5-12
研究所へ向かうべく、まずは王宮を抜けようと三分ほど隠し通路を駆けたころ、上層階で派手な破壊音がする。それに合わせて床や壁も微かに振動した。セルペはぎょっとして思わず振り返る。どう考えていても戦闘によるものだろう。先ほどの肯定は何だったのか。戦力差を考えれば隠密行動を是とする場面だろうに、とセルペは顔をしかめる。しかし加勢になど行けるわけもなく、こちらはこちらで進むしかない。
ひたすらに無事を祈りながら王宮の外へ出て研究所の入り口へと向かう。その間、敵に遭遇しなかったのは随分と幸いな、と考えたところでセルペは頭を振った。おそらくそれが運によるものではなく、彼らが派手に暴れてくれているおかげであることに思い至ったからだ。
確かに複数箇所が候補として上がっている。しかし最も可能性が高いのは玉座であり、時点で研究所奥だろう。出立前にペスカがそう言っていた。彼らもきちんと覚えていたのだろう。一刻も早く研究所奥にたどり着いて魔岩と核を破壊する。彼らに報いる手段はそれしかなかった。
敷地内をひた走り、研究所の入り口を潜る。中は無人であった。他三名の後を追う形でセルペはカウンター内から地下へと降りる。中の作りは四年前と変わっていない。しかし左右にある檻の中には何者も、そして一匹もいなかった。己がここにいたころは、そして以前訪れたときは、その全ての中に誰かがいた。彼らを、そして当時の自身を魔獣と呼ぶべきだったのか、それとも新人類と呼ぶべきだったのか、セルペは未だに分かっていない。
知っている場所なのにあまりに印象が違うことに気を取られたのか、セルペは気がつかなかった。前を行くチリエが急に踵を返してセルペの脇を抜けていく。驚いてセルペが振り返ると、ちょうど彼が敵に噛みついていた。さらにその後ろからも新人類が複数追ってきているのが見える。セルペも迎え撃とうと足を止めた瞬間、一歩引き返してきたチリエに体当たりをされる。そのまま彼は咆哮し、単身で新人類たちへ突っ込んでいった。セルペよりも先に理解した二人が反対方向、研究所奥へ向かって再度駆け出す。セルペは数秒、躊躇った。しかし意を決してその後を追った。
そこから先は最下層、最後の扉の前まで三人は邪魔なくたどり着くことができた。解錠を待つ時間すら煩わしく感じる。ひたすら背後を気にしながら数十秒、開かれた扉の先へ三人はなだれ込んだ。と同時にそれを目にする。当時と同じ場所に、巨大な緑の魔岩が鎮座していた。共生化に使われているものだ。そしてその隣には、ぽっかりと大きな空間が空いている。
「……ない」とセルペは呟いた。四年半前、確かにこの隣には、人間化に使われている赤い魔岩が設置されていた。片方だけが、別の場所に移動されている。
全ての研究の破棄を目的として来た以上、こちらも破壊の対象だ。ただしセルペが受け取ったアンプルは一つのみであり、共生化魔岩の核を破壊しても新人類たちに直接の影響を与えることはできない。これの破壊に今使ってしまっていいのか。それとも後回しにしてゼンゼロたち四人に合流したほうがいいのか。
セルペが戸惑っているとズボンの裾が引っ張られる。やれ、と言うことなのだろうか。腹落ちしないままポケットへ手を入れる。アンプルが指先に当たると同時に、背後からかけられた言葉にセルペは背筋が凍った。
「やっぱりそれが狙いなんだね」
駆け巡っていた全ての思考が停止し、脳内が警戒一色に染まる。振り返った先にいたのはコッコ・ドリーロであった。紺青色のドレスにはいくつもの大きな黒い染みができている。布とレースをたっぷり使った袖と裾を揺らしながら、彼女はゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「なんで君が魔獣を従えているのかはよく分からないけど。あいつの研究? 死んじゃったからまあいいけど」
言い終わると同時にコッコは右手から何かを放った。投げられたものはセルペの足下へ落ちる。魔獣の頭部だった。それがチリエの、足止めを買って出てくれた仲間のものであることは、一目見ただけで分かってしまう。
「私の目を盗んで魔岩を壊そうって魂胆だろう? 無理だよ。人間化の魔岩はもう存在しないからね。周囲の岩石部分は砕いてしまったんだ。そして中にあった核だけど、ここにあるよ」
彼女は自身の首元、ドレスの襟へ手をかける。そして大きく左右へと引き裂いた。露わになった胸元の皮膚は灰色の鱗に覆われている。その中央より少し左に寄った位置には、当然人間化器具が装着されていた。しかしそこにある石は赤い魔石ではない。乳白色の鉱石だ。そこにはまるで血管のように赤い線がうねうねと張り巡らされている。それは核だった。四年半前、ここで見た魔岩の中央にあったそれと同一のものだった。
