第24話 白銀の瞳
「誰か……誰か助けてよ……」
涙でぐしゃぐしゃに歪む視界のなか、私はただがむしゃらに大樹海の茂みをかき分けて走っていた。
左右に高く結んだ金髪のツインテールは激しく振り乱され、飛び出した枝葉が容赦なく肌を引っ掻いていく。けれど、そんな痛みなど今の私には感じている余裕すらなかった。
お父様を信じて、家族がもう一度一つになる暖かい未来だけを夢見て運んできた手紙。
それが、大好きなシルヴィアお姉様やアルノを罠に嵌めるための偽りの書状だったなんて。
恐怖に膝を震わせながら振り返ったあの湖畔には、大国の勇者と、その副団長が矛を構えている。
自分が新たな悲劇の扉を開けてしまった。
その底知れない絶望と罪悪感に押し潰されそうになりながらも、私は必死に古城の方角を目指し、泥に足を取られながら走り続けていた。
そのとき――。
遥か背後の始まりの湖畔から、空間そのものが打ち抜かれたかのような凄絶な極大魔力の爆発が大樹海へ轟き渡り、遠く離れた場所にまで大地と木々を震わせる衝撃が伝わってきた。
「……っ!? あ……お姉様……アルノ……っ!」
私は堪らず足を止め、恐怖に顔を真っ青に染めながら、激しく息を切らせて振り返った。
大樹海の奥から冷たく吹き抜ける風が、乱れた金髪を虚しく揺らしている。
遠く離れた森の奥にまで伝わってくる、あまりにも大きな衝撃。
今、あの場所で、私が置いてきてしまった二人が、勇者たちの矛によって傷つけられている。
無事かどうかも分からない。
(私が……私が手紙なんて持ってこなければ……!)
琥珀色の瞳から、大粒の涙が次々と溢れ落ち、頬を伝って服を濡らしていく。
二人の間に横たわっていたはずの穏やかな平穏を、自分のこの両手が壊してしまったのだ。
「誰か……お願いだから、二人を助けて……っ!」
届くはずのない祈りが、一陣の風とともに森の奥へ消えていく。
その直後だった。
「……殿下、ご無事ですか」
鬱蒼と生い茂る大樹海の木々、その死角から突如として届いた声音に、私は息を呑んだ。
恐怖に心臓が大きく脈打ち、私は恐る恐るその方角へと視線を向ける。
「…………あなた」
そこに立っていた人物を見た瞬間、私の涙で濡れた瞳が大きく揺れた。
――その一方、始まりの湖畔。
「……シル。お前、何を……っ」
俺の喉の奥から、驚愕と張り裂けんばかりの悲痛な声が洩れ出た。
自分の上に覆い被さってきたシルヴィアの細い身体が、俺の胸元へ生々しい体温を伝えている。
乱れた白銀の長髪が幾重にも重なって俺の視界を覆い、その隙間から見えるサファイアの蒼眼からは、大粒の温かな涙が絶え間なく零れ落ち、俺の頬を濡らしていた。
(俺は……俺は何を勘違いしていたんだ……っ!!)
胸の奥が、完膚なきまでの絶望に襲われる。
あの日、古城の中庭での特訓は一体なんだったというのだ。
いかに天より授かりし不条理な矛が相手であろうとも、この魔眼と防壁を以てすれば、どれほどの猛攻が来ようとも完璧に耐えきり、隣にいるシルヴィアを無傷で守り抜くことができる。
俺は、そう思っていた。
それなのに、現実はどうだ。
俺の盾も剣も水飛沫のように霧散させられ、腹には穴が開き、右腕と右足を深く傷つけられて地面に這いつくばり、守るべきはずの彼女は血を流し、身体一つで俺を守っている。
俺の抱いていた驕りと全能感は、ただの酷い勘違いでしかなかったのだ。
「何のつもりかしら。早く退きなさい」
俺たちの頭上から、アイリスの冷淡な声音が、二人の間に流れる重苦しい沈黙を切り裂いて響いた。
自らの横で結ばれた赤い髪を風に揺らしながら、その曇りのない青紫色の瞳のまま、一切の悪意なく、ただ聖槍ミストルティンの純白の槍先を真っ直ぐに俺たちへと構え直している。
(俺は、一体何をしているんだ……)
俺は誰かを守るために盾を選んだ。
どれほど強大な矛を向けられようとも、俺がそのすべてを受け止めればいい。
そう信じていた。
なのに今、俺を守るためにシルヴィアが盾になっている。
(シルは、諦めてないのに、何故俺が諦めている! 諦めるなら、死んでから諦めろ。まだ、死んでいない。シルだけは、絶対に守ると決めただろう)
ただ今の俺では、魔力が足りない。
俺一人では、どうすることもできない。
「……シル。すまない、血をくれないか」
俺の胸元に零れ落ちていた白銀の長髪が、微かに揺れた。
「……はい。……私の血を吸ってください。私の全てを、あなたに捧げます」
その言葉とともに、シルヴィアは俺の胸元に顔を埋めたまま、自らの意思で乱れた白銀の長髪を白磁の手でそっとかき分けた。
露わになった彼女のうなじ、そして月下香の香りを纏う温かな首筋が、ぼやける俺の視界のなかに鮮烈に映し出される。
サファイアの蒼眼を優しく細め、すべてを俺に委ねて微笑む彼女の表情には、吸血鬼の牙に対する恐怖など宿っていなかった。
(シルを守る。――今度こそ、俺の全てを賭けて絶対に守る!)
