第11話 怪物
「……どういう……ことだ。何故、貴様は無事なんだ。いや、違う。魔道具が偽物だった? 私は騙されて……いた……のか!?」
無様に尻餅をついた姿勢のまま、ジュリアスは浅い呼吸を繰り返していた。
目の前にある現実を理解できない。
その事実だけが、彼の表情から余裕を奪っていく。
これまで積み上げてきた自尊心が、音を立てることもなく崩れていくようだった。
「ふむ。答え合わせをご所望か?」
静まり返った室内に、俺の低く鋭い声が落ちる。
「お、教えろ。どうしても納得できない。か、完璧だった、この計画は……あり得ない!!」
ジュリアスは現実から目を背けるように叫んだ。
「そうだな。まず、その魔道具だ」
俺は床に転がる香炉へ視線を落とした。
「俺――真祖の吸血鬼には効かない」
「……っ」
「普通の吸血鬼と真祖は、何もかもが違うんだ」
ジュリアスの顔から、さらに血の気が引いていく。
「……知識が足りていなかったな、ジュリアス王子」
「なん……だと!?」
ジュリアスは息を呑んだ。
その虚ろな視線が、ゆっくりとベッドへ向けられる。
死んだはずのメザリア。
そして、シルヴィア。
二人は何事もなかったかのように立っている。
「そう。後は演技をお願いした。ただ、それだけだ」
俺は淡々と告げた。
それ以上、説明する必要もない。
その時だった。
扉が開く。
そこに立っていたのは、氷藍色のドレスを優雅に纏った第一王女、アリシア殿下だった。
白磁の指先には、極小の魔法術式が淡く明滅している。
アリシアは床に這いつくばる実の兄を、冷たい瑠璃色の瞳で見下ろした。
「いいえ、まだですわ」
静かな声だった。
「……お兄様、廊下に誰もいないことに違和感はなかったのですか?」
「…………」
「それに、ベッドには血の一滴すら流れていない」
アリシアは一歩、ジュリアスへ近づく。
「よほど、ご自慢の計画が成功したと思い込み、歓喜に目を曇らせていらしたのね」
「……っ」
ジュリアスの顔が歪む。
その言葉は、計画そのものだけではなく、彼自身の慢心まで正確に突いていた。
アリシアの視線が、流れるように俺へ向く。
瑠璃色の瞳。
そこに浮かんでいたのは、ほんの僅かな皮肉だった。
俺は唇の端を僅かに歪める。
「……あ……、アリシア……っ。お前もか……っ」
ジュリアスは妹を見上げた。
その瞳の奥には、底の見えない恐怖が広がっている。
だが――
まだ終わっていない。
そう考えたのだろう。
ジュリアスの視線が、俺へ移った。
真紅の瞳。
魔眼を発動させた俺の視線を捉えた瞬間、その瞳に僅かな光が戻る。
「……っ!」
ジュリアスが立ち上がろうとする。
「まだだ!!」
声が震えていた。
「ならば、今ここで貴様の首を掻っ切り、『暴走した吸血鬼を私が正当防衛で討伐した』という筋書きに変えてしまえば、まだやり直せるのだ!」
そばに落ちていた剣へ手を伸ばす。
「虫ケラめ、死ねぇ――っ!」
ジュリアスが突撃してくる。
その剣先が、俺へ迫る。
俺は避けなかった。
黒い部屋着の袖から、左腕を静かに前へ差し出す。
刃が腕を捉えた。
次の瞬間――
左腕が肩から切断され、大理石の床へ落ちた。
鮮血が床へ広がる。
「……アル!!」
シルヴィアの悲鳴が、室内を震わせた。
「は、……ははっ!」
ジュリアスの顔が歪む。
「雑魚が! 他愛もない! 次の一撃で、その首を掻っ切ってやる!」
自分の刃が確かに肉体を断った。
赤い血が流れている。
その事実だけが、ジュリアスを再び勝利へ縋りつかせていた。
「これで私の筋書き通り――」
だが。
俺は何も言わなかった。
顔色も変えない。
ただ、自分の切断された腕を見つめる。
そのままジュリアスへ視線を向けた。
「――だからどうした?」
静かな声だった。
「ジュリアス王子。腕の一本を切り落とした程度で、随分と浮ついた顔をするのだな」
