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侯爵の屋敷から少しばかり離れた位置にあるこの店は、飯ではなく酒を嗜むための空間だ。本来であればメラが気軽に利用するような店ではない。しかし定時と同時に嬉々とした様子のヴェルドに捕まり、見事に連れてこられたのが二時間前のことである。レンガ造りでやたら薄暗い店内は随分と静かで、グラスと氷がぶつかる音すらよく耳に届く。他の客は身なりからして身分の高そうな者ばかりで、メラは肩身が狭い思いでちょこんとカウンターに腰掛けていた。こんなところで泥酔するわけにはいかないのでチマチマとグラスを舐めるばかりだが、隣のヴェルドは大変上機嫌で酔っているらしい。ゆらゆらと左右に振れている彼の頭を眺めながら、メラは「飲み過ぎですよ」と声をかけた。
「だからあ! 敬語!」
と言い返してくるも気分を害するほどではないらしい。でもさあ、ほんとさあ、と気持ちよさそうにグラスを揺らしている。
「メラのこと連れ戻してよかったよ本当に。四年って! 十年以内にできれば上々、とか言われたのに!」
これを言われるのは本日八回目である。そのまま続く話もやはり何度も聞かされたものであり、メラは適当に聞き流しながら相づちを打った。それにしても、ここまで楽しそうなヴェルドを見るのはいつ振りだろうか、と過去を振り返る。おそらく学生時代振りではないだろうか。こうも酔いが回っているなら、聞けるかも知れない。ヴェルドがグラスに口をつけた隙をついて、メラは「あの」と問いかけた。
「ずっと気になってたんですけど、なんで俺を連れ戻したんですか?」
確かに尽力はした。メラ自身、全力で貢献した自覚はある。しかしメラにしかできない仕事ではなかっただろう。実際にメラと同じ立場で同じ仕事をしている職員は複数存在している。メラが別の者と入れ替わったとして、年数こそもう少し掛かっただろうが達成されない目標ではなかっただろう。
ヴェルドは面食らった顔で黙ってしまった。暫く静かにグラスを傾けていたが、やがて「もう一回チャンスをあげよう、ってあのときは思ってた」と零す。
「今度こそ僕の言うことを大人しく聞くなら、不問してあげようって思ってた。あの頃のことは許してなかったよ。一人で嗅ぎ回って引っかき回すつもりなのか、メラは僕の邪魔するつもりなのかって。でもなんか多分、違ったみたい」
「……なにが」
「聞いてくれれば教えてあげたよ、あのとき。メラが一人でやろうとしてたのが悲しかったんだろうなあ。僕が関わっているのを知っていたのに、なんにも言ってくれなかったから」
それは、とメラは言葉に詰まる。当時のメラだって、別にずっと黙っているつもりはなかった。ただヴェルドを巻き込みたくなかった。それともう一つ。
「怖かったんだよ。お前が……、お前に、関わるなとか言われたら」
「だから!!」と大声とともにヴェルドは力強くグラスの底でカウンターを打った。直後に店内へ静寂が訪れる。しまった、と言わんばかりに彼は顔をしかめた。そして声のトーンを落とす。
「あのときメラがすぐに聞いてくれれば、僕はそんなこと言わなかったよ。それどころか、時が来たら全部教えて、今みたいに一緒にやろうと思っていた。なのに一人で嗅ぎ回って、出世できるようにこっちが手を回してるのに首が飛びそうなこと平気でやってさ。それで僕には何にも聞いてくれなかったから、何にも言ってくれなかったから」
「……そうか」とメラは呟いた。裏切られたと思っていた。むしろ信じていなかったのは己のほうだったらしい。一度だけグラスの中身を舐め、メラは「悪かったな」とヴェルドへ謝罪の言葉を口にする。
「なんでメラが謝るの。散々酷いことしたのはこっちだよ」
ごめんね、色々と。とヴェルドは続けた。長かったな、とメラは思う。ともに過ごした時間と同じだけすれ違ってしまっていたらしい。そしてまた、仲直りなんて言葉を丸々飲み込むにはお互い歳を重ねすぎた。そこですっかり会話が途切れてしまう。静かにグラスを傾けるしかないメラの意識へ、周囲の音がよく届いた。店の外からバンバンと爆ぜるような音が鳴っている。とはいえそれなりに距離はありそうだ。しかしそれがなんの音なのか、メラには検討が着かなかった。
