女。
「……私だ、カイル」
深緑のフードを外し、ギルバートは静かに告げた。
「もう辞めろ。もう終わったんだ」
「……なっ……ギル……バート……!?」
カイルの顔が強張った。
ギルバートは背負った弓へ手を伸ばすこともなく、ただ真っ直ぐにカイルを見つめている。
「これ以上の戦いに意味はない」
その声には、怒りもなかった。
「そこの団長と一緒に……ああ、今は勇者だったな。アイリスと一緒に帰るといい」
「君に話してもしょうがないな」
カイルは、ギルバートからアイリスへ視線を移した。
「……俺たちは、魔族を殺す」
その言葉に迷いはなかった。
「どうしたんですか、アイリス団長。あなたが誓った想いは、どこに消えてしまったんですか」
アイリスは、何も答えなかった。
「カイル、あなた……どうしてここに? 撤退したんじゃなかったの?」
「アイリス団長を見捨てて逃げるなんて、私には出来ませんよ」
「……ごめんなさい、カイル」
アイリスは聖槍を握ったまま、静かに目を伏せた。
「今の私には……迷いがあるわ」
「……そんな」
カイルの表情が歪んだ。
「……あなたに騎士の矜持はないのですか!」
その言葉に、アイリスはゆっくりと顔を上げた。
「黙りなさい」
声は静かだった。
けれど、そこには白亜騎士団団長としての強さが戻っている。
「これは、白亜騎士団団長としての命令です」
アイリスはカイルを真っ直ぐに見つめた。
「上に報告したければ、すればいいわ」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「……分かりました」
カイルは奥歯を噛み締めるようにして、低く答えた。
「従います」
ギルバートは何も言わなかった。
アイリスも、それ以上は何も言わない。
ただ、三人の間に、それぞれの立場から生まれた異なる沈黙が残っていた。
「じゃあ、アルノ・ヴァルハイト」
アイリスが俺へ向き直る。
「さっきの話の続きだけど。また行くから、待ってなさい」
聖槍ミストルティンを静かに下ろした彼女の瞳には、まだ迷いが残っていた。
けれど、その視線だけは真っ直ぐだった。
「ああ。気長に待ってるよ」
俺は穏やかに答えた。
「……シル、俺たちは行こう」
「ええ、分かりました」
シルヴィアは俺の腕のなかで小さく頷いた。
白銀の長髪が湖畔の風に揺れる。
俺はその温もりを確かめるように左腕へ僅かに力を込め、シルヴィアと共に歩き出した。
「カイル、私たちも行くわよ。撤退するわ」
アイリスの声が湖畔に響く。
「……かしこまりました」
カイルは静かに剣を収めた。
その表情から、迷いは消えていなかった。
ギルバートもまた、シャロンを連れて森へ向かう。
誰も、もう剣を振り上げなかった。
誰も、槍を突き出さなかった。
冷たい風が、湖畔を抜けていく。
俺とシルヴィアは城へ。
アイリスとカイルは帝国へ。
そしてギルバートとシャロンは、ヴァルキアへ。
三つの背中が、それぞれ別の方向へ遠ざかっていく。
同じ場所に立っていたはずなのに。
同じ「守る」という言葉を掲げていたはずなのに。
その意味は、誰一人として同じではなかった。
――それでも、誰もが自分の信じるものへ向かって歩いていた。