「な、あ……っ!?」
ジュリアスの笑みが止まる。
「なに……これ……?」
視線が、床へ落ちる。
「腕が……腕が落ちて、血が出ているのに……」
声が震える。
「なぜ……なぜ、そんな平然と笑って……っ!?」
その問いに答えるように――
床に広がった鮮血と、切り落とされた左腕が、真紅の魔力を帯び始めた。
血と肉体が、細かな粒子へ変わっていく。
それらは空中へ浮かび上がり、俺の肩口へ吸い込まれるように集まっていった。
失われた腕が、再び形を得ていく。
骨。
肉。
皮膚。
そして――指先まで。
数えられるほどの時間もかからなかった。
そこには、傷一つない左腕があった。
破れた袖だけが、先ほどの出来事を物語っている。
「…………」
ジュリアスは言葉を失っていた。
その瞬間。
俺の内側に眠っていた真祖の魔力が、静かに外へ滲み出した。
空気が変わる。
客間全体が、目に見えない圧力に包まれていく。
ジュリアスの呼吸が止まった。
「ひ……」
足が震える。
「あ……あ……」
目の前にいる存在を、もう人間の尺度では測れない。
「なん……だ、その魔力……」
ジュリアスの瞳が揺れる。
「怪物……」
声が掠れた。
「本物の……怪物だ……っ!!」
膝から力が抜けた。
ジュリアスは床へ崩れ落ちる。
剣を握る手にも、もう力は残っていなかった。
「――そこまでです。ジュリアス」
静まり返った客間に、メザリア女王の冷徹な声が落ちる。
「あ……母上……」
ジュリアスは床に這いつくばったまま、幽霊でも見るように母を見上げる。
「ジュリアス」
メザリアは静かに歩み寄る。
「その魔道具をこちらにお渡しなさい。それは、証拠として預かります」
女王の細い指が香炉を拾い上げる。
「アリシア。この部屋を封鎖しなさい。夜が明けるまで絶対に出してはいけません」
「承知いたしましたわ、お母様」
アリシアが頷く。
「ジュリアスもいいですね?」
「……は、はい」
「処分は、明日決めます」
「…………」
ジュリアスは何も言えなかった。
先ほどまで自分が握っていた剣も、王子としての誇りも、すべて床へ置き去りにされたようだった。
「さて、私たちは出ましょうか」
「ええ、そうしましょう」
俺はベッドの付近で、ひっそりと佇むシルヴィアへ視線を向ける。
「シルも、そこにずっと立ってないで、行くぞ」
「……はい」
シルヴィアは小さく答えた。
サファイアの瞳は潤んでいる。
小さな肩をすぼめ、俯いていた。
俺たちは客間を出る。
扉の前で、アリシアが立ち止まった。
その表情が変わる。
冷徹な次期女王の顔。
白磁の指先が、客間の分厚い二重扉へ向けられる。
「――吹き荒ぶ熱量を、静寂の深淵へ。その歩みを、不変の理の内に固定せよ。――アブソリュート・ゼロ――」
澱みのない詠唱。
指先に浮かんだ極小の魔法術式が展開する。
幾何学的な氷晶の線が扉全体へ広がり、白銀の霜が一面を覆っていく。
やがて扉は、分厚い氷の中へ閉ざされた。
「さて、明日のことについて打ち合わせしたいわ。アルノくんもいいかしら?」
メザリア女王の声が、俺たちへ向けられる。
「ええ、大丈夫ですよ」
「では私の執務室でお話しましょうか。行きましょう」
深夜の長い回廊を、俺たちはメザリア女王の部屋へ向かって歩き始めた。
静まり返った王宮。
その中で、俺は隣を歩くシルヴィアへ視線を向ける。
ベッドの傍にいた時から、彼女はずっと俯いていた。
「ジュリアス王子のことは……ショックだったよな」
実の兄から暗殺されかけたのだ。
取り乱すのも無理はない。
そう思って尋ねた。
だが、シルヴィアは小さく首を横に振った。
「……そうじゃないんです」
潤んだサファイアの瞳が、俺を見上げる。
「私、あの時アルが腕を切られて……」
声が震えた。
「守れなかったのが……悔しくて」
俺は黙って彼女を見る。