「景気がいいなー花火かな? 研究所か王宮でも祝ってるのかも、僕たちの素晴らしい功績を」
気まずいのはお互い様らしい。ちょけるようにヴェルドは急におどけた声で言った。そんなわけないだろ、と反論しつつメラは席を立って、窓の外を覗いた。音の方向的に南側だろう、と見当をつけて外を望む。ぼんやりとした月明かりの下には、普段通りの王宮がそびえ立っていた。音の元凶は見当たらない。数秒観察して、メラはやっと違和を掴んだ。月と、王宮の一角が黒いモヤで隠れていく。なんだ、と目をこらしてさらに数秒後、塀の下から徐々に王宮が明るくなっていった。
「いいものでも見えた?」
相変わらずおどけた様子を崩さないヴェルドに対して、メラの心境はすっかり緊張に包まれていた。思考回路は完全にそちらへ気を取られ、よってヴェルドへの返答は随分と端的で簡素になる。
「燃えてる」
「なにが」
「王宮が」
何言ってんの、と半分笑うような声で言いながらヴェルドは席を立った。そうしてメラと並び立ち、窓の外を見る。その頃にはもう明白であった。メラの勘違いと笑い飛ばすことは不可能だろう。濃紺の夜を背景に、王宮へ広がる炎は煌々とその存在を主張していた。ぽかんと口を開け、ヴェルドは王宮を指さした。そしてゆっくりメラへ向き直る。
「……なんで?」
「……俺が知るわけないだろう」
状況が飲み込めないまま二人は店の外へ出る。当然他の人たちも気がついたらしい。周囲の建物から徐々に、やはり皆困惑した表情で通りへと出てきた。少しずつ、しかし確実に王宮の炎は範囲を広げていく。首を傾げつつ、こそこそと疑問を口にしながら、通りにあふれる民衆は皆揃って王宮を見上げていた。メラとヴェルドも同様である。
「何が起きている……? 誰が……?」
独り言のようにぶつぶつ呟いていヴェルドはやがて「研究所は……?」と口にした後、唐突に彼は走り出した。王宮を眺める人混みをかき分け、むしろ彼らを押しのけるようにみるみるうちにその場を離れていく。
「おい!」とメラはとっさに叫んだが、止めるよりも先にヴェルドは王宮方向へ消えてしまった。追うべきか? とメラは焦りながらも悩む。どう考えても危険だろう。事件なのか事故なのか、それすら判断がつかない。燃える王宮へ赴いて、己にいったいなにができると言うのか。しかし冷静さに欠ける様子のヴェルドを一人で向かわせるのが得策とも思えない。追いかけて止めるべきか、と逡巡しているうちに今度は背後から、王宮とは反対方向がやけに騒がしくなってくる。振り返ってすぐのメラは状況が飲み込めなかった。やがて喧噪が大きくなり、向こう側から人が走って押し寄せてくる。遠くから聞こえる悲鳴に混ざって「魔獣だ! 逃げろ!」と叫んだだれかの声をやっとメラは耳で拾うことができた。この混乱ぶりは凶暴化か? とメラはとっさにあたりをつける。共生化は全国への普及とともに、王都でも完全に日常に馴染んでいた。共生具をつけた魔獣がそのへんにいるのが当たり前になっている。よって魔獣が現れただけではこんな混乱が起こるはずがない。しかし王都では、三年前を最後に凶暴化は観測すらされていない。それが急に、それも街のど真ん中にいる状況はにわかには信じがたい。
なにが起きているのか、正確に認識するにはあまりにも情報が少なかった。その状況でメラは必死に自身が取るべき行動を考える。戦闘の心得はないから凶暴化魔獣の対処はできない。鉢合わせたら無残に殺されるだけだろう。王宮とは反対側、おそらく郊外から人が押し寄せてきているから、そちらに向かう選択肢はない。そこから遠ざかろうとすれば必然的に炎上中の王宮方向へ行くことになる。そこだって何が起きているのかさっぱり分からない。今分かっていることと言えば、ヴェルドがそこへ、王宮の敷地内にある研究所へ向かって行ったことだけである。
「行くか」とメラは呟いた。誰に聞かせるでもなく、自分自身に言い聞かせるために声にした。そして混乱する民衆をかき分け、王宮を目指して大通りを進んだ。




