第15話 右腕
骨折の患者が来たのは昼過ぎだった。
石切り場で働く男で、足場が崩れて落下した。右腕の橈骨と尺骨の両方が折れていた——いわゆる両骨骨折で、骨の端が皮膚に近いところまで来ている。放置すれば神経を傷つける。整復が必要だ。
しかし問題は折れ方だった。
「ミア、中を見てくれ。骨の位置を教えてくれ」とアレクは言った。
ミアがしゃがんで目を細めた。「……骨が二本とも、ずれてます。下の骨の方が外側に——あ、先端が近い。皮膚まで一センチくらいしかないです」
「もう一本は」
「そちらは内側にずれてます。先端は丸い感じです、鋭くはない」
皮膚穿破のリスクは一本のみ。もう一本は単純ずれで整復可能。この情報があれば手術の優先順位が変わる。
「処置の順序を決める」とアレクは言った。「先端が鋭い方を先に整復する。ミアは処置中に骨の位置を継続確認してくれ。ずれが戻ったら教えてくれ——方向と残りの距離で」
ミアが頷いた。前のめりになっている。緊張しているのが分かる。しかし目の焦点は男の腕に向いていて、ぶれていない。
* * *
整復は一時間かかった。
前回の手術と比べれば短い。しかし今回はミアの役割が格段に大きかった。アレクが骨を押す角度を変えるたびに、ミアが「もう手前です」「今行き過ぎました」「そこ、合ってます」と報告した。
声が震えていた。手が震えていた。しかし言葉は正確だった。
「合いましたか」とアレクは確認した。
「……はい」とミアは言った。「二本とも、位置が戻ってます。先端が丸くなってます」
整復完了。あとは固定して動かさないようにするだけだ。添え木を当て、布で固定した。男が「痛みが引いた」と言った。
外に出た。ミアが後ろからついてきて、「先生」と言った。振り返ると、目が赤くなっていた。
「どうした」
「……私、役に立てましたか」
役に立てたか——アレクは考えた。今日の処置で、骨の位置の情報がなければ整復の順序が変わっていた。ミアの報告がなければ、皮膚穿破のリスクを見落とした可能性がある。今日の結果はミアがいたから出た。
「お前は俺の右腕だ」とアレクは言った。
ミアが、息を呑んだ。
その音が、はっきり聞こえた。ミアの胸が一度大きく上下し、次の呼吸が止まった。瞳が見開かれ、瞳孔の奥で何かが揺れた。両手が、もともと胸の前で握られていたのが、さらに強く絡んだ。指の関節が白くなった。
「嘘じゃない」とアレクは続けた。「診断補助として、お前の目がなければできなかった処置がある。今日がその最初だ。これからも続く」
ミアの口が、何かを言おうとして開きかけた。けれど言葉が出なかった。代わりに、目の縁から涙がこぼれた。一粒、二粒。それから止まらなくなった。
ミアは両手を胸に押し当てたまま、俯いた。肩が小刻みに震えていた。涙が土の上に落ちた。
「ありがとうございます、先生」
声が掠れていた。喉の奥で、何かを抑え込んだような声だった。
* * *
アレクは数歩離れて立っていた。
ミアが落ち着くまで、何も言わなかった。前世でも、若い後輩が初めて手術台で役に立った日、似た光景を何度も見た。誰かに認められた瞬間、それまで自分を守るためにかけていた重しが一度に外れる。涙はその反動だった。
しばらくして、ミアが顔を上げた。涙の跡が頬に残っていた。それでも、目には新しい光があった。
「先生」
「ん」
「私、これから、もっと役に立ちます。先生の右腕として、ちゃんと——」
「無理はするな」とアレクは遮った。「順番に覚えていけ。今日できたことを、明日も明後日もできるように」
「はい」
ミアが頷いた。袖で目元を拭った。それから、深呼吸をした。
「先生、孤児院に戻ります?」
「戻る」
ミアがアレクの斜め後ろを歩き始めた。さっきまでより、足取りが軽い。けれど時々、立ち止まりそうになっては、また歩き出した。
アレクは孤児院に戻り始めた。手を洗う。道具を片付ける。次の患者の可能性を考える。
* * *
数歩後ろを歩いていたミアが、かすかな声でつぶやいた。
「右腕……右腕か」
アレクには聞こえなかった。ミアにとっても、誰かに聞かせるつもりはなかったと思う。ただ確かめるように、もう一度だけ言った。
「右腕、か」
胸の中で何かが動いた。
それが何かは、まだミアにも分からなかった。ただ、温かくて、苦しくて、止まらないものだった。先生の右隣を歩く——それを誰よりもしたいと思った瞬間、心臓のあたりに、新しい場所が一つ生まれたような気がした。
ミアは小走りで、アレクの後ろを追った。アレクの背中が、夕日の中で、いつもより大きく見えた。
* * *
孤児院に戻ると、エルダが玄関で待っていた。
「お疲れさま。今日も無事だったね」
「無事だ」
エルダがアレクの顔を見て、それからミアの顔を見た。ミアの目が赤いのに気づいたが、何も聞かなかった。代わりに「お湯沸かしてあるよ」と言って、台所に戻った。
ミアが「先生、お湯——」と言いかけて、アレクの手を見た。指の付け根に乾いた血がついている。骨折の整復の途中で、男の皮膚が裂けかかった部分から滲み出たものだ。
「私、洗うの手伝います」
「自分で洗える」
「えっと……手伝わせてください」
ミアが、いつになく食い下がった。アレクは驚いた。それから、頷いた。
台所で、ミアが盥に湯を注いだ。アレクが手を浸した。ミアが布を取って、指の関節を一つずつ拭った。仕草は丁寧で、けれど力は弱かった——傷つけないように、という気遣いが伝わってきた。
「先生の手、大きいですね」
「ん」
「私の手と全然違う」
ミアが自分の手を、アレクの手の上に並べた。比べるように、一瞬。そして、すぐに引っ込めた。耳の先が赤くなっていた。
アレクは何も言わなかった。
* * *
夜、ミアが寝室に戻った後、アレクは記録帳を開いた。
今日の症例。両骨骨折、整復成功、皮膚穿破回避——それから「ミアの診断補助、独立して完全機能」と一行書いた。書きながら、自分の手が一拍止まった。
今日が、ミアにとって何かの境目だった。それはアレクにも分かった。けれど、それが具体的に何かを言葉にすることは避けた。前世でも、後輩の成長は本人の言葉で確認するものではなかった。傍で見守って、必要な時に必要な言葉をかける——それだけだった。
ランプの油が少なくなっていた。アレクは記録帳を閉じた。
窓の外、月が出ていた。明日も患者が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいいように、今夜のうちに道具を整える。それが医者の仕事だった。
第1章はここで区切りです。お読みいただきありがとうございます。
次章からは、教会との対立と令嬢シルヴィアの登場で物語が大きく動きます。