セルペとペスカで彼女の気を引きつけている間に、他五名が王宮を捜索、可能であればその場で破壊。そんな作戦だったのだ。王宮敷地内のどこかに魔岩が設置されている。そこに疑いを持っていなかった。コッコとの対決は避けて通れない道だったらしい。
セルペは右足を半歩下げた。両足でしっかりと床を踏みしめて構える。彼女の出方を見るべきか、それともこちらから仕掛けるべきか。コッコの動きを一瞬でも見逃すまいと睨みつけるセルペの視界に、背後からそれが現れた。真っ先に動いたのはメラだった。飛びかかっていった彼を、コッコは右手一振りであっさりと往なす。彼女の背後へと弾き飛ばされていくメラの胸元から、キラキラと青い欠片が散っていった。
「メラさん!!」とセルペはとっさに叫ぶ。コッコの背後で、魔獣の姿からボコボコと変形していくメラの様子を視界に捕らえながらも、うかつに動くことはできない。
「なんの魔石か知らないけど、あれがなければ従えないだろう? やさしいでしょ殺さないなんて。元は同じ魔獣だもの。仲良くしたかったのにね、君とも」
まあさっきのは殺しちゃったけど、と続けながらも、コッコは後ろはもちろん床に転がるチリエの頭部も見向きしない。
にやりと笑いながらセルペへ向かって一歩踏み出してきたところで、彼女の足を人間の手が掴む。姿が戻ったメラが、這いつくばって右手でその足を掴んでいた。ちらりと視線を地へ落としたコッコは、少しだけ驚いたような顔をした。
「ああ、メラって君か。えー? 生きてたの?」
メラの顔面めがけて彼女は反対の足を奮う。とっさに避けているが爪がかすったらしい。頬から血が流れ出したが、メラは負けじとその足を掴んだままだ。
「魔獣を従えてるんじゃなくて、人を魔獣にしているんだあ。へえ」
蔑んだ表情でメラを見下ろしていたコッコだが、急にその表情が固まる。どうやらやっと気がついたらしい。
「待って、君があの日連れ帰ったのってこいつ? あのほら、研究所にいたあいつじゃなくて?」
コッコは顔を上げた。先ほど放り投げたチリエの頭部を見ながら、ぶつぶつと呟き出す。
「こいつも人間……こいつは、いや、殺したからいい。刑務所から出したあいつは自力で逃げてた? 一人だけじゃなくて、他も連れて」
コッコの手がゆっくりと持ち上がる。それは攻撃を目的としていない。その手は、大きな爪は、セルペの背後を指し示した。
「お前は誰だ? 王都から逃げ出した人間か? お前は、まさか――」
とコッコが目を見開くと同時に、メラがもう一度動き出す。彼女の足を掴んでいた右手を解いた。その中に持っていた、青い魔石の欠片を握りこんでコッコの足へと突き立てる。彼女は顔を歪めた。足下のメラへ蹴りを入れようとするもそれは外れる。転がって避けたメラが「絶対に殺させるな!!」と叫んだ。
「下がって!!」と背後の彼女に指示しながら、かばい立つようにセルペは右手を広げる。
その隙に「気づくのが遅かったな」と言いながらメラは立ち上がっていた。
「あいつはちゃんと言っていたぞ? お前が聞いていなかっただけだ。ペスカ・トルタ、チリエ・ブディーノと合流しろ。そしてロッチャ様を逃がせ、と」
「うるさい!!」
叫ぶと同時にコッコは右腕を振りかぶる。同時にセルペは駆けた。彼女の爪がメラを裂くほうが早い。しかしなぎ倒されるメラがきちんと腕でガードをしているのを視界に捕らえることができた。この隙に、とセルペも爪を奮うが、素早く振り返ったコッコはそれを片手ではじき返す。灰色の鱗はセルペの予想よりずっと堅かった。セルペの爪を受けとめはじいたコッコの腕には傷がついた様子がない。
しかし余裕綽々だったコッコの様子は豹変していた。怒りを露わにしながらセルペに向かって怒鳴りつけてくる。
「裏切り者が! こんな劣等種どもに肩入れしてなんになる!」
「裏切り者はそっちだろ。その劣等種に作られたくせに。なんのために作られたと思ってるんだ」
「あいつらの目的など知ったことか!」
数メートル先まで飛ばされたメラは、起き上がってこない。しかし駆け寄る隙はなかった。メラの怪我を確認するには、彼の様子を心配するためには一秒でも早くコッコを倒すしかない。
セルペは間髪入れずに攻撃を続ける。コッコはその半分を避け、もう半分を受け流してくる。そして隙を見つけては反撃を繰り出してきた。間一髪でそれを往なしながら、セルペの緊張は増していく。コッコの攻撃が、その身振りから、強い殺意を感じ取らずにいられなかったからだ。魔獣相手ならソルミラの山で何度も命のやりとりをしてきた。彼らが向けてくる殺意で慣れているつもりだった。しかしコッコの向けてくるそれは別物だ。自身が生きるために相手を殺すのではない。そこに含まれているのは憎悪だった。