唯一絶対の誓いを胸に、俺は残された最後の力でシルヴィアの細い身体を抱き寄せると、その白く狂おしい首筋へ、躊躇うことなく自らの真祖の牙を深く突き立てた。
「っ……、あ……っ……」
シルの薄い唇から微かな吐息のような艶めいた声が洩れ、二人の間に流れる時間が静かに止まった。
牙を通して、彼女の熱く、純度の高い鮮血が、俺の干からびていた体内へなだれ込んでくる。
次の瞬間、胸の奥で心臓が激しく脈打った。
「………ぅ。……ぐぁ……っ」
痛い。
燃える。
苦しい。
胸が引き裂かれる。
痛い。
瞳。
痛い。
痛い。
痛い。
熱い。
(……まさか、侵食消滅の異能が俺の魔力を喰らい破っているのか?)
すべての血管を沸騰した硝子が駆け巡るかのような激痛が、俺の意識を真っ白に焼き焦がしていく。
あまりの衝撃に、俺の左の魔眼の奥が焼けるように熱を持ち、意識そのものを侵食するほどの痛みが走った。
激しくのたうち回りそうになる俺の身体を、胸元に縋り付いたシルヴィアの手が必死に抱きとめる。
「……アル。……大丈夫ですか?」
俺の胸元に零れ落ちていた彼女の白銀の長髪が、俺の苦悶の息に合わせて微かに揺れる。
涙に濡れたサファイアの蒼眼を大きく見開き、俺の顔を痛々しそうに覗き込んでくるその瞳には、隠しきれない本物の動揺と、切ない温もりが剥き出しになっていた。
「…………!」
その瞬間、俺の頭の中へ、新たな魔法の力とイメージが鮮烈な濁流となって流れ込んできた。
そして、それと同時に流れ込んできたのは、シルヴィアの想い――。
俺を絶対に失いたくないという痛いほどの執念が、俺の真祖の血と完全に噛み合っていく。
「…………アル? あなたのその瞳……」
驚愕に震えるシルの声が鼓膜に届くと同時に、あれほど脳を焼き焦がしていた痛みが、嘘のように引いて消え去った。
「……どうなってるんだ? 俺には分からない」
俺はまだ自分に起きた変化を視認できず、かすれた声で問い返すことしかできない。
「右目は、真紅のままなんですけど……左目が白銀になっています。違和感はないですか?」
信じられないものを見るように、シルヴィアがそのサファイアの双眸を大きく見開いて俺の左目を見つめている。
あらゆる魔力を無に帰す、彼女の拒絶の力と同じ銀色の輝き。
「……大丈夫だ」
視界に淀みはない。
それどころか、深く傷ついていた右腕と右足が超再生の熱を帯びて蠢き、腹の穴が瞬く間に塞がっていく。
それと同時に、シルヴィアの貫かれた右肩を白銀の魔力が包み込んでいく。
俺の新しい魔力が彼女の痛みを優しく融かすように、その負傷の痕を内側から癒やしていくのが分かった。
俺は自身の内に宿った未知の魔力を感じ取りながら、確信を込めて呟いた。
「……共鳴しているのか」
「……綺麗……ですね。……後は、お願いします」
サファイアの蒼眼をうっとりと潤ませ、シルヴィアは純粋な微笑みを俺に預けてきた。
「ああ、任せろ。負ける気がしない。……見ててくれるか、俺たちの力を」
俺は彼女を安心させるように、自信を宿した声を真っ直ぐに返す。
シルヴィアは、優しく微笑んだ。
「何の悪足掻きかしら。往生際が悪いわよ」
目の前から響くアイリスの冷淡な声音。
赤い髪を風に激しく揺らしながら、その曇りのない青紫色の瞳に殲滅の光を宿し、俺たち二人をまとめて消し飛ばさんと聖槍ミストルティンを真っ直ぐに突き下ろしてきた。
だが、今の俺には――先程まで見えなかった魔法の術式が、その因果の不条理な流れが、はっきりと見えている。
「……無駄だ。アイリス」
俺はシルヴィアを左腕で抱き抱えたまま、再生を終えた右腕を迫り来る純白の槍先へと真っ直ぐに突き立てた。
多重に展開されるのは、いつもの深紅の大扉ではない。
シルヴィアの侵食消滅の銀色の魔力を纏った、新たなる盾――。
白銀の防御壁が、俺と聖槍の間に立ち塞がった。
その瞬間、ミストルティンの純白の槍先が白銀の壁へと正面から衝突する。
空間そのものが爆発したかのような凄絶な衝撃が湖畔を駆け抜け、周囲の水面が大きく波打ち、木々の枝葉が一斉に揺れた。
それでも、俺の足は一歩も揺るがない。
あの「防ぐ過程を消し去る」はずの因果貫通の刃が、その白銀の防御壁の前で正面から完全に押し留められていた。
ミストルティンへと流れ込んでいた魔力が白銀の壁へ吸い込まれ、その力を受け止めるたびに、防御壁の密度が増していく。
やがて、純白の槍先はそれ以上、一歩も俺たちの側へ進めなくなった。
「……何よ、それ。随分と硬いわね」
初めて自らの絶対の矛を正面から完全に受け止められ、アイリスの曇りなき瞳に、隠しきれない本物の戦慄と焦燥が宿る。
「ああ、説明をしていなかったな? この盾は魔力を吸収してその分硬くなる。……意味は分かるな?」
俺は白銀と真紅のオッドアイの魔眼で青紫色の瞳を睨み、不敵な笑みを唇に浮かべる。
「…………」
アイリスは、何も答えなかった。
ただ、初めてその青紫色の瞳に、明確な動揺を浮かべていた。