自分が傷ついたことではない。
俺を守れなかったことを悔やんでいる。
その指先が、服の裾を強く握っていた。
「……そういうことだったのか」
俺は小さく息を吐いた。
「確かに、あそこは台本にはなかったよな」
シルヴィアの瞳が揺れる。
「……腕だって元通りだ」
俺は左腕を軽く動かしてみせる。
「ただ、誰の血も流れないようにするためには、これが一番だと判断した」
そして、彼女へ視線を戻す。
「心配かけて、すまなかったな」
「……アル」
シルヴィアの頬が、僅かに赤くなる。
それでも涙は消えない。
彼女はそっと俺の左腕へ手を伸ばした。
指先が、破れた袖を掴む。
その指は微かに震えていた。
俺は何も言わず、その手を受け止めた。
隣を歩くメザリア女王が、そんな二人を静かに見守っている。
その口元には、母親らしい穏やかな笑みが浮かんでいた。
やがて、メザリア女王の執務室へ到着する。
鍵が静かに回り、重厚な扉が音もなく開いた。
深夜の王宮。
月光が差し込む室内の中央には、執務机が置かれている。
その上には、先ほどジュリアスから没収したフェリシテ聖教国の香炉が置かれていた。
メザリア女王は翡翠のドレスを揺らしながら執務机へ腰を下ろす。
俺たちもソファーへ腰を下ろした。
女王は卓上の物証を、紫翠の瞳で冷静に見つめる。
「結論から言うわ」
静かな声。
「これだけでは、グスタフまでは届かない」
「……なるほど」
「このお香は各国で広く知られ、流通している品ですもの」
メザリアは香炉へ視線を落とす。
「ジュリアスが個人で手に入れたものなのか。それともグスタフが関与して手に入れさせたのか。今のまま詰めても、知らぬ存ぜぬでシラを切られると思うの」
証拠はある。
しかし、まだグスタフまで届く証拠ではない。
「……なるほど。では、何か手があるんですか?」
「残念ながら、泳がせるしかないわね」
メザリアの瞳が僅かに伏せられる。
「……私の目の及ばないところで行われているわ」
「そ……それじゃ、またアルが狙われてしまうではありませんか……」
「そうね……」
メザリアが言葉を止める。
王宮の奥に潜む、姿の見えない闇。
再び俺が狙われるかもしれない。
その事実が、室内の空気を重くした。
だが――
その沈黙を破るように、シルヴィアが立ち上がった。
「お母様、アリシアお姉様……」
涙の残るサファイアの瞳が、二人を真っ直ぐに見つめた。
「それなら、私を、アルの側にいさせてください」
「……シル」
「アルが八番目の魔王として、あの古城へ赴くのなら……私をついていかせてください」
声が震える。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「……もう、自分のために腕を落とされるのを、ただ後ろで震えて見ているだけの無力な存在では、いたくはないのです……っ!」
その言葉を聞き、俺はソファーへ深く身体を沈めたまま、シルヴィアを見つめる。
「……待ってくれ」
静かに言った。
「それでは、本末転倒だ」
シルヴィアの瞳が揺れる。
「俺を守るためにシルが傷つくのは、間違っている」
俺は真っ直ぐに彼女を見る。
「俺は、シルが傷つくのを見たくないんだ」
「……アル」
「それに、俺はどんな敵だろうが負けない」
その言葉に、アリシアが腕を組んだ。
「そうですわ」
冷静な声音だった。
「シルヴィア、いささかその考えは早計すぎますわ」
正論だった。
だが――
二人の言葉を受けたシルヴィアの瞳から、涙が零れた。
「アル!!」
声が震える。
「私の思いだって分かってよ……っ!!」
涙を拭うこともせず、胸の奥から言葉を絞り出す。
「それに、私だって狙われてるんだから!!」
静まり返った執務室に、その声が響いた。
「…………」
俺は何も言えなかった。
潤んだサファイアの瞳。
震える肩。