「優れたものが治める。意識も性格も、姿形も、優れたものたちの都合に合わせて作り替える。そうして監視し管理する。人間側がそうしてきたんだ。人間化などと呼びながら、人間扱いなんてされなかっただろう。檻に閉じ込められていた十数年を忘れたのか?」
「だから人間を暴力で支配して家畜化するの? 彼らの望みは共生だったよ。確かにそれを目指していたよ」
どこが、と吐き捨ててコッコは一歩大きく踏み込んできた。左手で繰り出してくる突きを、セルペはとっさに斜め後ろへ下がって避ける。肉体こそ間に合ったが、零コンマ三秒遅れた上着にコッコの鉤爪が刺さり、裂かれる。そこからこぼれ落ちたのは、ポケットに入っていたアンプルだ。あ、とセルペが呟いた直後にそれは床に落ち、割れた。中にあった血液はガラス片とともに広がっていく。コッコはそれをわざとらしく踏みつけた。セルペを牽制するかのように、じっとりと睨め付けてくる。
セルペは一度攻撃の手を止めた。しかし構えは解かない。コッコをしっかりとにらみ返した。
「お前は見向きもしなかったけど、少なくともソルミラで俺は共生してたよ。地方にはそれがあった。ちゃんと共生の芽は出ていたよ」
「それは人間側の理想でしかない。だから私が変えた。魔獣のための国にする。そのためにこうして核も取り込んだ」
「無理だよ。お前にはできない」
セルペの即答がよっぽど気に食わなかったらしい。ざり、とコッコの足下でガラス片の擦れる音がする。そのまま彼女は仕掛けてきた。奮ってくる爪の軌道は随分と大ぶりで、乱雑で、そして憎しみに満ちている。
「お前は自分自身のために取り込んだ。自分のためのことしかできない。魔獣のためなんて詭弁だ」
彼女が繰り出す攻撃の気迫に、怖気立ちそうになる心を理性で必死に押さえつける。彼女は手を止めない。勢い任せにしか見えないのに、セルペは避けるので精一杯だった。間に合わないととっさに受け止めた手が衝撃の重さに痺れる。それでもコッコは止まらない。ひたすらに踏み込み、セルペを切り裂こうと腕を振るい続ける。
「なぜそう言い切れる? お前に何が分かる!?」
「俺、一番だよ? 一番古くからこの研究所にいたんだよ? なのにお前は、俺の名前すら覚えてないじゃん」
怒濤の攻撃を後ずさりつつ耐えながら、セルペは必死に反撃のチャンスを狙う。しかしそれが見つかるよりも先に、セルペの姿勢が崩れた。背後の、打ち壊された机の残骸に、半歩下げた左足が取られる。しまった、と見開いた目に、コッコの鋭い鉤爪が映る。それは間違いなくセルペの喉を切り裂こうとしていた。避けきれないことを悟った瞬間、視界が茶色一色に覆われる。絶対に殺させるな。あのときメラは確かにそう叫んでいた。飛び出してきたロッチャの体に爪が食い込む。切り裂かれていく。コッコが振り抜いた腕に合わせて、血が吹き出し宙に舞う。その全てが、セルペにはコマ送りのようにゆっくり見えた。だからその向こうにあるコッコの顔が驚愕の表情を浮かべていることも見逃さなかった。
心配も、後悔も、反省も、全ては数秒後の自分に押しつけよう。
地へ落ちていくロッチャへ、セルペは見向きもしなかった。コッコと己の間を舞う赤い飛沫へ向かって右手を突き出す。そして左足を一歩踏み込んだ。そのまま真っ直ぐ、彼女の血を纏った爪をコッコの胸元めがけてひたすらに真っ直ぐ突き刺した。到達した瞬間、鉱石としか思えない、堅い感触が爪の先から伝わってくる。なのに肉にでも突き立てたかのように、ずるりと奥まで到達した。核の中で指先を曲げる。抉るようにして、セルペは下方向へその手を振り抜いた。乳白色の核から、信じられない量の血が飛び散る。まるで水風船でも割ったかのように。
異様な感触に戦慄するセルペの耳に届いたのは絶叫だった。コッコの引き攣る喉が苦痛を、落ちた顎が絶望を、見開いた目が恐怖を示した。セルペは確かにそれを見た。しかし共有することはできない。
コッコの叫びが止み、事切れ、地に伏す。セルペはそっと自身の胸元に手を当てた。拾い、共鳴し、増幅するはずのそれは、半年も前に自身の手で砕いている。
彼女の死を確信したセルペは一つ息を吐いた。直後に「きゅう」と弱々しい鳴き声が足下から聞こえる。
「大丈夫ですか!?」とセルペは慌てて屈んだ。魔獣姿のままのロッチャは薄目を開けてもう一度鳴く。失礼します、と言いながらセルペは彼女の傷を確認した。出血量は酷かったが、そう深くは抉られていない。おそらく命に別状はないのでは、と思いながらセルペは上着を脱いだ。止血のためにそれで傷を押さえる。そのまま顔を上げて「メラさん!!」と叫んだ。やがて瓦礫の山の中から、天に向かってゆっくりと腕が伸びてきた。大きなひっかき傷からだらだらと血が流れ出ている。でもその手は確かに左右へゆらゆらと動いていた。