それでも俺を真っ直ぐ見つめる視線。
今夜の毒薬の本来の標的は、メザリア女王とシルヴィアだった。
シルヴィアの言う通りだ。
彼女をここに一人で残しておくことのほうが、リスクが高い。
長い沈黙の後、執務机の奥からメザリアの声が響いた。
「アルノくん」
その声には、母親としての心配と、女王としての決断が同居していた。
「シルヴィアの言う通り、あなたの古城へ連れていってくれないかしら」
「……お母様」
アリシアが眉を僅かに寄せる。
しかしメザリアは首を横に振った。
「王宮内の闇が晴れぬ以上、シルヴィアをここに残せば、グスタフたちの次なる弱みとして利用される可能性が生じる」
そして、俺を見る。
「ならば、八番目の魔王候補であるあなたの側にシルヴィアを置いておく方が、安全ですもの」
「……」
「それに――」
メザリアの視線が、卓上の香炉へ向かう。
「吸血鬼用の毒薬を極秘裏に用意できるルートが、この王宮内にあるのなら……」
声が低くなる。
「シルヴィアをいつでも陥れられるだけの『最悪の用意』が、すでに整っていてもおかしくはないでしょう」
母親としての危機感。
それを女王としての冷静な判断へ変えていく。
「ここに娘を残しておくことなど、母親としても最高権力者としても、到底許容できることではないわね」
メザリアはそこで一度、シルヴィアへ視線を向けた。
「それに、アルノくんには教えていなかったけれど……シルヴィアの中には特別な力があるの」
「特別な力……?」
俺はシルヴィアを見る。
彼女自身も、僅かに目を伏せた。
「ただ、それは不完全なものでね」
メザリアは続けた。
「その不完全な異能の使い方を、あなたの側で完璧に鍛え上げて頂戴」
その言葉には、母親としての願いだけではない。
女王としての未来への計算があった。
「その力は、シルヴィア自身のためだけではないわ。いつか、この国を支える力になる」
俺はしばらく黙っていた。
そして、シルヴィアを見る。
涙の跡が残る頬。
それでも、俺から視線を逸らさない。
「……そこまで言われると、反論の余地もありませんね」
俺は小さく息を吐いた。
「ただ、一つ言うのであれば」
シルヴィアの瞳を見る。
「シルヴィアは、俺が絶対に護ります」
静かに言い切る。
「お任せください」
「アル……」
シルヴィアの瞳が大きくなる。
白い頬が、ゆっくりと赤く染まった。
メザリアはそんな娘を見つめ、紫翠の瞳を細める。
「では、今決まったことは二つ」
女王の声が、深夜の密談を締めくくる。
「グスタフは泳がせる。そして、アルノくんの側にシルヴィアを置く」
アリシアへ視線を向ける。
「私とアリシアは、今まで以上に警戒しておくわ。アリシア、いいわね?」
「承知いたしましたわ」
アリシアは腕を組んだまま頷く。
「……少し調べたいことが出来ました」
物証が、あの香炉だからこそ。
その背後にある流通経路や、王宮へ持ち込まれた経緯を調べる必要がある。
「そういえば」
メザリアがふと表情を緩めた。
「アルノくんの客間は使えなくなっちゃったわね」
そして、悪戯っぽく目を細める。
「……もうこの際、シルヴィアの部屋で我慢してくれるかしら」
「え……」
シルヴィアの顔が、一瞬で赤く染まった。
そして、俺の破れた黒い部屋着の袖を、そっと握る。
「ええ、まぁ……」
小さな声。
「我慢しますよ」
アリシアの口元が僅かに緩んだ。
メザリアも楽しそうに娘を見る。
俺はそんな二人を見て、苦笑した。
「……分かりました」
月下香の香りが、静かな夜の中に淡く漂う。
俺たちは並んで、シルヴィアの私室へ向かって歩き出した。
その一方で――
封鎖された客間の中には、ジュリアスだけが残されている。
誰もいない部屋。
白い煙を残した香炉。
そして、自分自身で崩壊させた計画。
夜が明けるまで、彼はその部屋から出ることを許されなかった。




